10.アイドル、開店準備
スラムの朝は日本の朝より遅い気がする。
日の光を嫌うかのように寄り添い合う薄汚れた木造建築の隙間から、どこか灰色がかった淀んだ朝焼けが差し込む頃、奏は一人、誰よりも早く『夜鶯の止まり木亭』の勝手口の鍵を開けた。
すっかり慣れた手つきでフリル付きのメイド服に袖を通し、ヘッドドレスの位置を鏡で微調整する。プロのアイドルとしてのルーティンは、たとえ異世界の極貧スラムにあっても変わらない。身だしなみを整えることは、これから始まる『ステージ』への敬意そのものだからだ。
「よし、今日もまずは開店準備! お掃除、お掃除っと」
【家事系スキル:10】を誇る奏にとって、酒場の掃除はもはや一種のウォーミングアップであり、アイドルにとって最高の準備運動時間だ。箒を手に取り、前夜の荒くれ者たちが残していったタバコの吸い殻や泥汚れを、残像が生じるほどの超高速かつ華麗なステップで掃き清めていく。煤けたテーブルを雑巾でひと拭きすれば、まるで新品の木材のような美しい艶が戻る。
しかし、以前より綺麗にお店を使ってくれているようになった気がする。そんなに根詰めて掃除しなくても、すぐ終わる気がする。これもあの荒くれ者たち……いや、お客様たちのお陰だろう。
一通り床を磨き上げ、調理場のバケツを片付けようとカウンターの前に戻ってきた時だった。
「あれ? あんなところに、何か置いてあったっけ? 昨日まではあんなの置いてなかったような……」
奏は動きを止め、怪訝そうに首を傾げた。
深夜は誰も入れないはずの、完全に施錠されていたはずの酒場のカウンター。そのド真ん中に、昨日までは確実に存在しなかった『異物』が鎮座していた。
その異物は、一辺が三十センチメートルほどの、ひどく古びた木製の宝箱のようなものだった。
表面には長年どこかの地下深くに眠っていたかのような苔や埃が薄っすらと付着しており、角を補強している金具は黒く変色している。だが、その古びた外見とは裏腹に、全体から妙に冷ややかで、それでいて肌をピリピリと刺すような、おぞましいほど濃密な『気配』が漂っていた。
「おかしいな。バーバラさんが個人的に仕入れて、置いていった物なのかな? うーん、それにしてはなんだか……すごく変な予感がする」
奏はごくりと唾を飲み込み、おそるおそる宝箱へと距離を詰めていった。
「おはようさん。また朝っぱらから掃除かい? それにしても、なんて変な顔をして突っ立ってんだい?」
店の奥の居住スペースから、あくびを噛み殺しながら、女将のバーバラが重い足音とともに現れた。元Aランク冒険者としての全盛期を思わせる、相変わらず筋骨隆々とした圧倒的な体躯。だが、彼女の鋭い眼光は、カウンターの上の宝箱を捉えた瞬間に、一時に眠気を吹き飛ばして険しく細められた。
「……奏。あんた、それをどこから持ってきたんだい?」
「えっ! 僕じゃないです! 今朝、お店を開けて掃除をしていたら、最初からここに置いてあったんです。バーバラさんが置いたんじゃないんですか?」
「あぁ? なんだって? あたしが置く訳ないだろう」




