溜息一つ
しばらく二人で無言のまま歩き続け、気が付けば東の寮へと辿りついていた。
染み渡るほどの静けさが広がる夜空へと視線を移す。
喧騒や、しがらみから切り離されたようなこの空間と、二人の関係に名残惜しさを感じていると、隣に立つグレイシス様がおもむろに口を開いた。
「今回の騒動の一端を担っている仲介役のことも含めて、こちらでもう少し探りを入れてみようと思う。だからどうか、今日のところは気を休めて欲しい」
穏やかな口調で紡がれた言葉。それは、アランのことで動揺していた私への、青年なりの気遣いだったように思う。私なんかよりもよっぽど、自分の方が痛い思いをしているだろうに――。
その思いを胸の内に留めて、私は彼の厚意に対してのお礼だけを告げることにした。
「あの……。何から何まで、本当にありがとうございました。家のことも含めて、どうお礼をしたらいいか……」
「僕と君は対等な友人なのだから、遠慮は不要だ。僕はただ、友人の窮地を救っただけ。それだけのことだ」
「そう、ですかね……?」
言われてみればそんな気がしなくもないが、なんだか腑に落ちない気がしなくもない。
「それに今回の件は、僕にとっても利得はあった」
「手の怪我のことを考えれば、明らかに損失しかないように思えますが……」
「いいや。それに勝る貴重な経験を得られたのだから、結果としては上々だ」
「公の場に顔を出したことですか?」
「そうではない」
「定期舞踏会で踊ったこと、とか……」
「君とのダンスは、確かに有意義なものだった」
だが、はずれだ、と意味深な笑みを浮かべながら青年は告げる。
……まさか、アランが起こしたあの緊迫した状況のことを言っているのだろうか。
確かにあれは、普段の生活では味わうことの出来ない、一種のスリルを味わうことが出来たとも言えるのだろう。だが、もしそうだった場合、危険な状況すらも貴重な経験と一括りにしてしまえるグレイシス様の感覚の方に問題があるように思えて、私は居ても経ってもいられなくなってしまう。
「……確かにあれは貴重な経験とも言えますが、グレイシス様、その認識は改めた方がいいかと!」
「メルヴィン嬢、君は一体何のことを言っているのだ?」
「えーっと、その…………」
どう説明すれば失礼にあたらないか考えを巡らせていると、ふいに右手が温かくなるのが分かった。
不思議に思い視線を下げる。と、そこにあったのは、私の右手を青年の左手が支えている光景だった。
「………………」
状況はすぐに飲み込めたが、残念なほどに思考が追いつかない。
確かに。確かに何度か、青年に触れたことはある。私が激怒して礼拝堂を後にしようとした時とか、地面にへたり込んでしまった時とか。それに、定期舞踏会のダンスはそうすることが前提なわけで――。
でも、それらは全て、ある意味では必要に迫られてと言える行為だった。けれど、今回は違う。
確実に、意図して、青年から左手が差し出されているのだ。
つまりそれは――――――。故にそれは――――――。それは…………。
「メルヴィン嬢」
「はい!」
「今夜の君のドレス姿は、本当に美しかった」
「え……?」
「僕は今日、それだけで十分なのだ」
混乱した頭で返事をするのがやっとの私に、青年は満足そうに告げる。
その言葉の意味を理解する頃には、自分の顔が熱くなっているのが分かった。
この熱は、手から伝わる体温のせいなのか、それとも自らの体温によるものなのか。思考能力の限界を迎えた私の頭では、最早考えること自体が無意味だったと言える。
「さて、君を目的地まで送り届けることは出来たし、僕はそろそろ行くよ」
グレイシス様は、先程までのやり取りに一区切りつけるように呟いた。
「はい……。あの! 手、ちゃんと見せてくださいね」
「もちろん、約束は守ろう」
「お願いします」
「ではメルヴィン嬢、よい夢を――――。今日はとても楽しかった」
どこか寂しそうに、けれどどこか嬉しそうに別れの挨拶を済ませると、青年はそれまで支えていた私の手の甲に、軽い口付けをして去っていく。
青年の後ろ姿を見送る私の顔は、依然として、まだ熱かった。
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「はぁ……」
会場の中に一人取り残されたエメット・ブラウンは深いため息をついた。
そのため息は、自分のためのものではなく、親愛なる友人を思ってのものだ。
友人であるメルヴィン・ローズからチラリとだけ聞いていた話の人物が、まさかあのアスタイン家の嫡男だったとは――。
上流階級の者達と幾分か繋がりのある自分にも、その人物を想像することは出来なかったであろう、と彼女は思った。
