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第9話 感情を解放せよ!

 6月。

 そろそろ養成所通いにも慣れてきた。

 部活との両立も今のところそこまで大変ではない。

 前に習い事をやっていた経験が役に立っている気がする。

 やっぱり何でもやっておくものだなと思った。

 そんな私達は今日も今日とて、いつもの昭和の森公園で安芸あきさんに芝居の訓練に付き合ってもらっていた。

 ストレッチで軽く体をほぐした後、発声練習を始める。

「あーーーーーーッ!」

 発声は腹式呼吸の次のステップだ。

 お腹に溜めた空気を使って大きな声を出す。

「あ、え、い、う、え、お、あ、お」

 ただ大きな声を出すだけではなくて、いわゆる ”お腹から声を出す” 必要がある。

 この発声に関しては私も楓歌ふうかちゃんも割とすんなりできるようになっていた。

 毎日腹式呼吸の訓練をしているのが功を奏したのか、思ったように声を出すことができる。

「ほう。2人とも発声の練度は高いな」

「養成所でもやってますからね」

「でも短音でやる時だけですよ。これが言葉になるといきなり難易度が跳ね上がるんです。師匠、何かいい方法はないですか?」

「これも慣れだからな。とにかく回数をこなすしかない」

 何事も積み重ねが肝心だ。

 今は焦らず一歩ずつ進んで行くしかないのだろう。

 ところで安芸さんは楓歌ちゃんの師匠呼びにはもう慣れたみたいだ。

 最初はあんなに嫌がっていたのに。

 案外、満更でもないのかも。

「呼吸を使った発声でイメージとして持っておくといいのは、ガソリンとエンジンの関係だ」

「ガソリンとエンジンって自動車のですか?」

「自動車でもバイクでも小型飛行機でもイメージしやすい物でいい。息を吸って腹に溜め込んだ空気がガソリンだ。そのガソリンを喉のエンジンを使ってどれくらい消費すると、どのくらいの声が出るかを感覚で覚えるんだ」

「なるほど。それは分かりやすいですね」

「えっと。えっと。小雪ちゃん。私よく分からないや」

 そう言いながら楓歌ちゃんが私の服の裾を掴む。

 これは理解が及ばなかった時の楓歌ちゃんなりのヘルプの仕草だ。

 TRPGをやっている時にもたまに出る可愛いアクションだった。

「じゃあガソリンじゃなくてMPとかSPとかチャクラとか、楓歌ちゃんが分かりやすいエネルギーだと思ってごらん。喋る時はそのエネルギーを使いすぎないように調整するの。大きい声は威力の強い技だよ。強い技は多くエネルギーを使うでしょ?」

