近い距離
ローズ家において、家長であるアーネスト・ローズの言葉は絶対だった。
私にとっては父でもある人物。正直その人柄はいまだによくは分からない。
なぜなら、父が私に求めたものは1つだけしかなかったから。
それ以上の多くを、父は私に見せてはくれなかった。
その1つすらも、既に私の手からは零れ落ちてしまっている。
もう、私に残された物は何もない。空っぽで無意味な存在。
であるはずなのに、よく知りもしない父の、ローズ家のことで、私の頭は一杯になっていた。
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「私、行かなければ……」
どうするべきかも、どこに行くべきかも分からない足取りのまま、赤い絨毯の上を駆けようとして、
「待つんだ!」
という声と共に、腕を掴まれた。
「グレイシス様、ごめんなさい。私、どうしても行かなければいけない所が……」
「では聞くが、それはどこだ?」
「どこって……。それは……」
「怒りに身を任せては駄目だ。例え真実がどうであれ、ここで事を荒立てれば、君の立場だけじゃない、ローズ家の立場は更に悪くなる」
「でも……。では一体どうしろと……!?」
「今は辛いだろうが、耐えてくれ」
「そんなありふれた言葉はいりません!」
そう吐き捨て、立ち去ろうとする私に青年は告げる。
「けれど……。けれど、君の父君は今もじっと耐えている。君に何も連絡をよこさないのは、そういうことではないのか」
その声は、張り詰めた私の意識を解きほぐすように、低く、凛と、礼拝堂の中へと響いた。
私の父は、いつも私にして欲しいことだけを伝える人だ。
そんな父から届いた、ローズ家が没落したという知らせ。そこには、没落したという事実以外の記載はなかった。
だから、だから私は……アランから婚約破棄を言い渡された時も、ダーシー家とミルボンド家の暗躍によって、我がローズ家が没落したのではないかと疑問を抱いた時も、いずれ来るであろう父からの連絡を糧として、取り乱さずにいられたのだろう。
それを、今になって放棄するのか? と青年は問うている。
冷静な青い瞳で見つめる彼に対して、私は、既に決まりきっていたように答えを告げた。
「……いいえ。いいえ、そうです。私はアーネスト・ローズの娘、メルヴィン・ローズです。私はこのような状況下で、無策に動くような人間ではありません」
私の宣言のような声を聞いて安堵したのか、グレイシスという名の青年は、穏やかな笑みを浮かべる。
「…………ふっ」
「な、なんですか?」
「いや……いつもの君に戻ってよかった」
「それは、その…………」
落ち着き始めた私の頭は、落ち着き始めたがゆえに、今まで気にしていなかったことを自らに気づかせた。
――――ち、近い。
整った顔に浮かべられた微笑と、掴まれた腕から伝わってくる体温。
今まで、ただ眺めるだけだった青年から感じられる、確かな息遣い。
止むを得ない状況で腕を掴まれたことによって、青年との距離が驚くほど近くなっていたのだ。
「訂正しよう。君は確かに気高く、近寄りがたい冷たさを想起させるが、意外にも激情家だったりするのだな」
「あの、それよりも……」
心底愉快そうに呟く青年の心境とは裏腹に、私の方は気が気ではない。
落ち着いたはずの頭は、今度は違う意味で上手く機能してくれなくなった。
この距離感をどうにかしたいという思いを表現する、温和な言葉が見つからない。
だからといって、そのまま率直な思いを告げるのは失礼すぎる。
別に嫌ではない。嫌ではないが、困るのだ。
「メルヴィン嬢、君の家は大丈夫だ。僕が保証する」
「あ、ありがとうございます。それより、その……」
「どうかしたのか?」
「腕を……」
「あ、すまない。痛かっただろうか?」
「いえ…………」
「ならよかった」
ほっとしたような顔をする青年に対し、私は内心呟いた。――そういう問題ではない、と。
腕を離され、ある程度の距離が青年との間に出来ると、ようやく私の頭は正常に機能し始めた。
「あの、先ほどは失礼な物言いをしてすいませんでした。後、その……色々とありがとうございます」
必死に制止してくれた青年に対して放ったあの否定の言葉は、例え激情していたとしても、安易に口にしていいものではない。
「失礼な物言いとは、一体どのことだろうか?」
「それは……えーっと、その……」
特に気にしていない様子の青年に、改めて自分の口から説明するとなると、それはそれで戸惑うものがある。
なんて言えば伝わるだろうか……と考えあぐねていると、青年は少し思案した後、軽い口調で答えた。
「うむ。僕には分からなかったが、きっと君には大事なことなのだろう。黙ってその謝罪を受け入れよう。それと、感謝は不要だ」
「そうですか……」
こうして話をしていると、彼は本当に貴族なのだろうか、とふと疑問に思うことがある。
少なくとも、アシェリーやクラスメイト達の在り方とは違う。けれど、だからといって友人のエメットのような優雅な在り方かと聞かれると、それとも少し違う気がする。
もっとこう……堂々としていて、発言にすら迷いがないというか――――。
「1つ、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「この国、アブリエルトの貴族にとって、階級差というものは、目の色を変えて気にしなければいけないほど、大事なものなんですか?」
「大事なもの、か。それは、その者が置かれている立場や状況によって変わってくるだろう。参考までに、その疑問が生まれた理由を教えてはくれないか?」
まさか聞き返されるとは思ってもみなかったので一瞬身構えもしたが、そもそも疑問を投げかけたのは他の誰でもない私だ。私事を口にするのは少しばかり気が引けるけれど、ここは青年の誠意に答えるのが筋だろう。
「分かりました――――」
私は、真っすぐに注がれる青年からの視線に答えるように、今日のアシェリーと、そして貴族の一部であるクラスメイト達とのやり取りを話した。
「――私は彼らとの間にある温度差について考えました。きっと、彼らにとってのそれは、庶民である私には理解しにくいことで、けれど、貴族である彼らにはとても重要なこと、なんだと思います」
「なるほど……。それはつまり、君が抱いた貴族に対してのイメージ、ということかな」
「そうですね。その表現で合っています」
「君は本当に聡明な人なのだな」
「急にどうしたんですか? 私はそういった話をしていた覚えはないのですが……。そもそも私はそんな大層な人間ではありません」
話が急に飛んでしまったことに困惑している私に、まるで珍しいものでも見るような目を向けた後、青年はいつもの厳かな表情へと戻り、口を開く。
「君が抱いた認識で合っている。貴族とは古来より、自分より上の者を妬み、そして下の者を蔑むことによって、自分が今いる立場を盤石にしてきた者達の総称、みたいなものだ。
でなければ、これまでのアブリエルト500年という歴史の中で、貴族という身分が生まれ、そしてここまで強い影響力を誇示するまでには至らなかっただろう」
淡々と告げられる青年の言葉は、理不尽なほど鋭く、私の胸にストンと落ちてくるのだった。
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