29.魔王、怒りを鎮める
魔術師は、あまりのプレッシャーに目と鼻から血を流しながら、狂ったように叫んだ。
逃げようとする彼らの足元から、魔王の怒りに呼応した黒い影の触手が無数に伸び上がり、その衣服や肉体を容赦なく引き裂いていく。それは、ただ触れただけで魂の形を歪ませる、最悪の『終焉の呪い』。
「おい、レオ! さっさと転移しろ! 早くしねぇと、俺たち全員ここでアイツの塵にされるぞっ!!」
聖騎士が、盾も鎧も脱ぎ捨ててレオに縋り付く。
「うっせぇな、分かってるよぉっ! 嫌ぁぁぁっ! 死にたくねぇぇぇっ!」
レオが狂ったように魔力を込め、ようやくスクロールの転移術式が発動した。眩い光が彼らの身体を包み込む。だが、その光のなかへと、魔王の放った漆黒の呪いの弾丸が、数発、容赦なく追尾して叩き込まれた。
「ギャァァァァァァァッッッ!!」
クズ勇者たちは無様な悲鳴を残し、転移陣に書かれていたルミナス王国の王宮へと命からがら逃げ帰っていった。
しかし、彼らが逃げ去った後も、魔王の暴走は止まらない。
むしろ、怒りの矛先を失った魔力はますます膨れ上がり、大地を割り、大気を灼き、世界の崩壊を加速させていく。
このままでは、あと数分もしないうちに、ルミナス王国も含めた全人類の領域が、魔王の激昂の余波だけで完全に地図から消滅してしまうのは確実だった。
ゴホッ、と、冷たい床の上で、小さな、消え入りそうな呼吸の音が響いた。
血の海のなかで、奏の意識は、すでに冷たい奈落の底へと半分沈んでいた。胸の痛みすら、もう感じない。ただ、身体の芯から体温が奪われ、凍りついていくような感覚だけがある。
けれど、彼のすぐ耳元で、引き裂かれそうなほど悲痛な声で叫び、世界を滅ぼそうと暴走している『一人の哀しいファン』の気配が、どうしても放っておけなかった。
(……だめ、だよ。そんなに、悲しい顔をして……暴れちゃ……、プロの、アイドルは……ファンを、悲しませるために……歌ってきたんじゃ、ないんだから……)
奏は、残された最後の、本当に最後の一滴の力を振り絞った。
鉛のように重い右手をゆっくりと動かし、衣服の奥、胸元に隠されていた古竜ブランのネックレスを、血まみれの手でぎゅっと握りしめる。
「――魔王……様……。おねがい、だから、ゴホッ……もう、暴れない……で……」
かすれた、今にも消えそうな、けれど不思議なほどに凛とした美しさを保った歌姫の声。
それが広大な玉座の間に響いた瞬間、世界を滅ぼしかけていた魔王の動きが、ピタリと、完全に停止した。




