激情沈溺
「僕は、僕は……なんて、ことをしてしまったんだ……」
目の前にポタリ、ポタリと落ちる赤い水滴を瞳に捉えて、アランはようやく事の重大さを理解したようだ。震える手でナイフの柄を握りながら、滑り落ちるように地面へと膝を付く。
「理解できたのなら、もう何も言うまい」
そう言ってグレイシス様は、ようやく、食い込んでいた刃先から手を引き抜いた。
月の光に照らされた彼の手は、透き通るほど白く、だからこそ赤い血が映えて余計に痛々しく見える。
何か、彼の手を止血できるものを――――。
咄嗟に思いついたのは、泳がせていた視線の先にあったドレスの裾。
それを躊躇せず、思いっきり縦に破いた。
布を切り裂いた部分から片足が剥き出しになったが、そんなことを気にしている余裕はない。
すぐさま青年のもとへと駆け寄り、止血を行った。
「――失礼します」
「あ、ああ。君の手を煩わせてしまって、すまない」
「なに馬鹿なことを言っているんですか?」
「……いや、その。僕は、君にまず先程のことを謝ろうと思って」
「そんなことは、もうどうでもいいです」
「そうか」
必死になって止血しようとしている私の心境とは裏腹に、自分の身に起こったことをさほど気にも留めることなく話し続ける青年。その温度差に少しだけ腹が立ってきた。
「もっと、こう……ないんですか?」
「ない、というと?」
「痛いとか、辛いとか、苦しいとか。なんで自分を置いて行ってしまったんだとか、お前のせいでこんな目に合ってるんだぞ、とか。もっとこう……」
「そこまで痛くはないから大丈夫だ。先程のことは、そもそも僕が招いてしまったようなものだから、自業自得だ。そして今回の件は、君だって被害者だ。僕が責められる立場じゃない」
「私は、そういうことを言っているんじゃありません!」
怒りのあまり声を荒げてしまう。
これは八つ当たりにも近いのだろうが、私は青年が、自分の身に起こった出来事に対して、怒るでもなく、嘆くでもなく、ただあるがままに受け止めてしまっていることに心底腹が立ってしまったのだ。
……なんて、理不尽。
冷静な私が見たら、きっとそう言うのだろう。
けれど、そんな自分の側面すら凌駕してしまえるほどの激情に、この時の私は溺れていたのだ。
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グレイシス様の止血を済ませると、私は急いで学園の保健医に傷口を見せるべきだと提案した。けれどそれは、怪我をした張本人に一蹴される。
「なぜですか?」
「ことを荒立てたくはない。それに、まだ手の感覚は残っているし、血もどうやら君のお陰で止まったようだ」
青年はそう言って、自らの手を上下に振ってみせた。
「止まったと言われても……。巻いている布が赤い以上、それは判断のしようがありません」
「言われてみれば確かにその通りだ。流石はメルヴィン嬢」
「私、怒りますよ?」
「……分かった。君の言う通り、すぐ医者に見せることを約束する。その代わり、君にも一つだけ飲んで欲しい条件がある」
「――分かりました」
藪から棒に、突如として湧き上がったような話ではあるが、事態を急いた私は、内容を聞く前に了承をする。この条件を飲むことで、青年の安全が確保されるのなら、どんな要求であれそれは造作もないことのように思えた。
「僕に、君のことを寮まで送らせて欲しい」
「え?」
突拍子もないことを、恐ろしく真剣な目つきでグレイシス様が言うものだから、思わず真顔になってしまう。
「もう、彼が君を襲うことはないだろうが……けれど、君をその格好のまま一人寮まで歩かせる訳にはいかない」
青年の視線の先には、地面に向かってすすり泣くアランの姿があった。それを見て、彼の存在を思い出すと同時に、破れたドレスから、自分の右太もも部分が露わになっていたことにも気付く。
「あ……」
「よければ僕の上着を使ってくれ」
「こ、これくらいは全然、許容範囲内です」
見えてはいけない部分が見えていないとは言え、普段あまり人に見られることのない部位を曝け出しているという事実。正直そのことに動揺はした。だが、それを相手に悟られた瞬間、なんだかとても気まずくなるような気がして、このタイミングには不釣り合いなワードを使って、必死に取り繕う。
「そうか」
「はい」
「……いや、やはり駄目だと思う」
グレイシス様はそうとだけ告げると、自らが羽織っていた上着を脱ぎ、そっと私の肩へとかけた。
「気休めにしかならないだろうが、少しは隠れるだろう。それを着ていてくれ」
「はい……。ありがとう、ございます」
かけられた上着を両手で握りしめる。
上着には、さきほどまで着ていた青年の温もりがわずかに残っていた。
「では、行こうか」
「はい。あの……アランのことは……」
私が再び元婚約者へと視線を移すと、グレイシス様は片膝を付いて、彼に話しかける。
「アラン・ダーシー、そのままでいいから僕の話を聞いてくれ。僕は、この場所で起こった出来事は全て忘れる。そして君にも、ここで起こった出来事は全て忘れて欲しい。これがお互いにとって一番いい落としどころだと思っている。どうだ、出来るか?」
「はい――。はい、絶対に誰にも言いません。このことは、決して誰にも――」
「そうか」
地面に縋りついたまま発せられるアランの返事を聞くと、青年は立ち上がり、まるで何事もなかったかのように私を帰路へと誘った。
この時見せた、全てを割り切って前へと進む彼の横顔を、私は生涯忘れることはないだろう。
それはまるで、作り物のように精巧で、だからこそ今にも壊れてしまいそうな儚さを秘めていた。
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帰り道である学園内に敷かれた遊歩道を歩く。
夜のその場所は、一定間隔ごとに置かれた街灯以外に頼りになる明かりもなく、日中とはまったく違う趣を見せた。
他の生徒たちは、まだ会場で余韻にでも浸りながら歓談を楽しんでいるのだろう。
その道を歩いているのは私と青年の二人だけだった。
「君に、話さなければならないことがある。歩きながらでもいいだろうか?」
「構いません。グレイシス様のお体に響かない程度でお願いします」
「分かった。ではまず、君を危ない目に合わせてしまったことを謝罪させてくれ。本当に申し訳ない」
「結果として私は無傷であり、あなた様が負傷しているのですから、そのことについて私に責める資格は、もうありません。ただ、どうしてこうなってしまったのか、原因だけはお聞かせ願います」
「原因は、僕の読みが甘すぎたことだ」
「それは一体、どこからどこまでのことを言っているんですか?」
あまりにも静かすぎる道中に、私の声だけが嫌に響く。
決して青年を非難しているつもりはないのに、そう受け取られてしまってはいないかと、妙な勘繰りをしてしまう。
「それについては順を追って説明させて欲しい」
足を止め、神妙な面持ちで見つめてくるその瞳には、わずかばかりの恐れが潜んでいるように見えた。
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