41.アイドル、魔界生活一ヶ月
魔王城での生活が定着し、季節は巡り始めていた。
この日の奏は、いつものメイド服ではなく、動きやすいデニムのサロペットに、真っ白なシャツという軽装姿で、城の裏手に広がる広大な畑に出ていた。
「よしよし、いい子だねぇ。ここの土は栄養がたっぷりだから、もっと元気に育つよ」
奏が、水やりを一緒に手伝ってくれたプルプルとしたスライムを両手で優しく撫でる。すると、彼のアイドルとしての『癒やしのオーラ』に導かれ、スライムたちが列をなして奏の周りに集まってきた。
その光景を見ていた奏の背後で、妙な気配がする。
振り返ると、そこには立派な漆黒の角を生やし、高級な刺繍入りの黒いガウンを纏った魔王アスモデウスが、何食わぬ顔でスライムの列の最後尾に並んでいた。
「……魔王様?」
「ふん。……別に、き、貴様のナデナデが羨ましいわけではない。ただ、魔王として部下であるスライムの労力管理を視察に来ただけだ」
明らかに顔を赤らめ、視線を逸らす魔王。その角の間から、もどかしげな感情が伝わってくる。
奏はクスクスと笑い、空いていたもう片方の手を魔王に差し出した。
「視察、お疲れ様です。……じゃあ、魔王様もナデナデ。はいっ」
「――っ!? 貴様、今の今の今のッッ!!」
「あーっ、また『貴様』って言った。僕は貴様じゃなくて、奏です」
「うっ……。きさ……じゃなくて、か、奏たん」
「奏たんって。あはははっ、なんだか昔を思い出すなぁ」
魔王の心臓がバックバクと今にも飛び出してきそうな音を立てる。奏の掌が魔王の角と頭を優しく撫でると、魔王は喉の奥から聞いたこともないような蕩けた音を漏らした。
「こ、これくらいで喜ぶと思うな……っ! だが、きさ……じゃなくて、奏がそこまで言うなら……この畑、耕してやってもいいぞ」
魔王は、まさに『天にも昇る気分』といった表情で、おもむろに上着を脱ぎ捨てた。
魔王の手が地面に触れた瞬間、凄まじい地鳴りが轟く。彼の放つ圧倒的な魔力と力によって、数千ヘクタールの畑が、瞬きする間もなく、プロの農家も驚くほどの完璧な深さで、超高速の土壌改良を完了させた。
「どうだ! 奏の望む通りだ!」
幸せの絶頂で、キラキラとした瞳を向ける魔王を、奏は心からの感謝を込めてハグした。しかし、ハグは少し刺激が強かったのか、魔王は再び鼻血を噴き出し、その場に倒れた。勿論、すぐさまマルバスが瞬間移動で登場し、魔王を回収し、再びどこかへ瞬間移動していった。
――その夜は、特別な夜だった。
奏はまったく気に留めていなかったが、同棲生活一ヶ月記念らしい。そもそも同棲というのか?
それを祝し、城の最上階にあるメインダイニングが解放された。テーブルには魔界全土から集められた希少な美食の数々が並び、キャンドルが静かに揺れている。
食事を終えると、魔王は落ち着きなく、まるで初めてデートをする少年のようにモジモジし始めた。
「……奏。貴様の歌を、聴きたい。それも……この広大な玉座の間で、二人きりでだ」
玉座の間へ移ると、そこには無数の小さな光の精霊たちが、星空のように天井を彩っていた。
奏は、玉座を舞台に見立てて立ち上がる。静寂のなか、奏が歌い始めたのは、前世の思い出が詰まった、切なくも美しいバラードだった。
鈴を転がすような歌声と、しなやかな指先が描く舞。それは魔法などではなく、彼の人生そのものを賭けた、魂の表現だった。
魔王はその姿を、瞬き一つせずに見つめている。いつもの鼻血も、オタク的な絶叫も、そこにはない。ただ、一人の男としての、真摯で深い敬愛だけがあった。




