滴る鮮血
これまでの長い歴史、変化し続ける国家の在り方が物語っているように、ほんの些細な出来事一つが、誰かが作り上げた大きな流れを、いとも簡単に堰き止めてしまうことがある。
それが自分の目の前で起きていたとして、果たして気付ける人間などこの世にいるのだろうか。
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「最初からこのつもりだったんだろう? だから君は婚約を破棄された時なんの文句も言わず、次に会った時高慢な態度をとってみせた。はなっから僕やアシェリーの動きは全て君にお見通しで、その上で、僕達を泳がせ嘲笑っていたんだろう? なあ? メルヴィン・ローズ」
「何のことを言っているのか、私には分かりません。アラン、お願いですから、順を追ってきっちりと説明していただけませんか?」
元婚約者は、まるで気でも触れているかのように、焦点の合わない瞳をこちらへと向けてくる。
ダーシー家の操り人形のようだった彼が見せる豹変に、私は動揺を隠せなかった。
「この期に及んで、まだとぼけるつもりなのか?」
「いえ、そんなつもりはありません」
「……くっそ!! 君のその冷静な態度に、僕はずっと騙されてきたのか!!!」
「アラン、私の話を……!」
一語発するごとに詰め寄るアランと、一語発するごとに後ずさる私。
私と元婚約者のやり取りはどこまでいっても平行線を辿っていった。
「簡単なこと、のはずだった……。あの場所で、アシェリーを婚約者として多くの者に認知させ、ミルボンド家との繋がりを公のものとする。たった、それだけ。父上が僕に与えてくださった仕事は、それだけのはずだった。
そんな簡単なことすら、僕は――……」
そう言って、私の前に立つアラン・ダーシーは内ポケットへと手を潜ませる。
「アラン、あなた一体何を――――」
言葉を続けるよりも先に、だらりとぶら下げられた腕の中に光る物を見て、息が止まりそうになった。
「それ、って…………」
「さっき、立食用のテーブルから盗んできたんだ。果物用だから、よく切れると思う」
「それで、私をどうしようと言うんですか」
「もう、全てを終わりにしたいんだ。メルヴィン、僕は疲れたんだよ。
ずっとずっと父上の言うことに従ってここまできた。今更それが間違いだったかどうかなんてことは、僕にはどうでもいい。
今日、僕は、父上から与えられた大役を果たせなかったんだ。そんな僕に一体なんの意味がある? なんの価値がある? 何も出来なかったと報告したら、父上にはなんと罵られるだろう?
ほら、もう考えるだけで疲れてしまう。だから、もういいんだ。
――――だから、全てをここで終わりにしたいんだよ」
ダーシー家の操り人形は、与えられた役割をこなせなかったことで、その意味すらも剥奪されてしまったように、うなだれている。
あの会場において、誰かがアランを非難しただろうか。
――いいや、していない。
では何か不幸がアランの身に起こったのだろうか。
――いいや、彼の身には何も起こっていないはずだ。
では、なぜ彼は、自分自身ですら簡単だと断言できてしまえるほどの役割を全うできなかったのか。
それは案外、単純な話であって。
小川のように、静かにゆっくりと辺りへの影響を進めていた彼の前に、抗うことすら許されない、恒久的な濁流が一気に押し寄せてきたせいに他ならない。
ただの息一つ、指先一つで、状況を転覆させてしまえる人物に、運悪くもアランは遭遇してしまったのだ。
そして、その恨みを私へ向けているところを見るに、濁流の正体は間違いなく彼なのだろう。
「分かりました。あなたの好きなようにしてください」
「え……」
私の返答が意外だったのか、元婚約者は呆気に取られた様子を見せた。
「アラン、私は本心から、あなたをここまで追い詰めようなどと考えたことはありません。ただ、私は知りたかっただけなんです。我がローズ家がなぜ没落する必要があったのか、ということを。
……けれど、その為に取った私の行動で、あなたがここまで追い詰められているのだとしたら、それはやはり私のせい、なのでしょう」
「君はそれで納得する、のか……?」
「納得はしません。けれど、私の行動に責任を取れるのは、私だけですから」
緊迫した状況だというのに、口にした途端自然と笑みがこぼれる。
――それは、これまでの自分には出来なかったこと。そして、今の自分になら出来ることだった。
「そんな、そんなことって――……」
震える声は、それ以上の言葉を紡がずに終わる。
これでアランの気が静まれば、それに越したことはない。
穏便に済ませたいという私の思いとは裏腹に、事態はそこで最悪のシナリオを導き出す。
「君が、もっと、底意地の悪い人間であってくれたならよかったのに……。そしたら僕は、きっと……もっと楽に――――」
「アラン!!!!」
私の制止の声など聞く余地もないほど、勢いよく振り下ろされた華奢な刃は、そのまま弧を描き、振り下ろした当人の喉元へと走った。
その直後、視界にまざまざと映ったのは、銀色に光るナイフと、その縁を滑る赤い鮮血。
けれど肝心の刃先は喉元には届いておらず、紙切れ一枚分のところで静止していた。
では、刃を伝う鮮血は一体誰のものなのか。
静止するナイフの先を見て、直ぐにその答えが分かった。
「グレイシス、様……」
「メルヴィン嬢、遅れてすまない。まさかこのような事態になっているとは思ってもいなかった」
「い、いえ、いいえ! そんなことよりも、あなた様の手が……!」
「流石に、瞬時の判断ではこうする以外の方法を思いつかなかった。そこまで深くはない故、大丈夫だ」
そう、いつもの穏やかな表情で告げる青年の手元は、アランが自らの喉元向けて放った刃が食い込んでいる。
グレイシス様は、自害しようとしていたアランを、寸でのところで止めることに成功したのだ。
――自らの手を犠牲にすることによって。
「う、うわあぁぁぁ!!!」
目の前に滴る鮮血を見て、アランが自我を取り戻す。
「アラン・ダーシーだな。その手を放さずによく聞け。
親の言いなりであったお前は何も知らなかっただろうし、考えることを止めてしまったお前には何も見えてはいなかっただろう。だが、今のお前になら理解できるはずだ。
お前が先ほどまでしようとしていた行為が、どれだけの重さを秘めていたのか、ということを――。
今、この現状を目の当たりにしたお前は、何を考える?」
自分が置かれている状況から逃げるように、ナイフから手を放そうとするアランに、グレイシス様の叱責が飛ぶ。
それは、自分の手を負傷したことへの怒りからくるものではなく、ことの重大さを理解することなく行動してしまったアランへの戒めのようだった。
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