執着衝動
調理場を後にした私は、お屋敷の中でメイン通路として使われているのであろう、広く長い廊下へと出た。ここを主軸として、左右対称に細長い廊下といくつもの部屋が配置されているようで、それは外から見てもすぐに分かる造形だった。
造り自体は分かりやすいが、流石に部屋数が多すぎる。どこに何があるのか分からない私にとっては、迷路とさして変わりはないだろう。丸腰で来ていたら危ない所だった。
そう、丸腰であれば――……。
「ふっ」
だが、今の私にはエリザにもらったメモがある。恐ろしいほど分かりやすく簡略化され、一目見ただけでどこに行けばいいのかが分かる地図付きのメモ。こればあれば、この迷路の中でも私は無敵だ。そう思えたら、らしくもない声で微笑を漏らしていた。
メモの指示通りにメイン通路の先にある吹き抜けの階段を上り、上ってすぐ右手に曲がる。手前から数えて1、2、3、4、5、6番目の部屋に向かおうとして、丁度そのタイミングで目的地である6番目の部屋から、自分と同じ格好をした年配の女性が出てきた。
「あら? エリザ、こちらに何用かしら?」
声を聞いてすぐにその人物が誰なのかが分かった。
彼女は、さきほど調理場で使用人達を叱責していたグリルダという人物だ。
私は、内心慌てつつも、平静を装って彼女の質問に答える。
「はい、グリルダ様。ごらんの通り、花の差し替えでございます」
「そのようですね。しかし――――」
その言葉の続きを待つ間、緊張のあまりゴクリと喉がなる。
「エリザ、あなたは本当に花の目利きがよいですね」
「……ありがとうございます」
私の礼を聞き届けると、彼女は、花を見つめる柔らかい表情から、業務に従事する凛々しい顔つきへと振る舞いを替え、一つの指示を出した。
「今日から指示があるまで、ご子息様の御部屋の花替えは結構です。分かりましたね?」
それは、さきほど調理場で使用人達に出した指示とまったく同じもの。
この言葉を、グレイシス様の身の回りのお世話をしている使用人全てに通達しているとするのなら……。
考えられることは一つ。
彼女は、グレイシス様が怪我を負っていることを知っていて、それを周囲に知られないように徹底した干渉を行っている。
それを裏付けるため、リスクを承知で私は尋ねた。
「承知しました。ですが、お部屋の中の花はどうしましょう? あのままでは枯れてしまいます」
「それは私が処分します。あなたが気にかける必要はありません」
誰も部屋には入れたくないという判然とした意思表示。
それは、紛れもなく彼女が秘密を保持している、という確証へと私を導いた。
「承知しました」
私が返事をすると、グリルダという人物は腑に落ちた様子で横を通り過ぎ、特に振り返ることもせずに吹き抜けの階段を下へと降りていく。
彼女のエリザに対する絶対的な信頼が、その行動の全てに表れているような気がした。
私は、誰もいなくなった廊下で一人胸を撫で下ろす。
あそこまで厳格にこの屋敷の住人のために動いている人が、グレイシス様の容態を知っているという実情。それが、まず真っ先に治療の手配を行っていることを想像させたからだ。
もちろん、彼が傷のことを誰にも告げず、ただ人払いをお願いしているだけの可能性も大いにある。
だが、それをグリルダという女性が理由もなしに受け入れることなどあるのだろうか……。
ここで得られた数少ない情報だけでは、それ以上判断のしようがなかった。
――さて、どうするべきか。
このまま私がグレイシス様の自室へと立ち入る行為は、結果として、グリルダという女性がエリザに抱く信頼を裏切ることに繋がってしまう。
自分ではない、他の誰かが被るかもしれない不名誉。そのリスクを知ってしまった今、迂闊に前には進めない。
「ふぅ……」
一つ、深呼吸。
それだけで逆上せあがった感情が、ひとまず落ち着いてくれるような気がした。
「ここまで、かな……」
……きっと、彼は大丈夫。今頃、適切な治療を受けているはずだ。
そう自分に言い聞かせつつ、私は静かに、6番目の部屋から遠ざかることにした。
その足取りのまま、さきほど通ってきたばかりの3番目の扉の横を通り過ぎる。
そして、2番目の扉の前に差し掛かる一歩手前――。
そこで、バタンッという何かが床に落ちる音がして、一瞬足を止めた。
音がしたのは後方。さっきまで自分が立っていたあの辺りだ。
……気のせい、気のせいだ、そうに決まっている。
もしくは別の部屋で鳴った音かもしれない、それに――――。
それに? そこから先を考えるよりも先に、身体は動いていた。
まるで、その音がトリガーであったかのように、それまで持っていた理性や、思考、配慮、全てを投げ出して私の足は床を蹴る。
心配だ。
だって。
今の私は。
どうしようもなく。
扉の先の人物に執着している。
溢れ出した衝動は、恐れ知らずにも留まることはなく、その勢いのまま6番目の扉に手をかけた。
ガチャリ、という鈍い音と同時に声を発する。
「大きな物音が聞こえましたが、大丈夫ですか!?」
それは、使用人エリザとしての言葉だったのか、それともただのメルヴィンとしての言葉だったのか。発した本人は、明らかに後者の心情だったが、受け取る側にとってのそれは、まごうことなき前者の発言でしかなかったのだろう。
「あ、ああ……」
ノックもなしに訪れた、使用人に対する戸惑いの声。
それを聞いた時ようやく私は、忘れかけていた理性を取り戻すのだった。
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「し、失礼しました!」
「あ、いや……。こちらこそ心配をかけた。ただ、机の上の本を床に落としてしまっただけなのだ」
「そう……でしたか」
視線の先には、彼がいた。
窓から差し込む光に照らされた銀色の髪。室内の暗さを映しだしている青色の瞳。
たったそれだけの光景が、思わず見惚れてしまうほどの高潔さを秘めている。
「…………なにか?」
思わず見入ってしまった私を不思議に思ったのか、グレイシス様は視線を合わせながら尋ねた。
「あ、いえ、その――――……」
何か上手い返しはないものかと視線を泳がせる。
泳がせた視線の先にあったのは、床に本が散らばっている光景。
それを見て、私は誤魔化すように声を上げた。
「それ、お取りしますか?」
「……ああ、頼む」
ぎくしゃくしたやり取りの末、私は彼の足元に転がっていたいくつかの本を拾い始めることにした。
その隣では、私とは違う方向を見ながら、青年が自らの本をぎこちない手つきで拾い上げている。
「あの! 全部私がお取りしますので、グレイシス様はその……休まれてはいかがですか?」
「休む? どうしてだ?」
「えーと……。私は使用人ですから、身の回りのお世話をするのは当然のことですので」
「そうか。だが、自分の所有物ぐらいは自分でなんとかしなくては、な。少なくとも床に落ちた本を取るくらいなら僕でも容易に出来る。まあ、今は利き手が使えぬゆえ、こうして手伝って貰っている訳だが……」
「素晴らしいお心がけですね」
「いいや、違う。これはせめてもの足掻きなのだ」
どこか暗い影を潜ませながら、グレイシス様はそんなことを呟いた。
使用人エリザとしてここにいる自分には、彼の発言にこれ以上踏み入ることは許されない。
私は、ただ黙々と、床に散らばった本を拾い続けた。
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