02.アイドル、違和感を抱く
幼い頃から、ただ歌うことが好きだった。自分の歌を聴いて、目の前の人がパッと明るい笑顔になってくれる――その瞬間に脳内を満たす何とも言えない喜びが、彼の人生のすべてだった。
芸能界という、綺麗事だけでは決して割り切れない、大人のエゴや身勝手な欲望が渦巻くドロドロとした世界。そこに早くから身を置きながらも、奏が今日までトップアイドルとして走り続けてこられたのは、他ならぬ『プロとしての強固な誇り』があったからだ。
(僕の歌で、みんなの明日が少しでも幸せになりますように。生きるのがつらいことや悲しいことがあっても、このステージを見ている間だけは、世界で一番笑顔でいられますように……)
それは、奏が心の中に秘めた、ファンに対する絶対的な祈りであり、エンターテイナーとしての誠実さの結晶だった。ステージの端から端まで、一瞬の隙もなく全力で駆け抜け、呼吸が苦しくなって肺が灼けるようになっても、胸がはち切れそうなほどの幸福感が彼を突き動かす。
客席の最前列で涙を流しながら笑顔で手を振るファン、遠くの天井席で必死に自分の名前のボードを掲げるファン、その全員の視線が、今、自分という一人の存在を通じて、ひとつの『大きな愛の波動』として繋がっている。この奇跡のような一体感を味わえるからこそ、アイドルはやめられない。
最後のロングトーンが、ドームの天井へと吸い込まれるように美しく、どこまでも響き渡る。奏が右手をゆっくりと天へと突き上げ、最高のフィニッシュポーズを決めた瞬間、客席からこの日一番の、まるで地天を覆すかのような拍手と歓声が湧き上がり、スタジアム全体を激しく揺らした。
「ありがとうございましたーっ! 奏でした! みんな、本当に大好きだよ! また絶対に会おうね!」
プロのアイドルとしての、一切の妥協のない完璧なステージ。鳴り止まないアンコールの声を背中で聞きながら、奏は溢れんばかりの充実感と心地よい疲労感に包まれ、ゆっくりとステージの袖へと退場していった。
ステージ裏の薄暗い通路へと一歩足を踏み入れた瞬間、ドームを包んでいたあの圧倒的な喧騒が、幾重にも重なる防音扉によって遮られ、すっと遠くなっていく。
衣装のシフォンが床を擦るかすかな音と、自身の激しい呼吸の音だけが、静かな通路に規則正しく響いていた。額から流れ落ちる汗を衣装の袖でそっと拭いながら、奏はふう、と満足げなため息を漏らす。
(今日も、みんなに最高の笑顔を届けられたかな。次のライブのセトリ、もう少しバラードを増やして、みんなの近くに行ける構成にしてもいいかも……)
すでに彼の頭の中は、次なるステージのことでいっぱいだった。一刻も早く楽屋に戻って、冷たい水を飲み、スタッフたちと今日の最高のステージの反省会をしたい。そう思いながら、楽屋へと続く、普段通りのはずの長い直線通路を歩いていた、その時だった。
「――え?」
突如として、奏の足元から、現実のものとは思えないほどの「異様な違和感」が這い上がってきた。




