34.アイドル、マルバスと出会う
「あ……あの、あなたは……?」
奏が警戒を解かないまま尋ねると、老紳士は銀のトレイを室内のテーブルへと音もなく置いた。
そして、奏に向き直ると、右手を胸に当て、これ以上ないほどに美しく、気品に満ちた完璧な一礼をして見せたのだ。
「申し遅れました。私は当魔王城の宰相、ならびに侍従長を務めております、マルバスと申します。……我が偉大なる主、魔王アスモデウス様より、貴方様の『専属執事』としてお仕えするよう、全権を委ねられております」
「えっ、宰相さん? しかし、僕の専属、執事……?」
奏の口から、呆然とした声が漏れる。
全てを失い、裏切られ、死の底から這い上がってきた奏の前に現れたのは、世界の敵であるはずの魔王の右腕。
混乱が極まるなか、老宰相マルバスは、まるで天使の無垢さを湛えた歌姫を前にした狂信者のように、その冷徹な瞳の奥に怪しい『熱』を灯しながら、淑やかに微笑むのだった。
「はい。これより、貴方様がこの世界で一番に輝くための、新たなるステージの準備が整っております。さぁ、まずは温かいお茶から、いかがでしょうか?」
奏は戸惑いながらも、テーブルの席につき、マルバスが淹れるハーブティーを飲むことにした。そして、用意された軽食も食べ、外を見ながら、一息ついた。
「では奏様、こちらへ。僭越ながら、このマルバスが城内をご案内いたします」
老執事マルバスは、まるでガラスの細工物を扱うかのような手際の良さで、奏の一歩先を静かに歩き出した。
奏は、パジャマからいつの間にか用意されていた上質な私服――動きやすい黒のパンツに、肌触りの良い純白のブラウス――に着替え、彼の後ろに従った。
廊下を進むたび、奏の常識は音を立てて崩壊していった。
窓から見えるのは、手入れの行き届いた広大な英国風の庭園。色とりどりの魔界特有の花々が咲き乱れ、中央の噴水では、水の精霊たちが涼しげな音を立てて踊っている。さらに進むと、城の敷地内にある広大な家庭菜園のような場所にたどり着いた。そこでは、筋骨隆々のオークたちが麦わら帽子を被り、丁寧にトマトやカボチャを収穫している。
「みんな、すごく楽しそうに働いていますね……」
奏が感嘆の声を漏らすと、マルバスは誇らしげに顎を引いた。
「当然でございます。我が主、アスモデウス様の第一の政令は『全労働者の生存権の確保と、週休二日制の絶対遵守』。過度な残業を強いる幹部には、魔王様自らによる『物理的・精神的再教育』が施されます。ルミナス王国のように、民を飢えさせ、無償で酷使するような野蛮な真似は、我が領地では万死に値する大罪なのです」
(週休二日制……! 人間界のどの国よりも遥かにホワイトな環境じゃないか……)
スラムの酒場で、過労死寸前まで働き詰めていたバーバラや、奴隷のように自分をこき使った勇者パーティの顔が脳裏をよぎる。正義の国がディストピアで、悪の魔王領が理想郷。あまりの皮肉に、奏は乾いた笑いが出そうになった。
「少々歩かれましたな。お腹も空いた頃でしょう。我が城が誇る、地下食堂へご案内いたします」




