救いの手
暗い夜空に、ぽっかりと穴が開いたように存在している月を見上げる。
ここから見えるその風景は、まるで今の私のようだった。
――アランの動向を探らなくては。
自分の心情よりも、今はあの人に告げた責務を優先しよう。
その為に、すぐさま思考を切り替える頭。そしてそれを実行へと移すべく体を動かそうとして、思い通りに動かないことに驚いた。
小刻みに震える、肩と手と足。
私は今、恐れているのだろうか――――
あの空間に。あの二人に。自分を取り巻く全てのものに。
「ほら、私はこんなにも弱い…………」
かすれた声で吐き出して、このまま小さくなって消えてしまえたら楽なのに、なんてつまらないことを考えた。
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「責務は果たせそうにない、か」
それは、不甲斐ない自らへの敗北のように思えた。
自分の中で生まれた取るに足らない恐怖心のせいで、本来果たすべきだったことを遂行できそうにないことが悔しい。
私の判断を仰いでくれた青年の信頼に、答えることが出来そうにないことがとてつもなく苦しい。
そんな私のぐちゃぐちゃになった心境を、冷静な頭は容赦なく切り捨てていく。
――このままここにいても、無意味だ。
震える体で、何も出来ない私が、ここにしがみついている必要性は、もう何もない。
今できることは、この無様な体を引きずって、誰かの目に留まる前に静かに寮へと帰ることだけ。
「ふ…………」
口元から微かに漏れた笑い声は、己自身を嘲笑うためのものだ。
不安定な状態の腕と手に力を込めて、立ち上がるための支えに使う。そこから腰を上げ、ゆっくりと膝を伸ばし、乱れがちな呼吸と合わせながら一気に直立した。
焦点の合わない視線を、地面から目の前に広がる景色へと移したその時――――
「ほら、やっぱり見つかっただろう」
それまで礼拝堂というお決まりの場所でしか会ったことのなかった、虚像のような儚さを持つ人物が目の前に立っていた。
それは、幻想が現実へと切り替わったような瞬間。
一定の枠内でしか会うことの出来なかった人に、私は今、その枠外の場所で会っている。
「えぇ……?」
咄嗟に出たのは、青年を映し出す自分の視界にすら疑問を抱くような、そんな声。
「どうしたのだ?」
「どうした……って、えっと……」
会えるとは思っていなかったから――――。
「遠くから見てすぐに分かった。やはり君は、どこにいても目を引く人だ」
言葉に詰まった私の気持ちを汲み取るように、青年は断言する。
……信じて、いなかった訳ではないけれど、信じきれてはいなかった。
だって、そんなのって。
こんな、今にも崩れ落ちてしまいそうな状況で、今一番会いたいと思っていた人に会えるなんて――――
そんなのって、まるで夢物語だ。
青年の言葉がたとえ本心であっても、それを実現するのは難しいだろうと、どこかで諦めていた現実主義者への変革。それが、今、私の身に起こっている。
「初めて…………だ」
初めてだった。
こんなにも心の奥底から驚かされたのは、生まれて初めてのことだったのだ。
――だから気が抜けて、動揺のあまり地面にへたり込んでしまうのも、これが初めて。
「大丈夫か!?」
「あ、はい……」
間の抜けたような返事しかできない私を、グレイシス様は心配そうに覗き込む。
近くで見るその顔は作り物のように美しかった。けれど、そこで感じる確かな息遣いが、彼が自分と同じ人間であることを証明している。
夢心地な私の視線と、穏やかな彼の視線が交差した時、
「お嬢さん、僕と一曲踊っていただけますか?」
と青年の手が差し出された。
その手を見て、驚きのあまり停止していた思考が動き出す。
この形式に則った丁寧な誘いをくれた相手に、今の自分が出来得る限りの礼儀を尽くそう。
「ええ、喜んで」
そう言って、私は自らの右手を差し出す。
私の右手を握ってくれたグレイシス様は、地面に片膝をついた姿勢から立ち上がり、その勢いで私を立ち上がらせてくれた。
「あの、ありがとうございます」
「どういたしまして。しかし、一体どうしてこんなところに?」
「それは、話すと長くなりますのでまた後ほどということで……」
「分かった」
青年は納得したように返事をした後、雰囲気を切り替えるように、ではそろそろ行こうか、と言葉を続ける。
それに対して、はい、と答えた私の声は、自分でも分かるほど弾んでいた。
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会場までのわずかな距離を並んで歩いていると、青年は会場の入り口から漏れるわずかな光を見て、急に立ち止まる。
「どうかしましたか?」
「いや。どうということはないのだが――」
そう言ってちらりと私を横目で見ると、
「メルヴィン嬢、笑わないで聞いてくれるか?」
何かを危惧するような表情で、不思議なことを訪ねてきた。
「お約束は出来ませんが、可能な限りそう努めます」
「ありがとう。
実は……僕は、こういった人が集まる空間というのがあまり得意ではないのだ」
吐露した途端、青色の澄んだ瞳に陰りが生じる。
その様子がなんだか、弱みを見せてしまったことに対する罪悪感のようで、見ているだけで痛々しかった。私も、あまり人に弱みを見せる人間ではないけれど、見せること自体に罪悪感を抱くほどの窮屈な生き方はしてこなかったから……。
だから、幸福そうに笑うその内側に、それを取り繕うために犠牲になったものがどれだけあるのだろう、などと考えてしまう自分がいた。
「そうだったんですね。では今日は一体どうして?」
「それはほら、君の期待を裏切るために」
「期待を裏切る……ため」
それは、どこかで聞いたことのある言葉。
「もしかして……。あの時言っていた脈略のない話って、このことだったんですか?」
「正確にはこの後のこと、だな。それで君のことを、少しだけ驚かせてみたかったのだ」
この後のこと……。
それはきっと、私の期待を裏切り、私のことを驚かせる何かなのだろう。
全くもって見当はつかないものの――――
「ふふっ」
「急に笑ってどうしたのだ? まさか先程の話が今になって面白くなった、のか……」
「いえ、違います。ただ、私のために必死になってくださるグレイシス様を見ていたら、なんだか可笑しくて」
「そう見えていたとしたら、なんとも滑稽だな」
「そうかもしれません。けれど、私は今とても嬉しいです」
「そういうものなのか……?」
「はい。そういうものなのです」
――意図した訳ではなかったのだろう。
けれどすでに、私は生まれて初めての驚きというものに、ついさっき遭遇したばかり。それによって、私が今まで手堅く積み上げてきた現実に対する期待も、見事裏切られた。
つまりは、画策した本人すら気付かぬうちに、目的が達成されてしまったのだ。
そんな、皮肉めいた顛末が可笑しくなって、私は自然と笑みをこぼしていた。
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