確かに納得は出来る。友人であるメルヴィン・ローズは、その出自を除いて、誰もが羨むほどの素質を持っている人間だ。気品があり、多くの者達の目を引き付ける才を有していながら、それを本人が自覚することなく静かに、謙虚な姿勢を崩さない。
その在り方を美しいと思ってしまった瞬間に、自分はある意味、彼女の虜になっていたのかもしれない、などと出会ったばかりのことを思い出してエメットは口元を緩ませた。
「エメット、待たせたな」
「ええ、とても待ちましたわ」
「そう言わないでくれ。これでも上流民の端くれなのでな、顔見知りへの挨拶は最低限のマナーなんだよ」
「それはよく分かっています。あなたは知り合いも多いようですしね。ですから、私が口にしたのは率直な感想です。お気になさらず」
エメットに声をかけたのは、彼女の婚約者であるポール・アベニュイである。彼に対してエメットの当たりが強いのはいつものことで、普段お淑やかな印象の強い彼女が、誰かに対して強気に出るのはある意味珍しいことでもあった。
「そうですか。そうですか」
それが分かっているように軽い返事をするポール。
エメットはそのことが気にならなかったと言えば嘘になるが、彼女の頭の中は今、婚約者の態度よりも気になることで一杯で、それどころではなかった。
「ん? エメット何か考え事か?」
「よく分かりましたね」
「まだこれだけ人が残っている中で真顔になるなんて、普段の君には考えられないことだからな」
「あら……」
定期舞踏会が終幕へと近づく頃には、会場に残された人の数は疎らとなっていた。その理由は単純で、出席者の多くが自らの目的を果たし終え、もうこの場に利用価値が無くなってしまったと悟ったからだ。
「先程のメルヴィンさんのことか?」
「正解です」
「相手はあのアスタイン家の人間だぞ。何が問題なのか……俺にはさっぱりだな」
「だから問題なのですよ。ポール、あなたはそれでも上流階級の人間ですか?」
「面目ないことに、俺の上流階級という立場は形だけで、肝心の中身は全く伴っていないんだよ」
「自慢できることではありませんよ……」
エメットは呆れながらも言葉を続ける。
「王侯貴族とされるエインラッド家、コーリンス家、アスタイン家は、王族と共にこの国の礎を築いてきた一族の集まりです。もちろん国内においての王族の権威は絶対ですが、王侯貴族とされる三家には、そんな王族にすら意見を言える権利が約束されています」
「王族が偉いという形式を保ちつつも、本当はその三家が影の権力者だったって話か?」
「いいえ。そうであれば、私だってもう少し楽観視できましたわ……」
伏し目がちなエメットに、ポールは泣き言を呟いた。
「分かった。もうお手上げだ。もともと回りくどい話は得意じゃないんだ。頼むから、結論を教えてくれ」
「あらあら……。
では、手短に。あくまでも王族は王族。その権力は守られなければなりません。ですから、その為の仕組みとして、王侯貴族は一家ではなく三家あるのですわ」
一瞬優しい表情を見せたエメットは、その後すぐに辛辣な顔に立ち戻り、最も単純で最も冷淡なことを口にする。
「なるほど……な。それは確かに、その家々のどれかと関りを持つこと自体が厄介に思えてくる話だ」
小難しいことが苦手なポールにも、流石にその意味は理解できたようで、どこか腑に落ちた様子を見せた。
「メルヴィンに、このことを教えてあげるべきでしょうか?」
「エメット、それは無粋というものだ。それに……君の話によく出てくるメルヴィンという人なら、自分の力でどうにか出来るだろう」
「ポール、さんを忘れていますよ」
「これは失礼」
「後、根拠のない助言をありがとうございます」
「それは、どういたしまして」
一つ嫌味を言いつつも、エメットはポールの言葉に納得していた。
そう。自分の知るメルヴィン・ローズという人間は、誰かの支援がなくとも一人で立つことの出来る、とても強い人だから。
だから今回も、彼女を信じて見守ることにしよう、と一人決意するエメット・ブラウン。
決意と共に漏れた言葉は、本人にも意外なものであった。
「悔しい、ですわ……」
「どうしたんだ? 急に」
「メルヴィンが頼った相手が私でないことが、悔しいんですの!!」
「あー……。ははは、そういうことか」
「笑いごとではありません!」
「まあ、でもそれはきっと、仕方のないことなんだろう」
一人で分かった気にならないでください! と感情的になるエメットの隣で、一人ポール・アベニュイは考える。
仕方のないことなのだろう。
誰かに溺れるということは、自分の理性すら忘れてしまうということなのだから。
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