「おお。それなら分かるよ。弱い技だったら少ないエネルギーで出せるもんね」

七夕たなばたは理解が早いな。そして花見はゲームに例えると理解できるのか」

 昔から人に何かを教える時は野球に例えろと言われるけど、楓歌ちゃんの場合はゲームに例えると理解が早い。

「基本的に吸った空気は次の息継ぎまでに全て使い切るんだ。使い切らないと次の呼吸で吸える量が減るからな」

「例えば発声練習の『あえいうえおあお』だと、お腹に100溜めたガソリンを8分割して使い切るってイメージですか?」

「そうだ。最初はぴったり等分にしようとは思わずブレスコントロールする方に意識を向けるといい」

「ふむふむ。喋る言葉の長さが消費MPってことか。分かってきたぞ」

 どうやらうまくイメージできるようになったみたいだ。

 なら、ここからが楓歌ちゃんの真価だ。

「すぅーっ……」

 楓歌ちゃんが大きく息を吸い込む。

「安芸さん! ……こうやって……息を、コントロール! するんですね」

 さっそく息の量をコントロールして、大きな声や小さな声を織り交ぜながら喋りだした。

「凄いなお前。もうできてるじゃないか」

「楓歌ちゃんは理解するとすぐに実践できるんです。逆に理解できないと一生できないですけど」

「そして小雪ちゃんは私に理解させる天才なので、小雪ちゃんが解説してくれれば私は何でも理解できるんです!」

「なるほど。それで七夕は理解力が高いのか」

「楓歌ちゃんに『これは何?』『どういう事?』『教えて?』をずっと言われ続けたらこうもなりますよ」

「ははっ。いいパートナーだなお前ら」

「それは嬉しい評価です。もっと言って下さい。もっと」

「何の要求だよ。気持ち悪いな」

 安芸さんが汚らわしい物を見る目で私を見た。

 おかしいな。一瞬前に褒められたと思ったのに。

「発声練習はここまでだ。じゃあ養成所でやっている課題を教えてくれ」

「今レッスンでやってるのは感情の解放です」

 感情の解放とは喜怒哀楽の感情を任意に引き出す訓練だ。

 講師の合図で瞬時に笑ったり泣いたりを切り替えていく。

「ほう。いい訓練の進め方だ。講師に恵まれたな」

「そうなんですか?」

「近頃はすぐに台本だの実戦だのをやらせる講師が多いからな。演技の基本をしっかり教えてくれる講師は貴重だ。もしかして年配の舞台役者か?」

「そうらしいです」

「師匠。舞台の人だとしっかり教えてくれるんですか?」

「声だけの演技と違って舞台は観客に全身を見られる上に本番ではやり直しが効かない。だから舞台役者は高い基礎能力を求められる」

「まるで声の演技はごまかしが効くみたいですね」

「そりゃあ収録なら本番でトチっても録り直しが可能だ。どうしてもNGなら後日に繰り越すこともできるし、最悪ピッチやテンポ調整だってやれるからな。その気になればいくらでもごまかしが効く。同じ魂の込め方でもどうしたって差はできるさ」

 さすが安芸さん。歯に衣着せぬ物言いだ。

 とは言え別にどちらが上でどちらが下と評したいのではなくて、それぞれのスタイルがあると言いたいんだろうな。

「腹式呼吸では苦戦していたが感情の解放はどうなんだ? 特に花見はそういうの得意だろ?」

「それがそうでもないんです。私、楽しむのは得意なんですけど怒ったり泣いたりするのが苦手なんです。何でもない状況から突然怒り出したり悲しんだりできないんですよね」

「逆に私は喜びと笑いが苦手です」

「小雪ちゃんは怒りがメチャクチャうまいよね」

「普段からイライラすることが多いからかな。褒められたもんじゃないけど」

「そこも得意分野が別れるのか。だが何か一つ感情が表現できるならコツは分かるだろ? どんな感情も具体的な体験を元にすればいいんだ」

「それは分かるんです。でもこう、感情をドーンと出そうとすると何かが邪魔をするんですよね」

 楓歌ちゃんの説明は雲を掴むようだった。

 でも本当にその通りなのだ。

 私の場合、楽しいことを思い出して笑おうとしても何か壁みたいなものが邪魔をして感情をうまく外に出せない。

「抽象的すぎて伝わらないと思うんですが、その何かを取り除かない限りはうまく感情を表現できないんじゃないかと思います」

「ん。分かるよ。お前達が言うその何かの正体はハッキリしている」

「分かるんですか!?」

「簡単だ。それは自意識というやつだな」

「自意識?」

「七夕。スマホを触る許可をやろう。Wikiでも何でもいい。自意識を検索してみろ」

「は、はい」

 言われるままにスマホを取り出し【自意識】を検索した。

 自意識。自己意識で検索結果が出た。

「何と書かれている?」

「自己が存在することに気づく能力。外界や他人と区別された自我としての意識。だそうです」

 もっと深く掘り下げると公的自意識や私的自意識という分類もあるみたいだ。

「……? ……? ……?」

「七夕。アホの子になっている花見に分かるように説明してやってくれ」

「えーと。そうだな。他人を意識するからできる他人と自分を分ける境界線みたいなものだから……楓歌ちゃん。つまり人から攻撃された時にだけ発生するバリアだよ」

「バリア!? 私はバリアを張ってるから感情を解放できないの?」

「ふむ。七夕的にはそういう解釈になるのか。人から攻撃されるというのは、他者から見られるというのを言い換えたのか?」

「そうです」

「なるほどな。花見。お前は他人に見られると知らず知らずの内にバリアを張ってしまうんだ。だからうまく感情を外に出せない」

「確かにバリアを解除しない限りはこちらからビームとか撃てませんもんね」

 安芸さんは「うん。そうだな」と言って頷いていた。

 良く分からないのに楓歌ちゃんの話に合わせてくれているんだろう。いい師匠である。

「お前達が苦手な感情を解放するには、その勝手に出るバリアを何とかしなければいけない」

「どうしたらいいんですか?」

「はしゃげ」

「え?」

「妙に大人になろうとするからバリアを張ってしまうんだ。もっと子供に戻れ」

「子供に戻れと言われてもどうすればいいんだろう。楓歌ちゃん。おままごとでもする?」

「小雪ちゃん目が怖い」

「せっかくこんな広い公園にいるんだ。ちょうどいいからこの原っぱを叫びながら走って来い」

「ここをですか!?」

 今日は天気のいい日だ。公園にはバドミントンをする家族や、レジャーシートを引いて日向ぼっこをしているお年寄り、ジョギングをしている人や楽器を弾いている人だっている。

