屋敷の中
「しかし、変な話よね……」
「ん? 何がだ?」
エリザの突然の呟きに、ポールは首を傾げた。
「昨日の今日とは言え、ご子息様がそのような状態なら、すでに屋敷内に周知されていてもいいはずなのに……」
「ああー。でも、まだ何も聞かされてないんだろ?」
「ええ、さっきメルヴィンにも伝えたけれど、今のところ私には何も知らされてないわね」
「そうか」
うーん、うーん、と唸り続けるエリザに、ポールは告げる。
「上が言わなかったってことは、言う必要がないから言わなかった。ただそれだけだろ」
「……まあ、それもそうね」
それ以上のことを考えるのは使用人の仕事ではない。そう思い至ったエリザはひとりでに口を噤んだ。
そこから両者無言の時間がしばらく続き、静かすぎる空気に堪えられなくなったポールが、何かを思いついたように口を開く。
「そういえばエリザ、お前なんであんなことが言えたんだ?」
「あんなことってどんなことよ……」
「私が保証するってやつだよ。会って間もない人間に言うようなタイプじゃないだろう。お前」
「あー、あれね。それはほら、あの方の友達だって聞いたし、それに……」
「それに?」
「特に根拠があるわけじゃないけど、目が合った時に思っちゃったのよ、私。ああ、この人はなんか違うなって」
「……なんだそれ」
「ちょっと、笑わないでよ! バカ!」
ポール・アベニュイはエリザの曖昧な言い回しに失笑を浮かべながら、一人思っていた。
不思議なもので、彼女もまた、エメットと同じようなことを言うものだ、と。
いまだメルヴィン・ローズという人間の底深さを理解できずにいたポールには、そんな二人が珍妙に見えてしかたなかった。
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喫茶店のある大通りを歩き、古びた橋を渡る。そこから枝分かれした道を右伝いに歩いて、後は道なりに真っすぐと歩いていくだけ。
エリザが記してくれた簡易的な地図が描かれている紙を持ち、美しく咲き誇る花束を抱えながら、私はただひたすらに歩いた。
――真っすぐな道の先にあるお屋敷。多分一目見てすぐに分かると思うわ。
というエリザの言葉通り、そのお屋敷は他の建物とは比べ物にならないほどの大きさと、目を見張るほどの装飾で、あっという間に私の視線を奪っていった。
間違いなくここだ。目にした瞬間、その、嫌になるほどの威光ぶりにたじろぎそうになる。
「ここまで来て、今更怖気づくなんて……」
誰にも聞こえてないからと呟いてみた弱音。
――――でも。
「少なくとも今の私は独りじゃない」
エメットにポール、そしてエリザ。彼らに助けられて、彼らに背を押されて、今自分はここに立っている。
だから、恐れからくる失敗も、不安からくる逃走も、今だけは眼を瞑って先へと進む。
独りではない、という安心感から生まれた特に根拠のない自信を携えて、私はアスタイン家の門を潜るのだった。
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外側から見えていた荘厳なイメージとは違い、この敷地の唯一の出入り口である門は、その見張りとなる門番共々、物静かで落ち着いた印象を覗わせた。
「エリザです。ただいま戻りました」
と告げると、おう、ご苦労様、という労いの言葉だけが返ってきた。
決して私が、エリザ以外の人間であることを疑わない、慢心の目。
それを掻い潜り、敷地の中へと入る。
ここに来て、ポールの言葉をまざまざと実感させられた。
日課のように毎日見る光景は許容されやすい、という人間の心理。どうやらそれは事実のようだ。
それ以降も、お屋敷の入り口や、廊下、階段などで何人かとすれ違う機会があったが、彼らは誰一人として、私という人間の存在を疑おうとはしなかった。
そうこうしながら、最初にエリザに指示された場所へと辿りつく。
場所は調理場。どうやら彼女はいつもここまで花を運び、そこから花を仕分け、お屋敷内の枯れそうな花々と差し替える作業を行うらしい。
私も彼女の指示通りに、調理場にある水回りまでやってくると、黙々と仕分け作業に打ち込んだ。
調理場では、夕食に向けての準備のためか、料理人と思わしき人達があくせくと動き回っている。
その中に紛れるように手元の花に集中していると、ヒソヒソとした話し声が聞こえてきた。
「今日も自室に籠りきりのようですね」
「まあ、今日は学園もお休みだしねぇ……」
「登園日でも、あまり通学されているのを見たことがないですし、グレイシス様にお休みはあまり関係ないのでは?」
「ここ最近はちょくちょく行ってるみたいよ?」
「え、本当ですか!?」
「ええ。だって私、制服姿でいるところを何度か目にしているもの」
「羨ましい!! 私も一度でいいからあの方の制服姿を拝見してみたいです……」
「それはそれは、眼福ものだったわ」
「むぅー! 次はお掃除当番変わってくださいよぉー!」
「嫌よ。毎日グレイシス様のお顔を拝見することが、ここでの唯一の楽しみなんだから」
「分かります。分かります。一度でいいからあの透き通るような瞳に見つめられてみたい……!」
話し声の主達は、どうやらエリザと同じこの屋敷の使用人らしく、今、私が一番気にかけている人物のことを和気あいあいと話題にしていた。
話の流れから察するに、グレイシス様が手を負傷していることを使用人達は知らない様子である。
誰も、知らない――――。
そのことが余計に私を不安にさせた。
秘密裏に処置をしたのか。それとも、いまだ彼は痛々しいあの傷を独りで抱え込んでいるのか。
ヒントが一つもない以上、そのどちらの可能性も否定はできない。
前者であればいいのだが……。場合によっては、やはり自分の目で確認するのが最適かもしれない。
そんなことを考えながら手を動かしていると、流石に話し声が大きすぎたのか、さきほどから他愛もない会話を続けていた使用人達に、叱責の声が飛んだ。
「あなた達、無駄話が過ぎますよ」
それは低く、けれどどこまでも響く、落ち着いていて冷たい声。
後ろを振り返らずとも、声の主に反応する使用人達の会話だけで、その人がどのような立場の人間かが理解できてしまった。
「グリルダ様、申し訳ありません!」
「あなた達がここでするべきことはなんですか?」
「お屋敷とそこに住まれる方々のお世話です」
「そう。あなた達はそのことにだけ集中すればいいの。主に対しての無用な詮索は必要ありません」
「「はい! 気を付けます!」」
グリルダと呼ばれた人物は、その話しぶりからして使用人達のまとめ役といったところだろう。
彼女は、無駄話に花を咲かせていた使用人達が反省したのを見ると、今度は少し声のトーンを抑えて、一つ指示を出した。
「ところで……ご子息様の御部屋の掃除担当はあなたでしたね?」
「はい! そうです。私で間違いありません」
「そうですか。今日から当分の間、私からの指示があるまで掃除は結構です」
「……え?」
「返事は?」
「あ、はい!」
「よろしい――」
使用人達の疑問など一蹴する勢いで、グリルダという人物は用件だけ告げると、調理場から去っていってしまう。
その後、すぐに先ほどと同じヒソヒソとした会話が再開されたが、流石に彼女達も懲りたのか、一言二言のやり取りだけでその場を収めた。
出来ればまだ会話を続けていて欲しかったが、終わってしまったものは仕方がない。
花の仕分けを終わらせた私は、これまで得た数少ない情報を頭に入れつつ、行動を開始することにした。
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