 そんな大勢の人がいる中、大声を出して走り回るなんて恥ずかしくてとてもできそうにない。

「さっきまで発声で大声を出していたんだから別に気にならないだろう?」

「発声ははたから見ても訓練してるんだなって分かるじゃないですか。ただ叫びながら走り回ってたら完全な不審者ですよ」

「役者なんて変人ばかりだぞ?」

「変人なのと不審な行動を取るのは違うと思います!」

「ふむ。それはそうだな」

「声優になるために走る……声優になるために叫びながら走り回る……」

 楓歌ちゃんが呪文のように繰り返していた。

 さすがの楓歌ちゃんでも即行動とはいかないみたいだ。

 そりゃあ命を捨てる覚悟があれば何でもできる。

 声優になるために絶対にここで絶叫して走り回らなければいけないとなったら私も楓歌ちゃんもやるだろう。

 でもその状態で例えばクラスメイトにバッタリ遭遇なんてしたら、その瞬間に私達の命は消える。

 そんな命がけの狂走をするには相当な覚悟を決めなければいけない。

「……仕方ない。少し待ってろ」

 そう言うと安芸さんは自分のスマホを取り出して何かを調べていた。

 別の案があるなら是非そうしてもらいたい。

 できれば命を散らさない方向で決めてもらえるといいな……。

 安芸さんが調べものをしている間も、楓歌ちゃんは呪文を唱えながら走り出そうとしてはやめてを繰り返していた。

「ん。いけるな。お前らここから移動するぞ」

「移動ってどこにですか?」

「大自然だよ」

 安芸さんがニヤリと笑った。



 土気とけから電車に乗って千葉方面に一駅ひとえき進むと誉田ほんだという駅がある。

 駅から1キロほど離れたところに、私が愛してやまないカレーハウスCoCo壱番屋があるのでそこに行くために降りる駅だ。

 私にとって誉田に行くのはもはやココイチに行くのと同義なので、カレーを食べるわけでもないのにこの駅に降りたのは初めてだった。

 そんな誉田駅の駅前ロータリーでバスに乗り換え、心地よい振動に揺られること数十分。

 のどかな町並みが、だんだんと木々の生い茂る森に変わっていった。

 森の中の舗装された道をしばらく進むと、目の前に大きな時計のある塔のような建物が姿を表す。

 建物の前にある看板には【フォレストアカデミー】と書かれていた。

 バスはそのフォレストアカデミーの前で停車した。

「ここで降りるぞ」

 安芸さんに言われるままにバスを降りて周りを見渡すと、ゴルフ場やホテルの案内板が建っていた。

 ここはいわゆるリゾート地みたいな場所なんだろうか。

「安芸さん。こんな森の中に何があるんですか?」

「ターザニアだ」

「ターザニア!」

 その名はもちろん知っている。

 【フォレストアドベンチャー・ターザニア】

 森の中にある空中アスレチックで遊べる施設だ。

 前に楓歌ちゃんと話題になり、いつか遊びに行きたいと話していたのだ。

「地図だとこっちの方だな」

 安芸さんに案内されて森の中を進むと、木で作られたゲートを見つけた。

 ターザニアと書かれたゲートの向こうには吊るされた踏み板がいくつも見える。

 踏み板は木と木の間に吊るされているようで、かなり高いところに設置されていた。

「師匠。どうしてターザニアに来たんですか?」

「大騒ぎするためだよ」

「大騒ぎ?」

「お前らはまだ人の目があると騒げないらしいからな。ここで叫んだり泣いたりして騒ぐのに慣れるんだ」

「叫んだりはまだしも、泣く!?」

 確かにあんな高い所を歩かされたら怖くて泣くかもしれない。

 てっきり地面から少し浮いているくらいだと思っていたのに、見れば見るほど冗談みたいな高さがあった。

「ずっと行きたいって思ってたから楽しみです!」

 どんどん不安が膨らんでいく私とは対照的に楓歌ちゃんは目を輝かせていた。

「思ってたよりずっと高い所を歩くみたいだけど楓歌ちゃんは怖くないの?」

「今は大丈夫! でも上まであがったら怖いかも。ひゃー! あんな高い所なんて普段行かないもんね!」

 怖いと言いながらもテンションはあがっているみたいだ。

 はしゃぐ楓歌ちゃんには申し訳ないけど、私はあんな高い所を歩くと思うと血の気が引いていた。

「お前ら。確認書を読んでサインをしてくれ」

 代表して受付を済ませてくれた安芸さんが何やら一枚の紙を渡してくれた。

 そこには施設を利用する際の注意事項やルールが書かれていた。

 安全管理を徹底しているとはいえ高所を渡るアスレチックだ。当然細かいルールがある。

 私と楓歌ちゃんは確認書に目を通して名前を記入した。

 18歳未満の私達には保護者の同意が必要なので、安芸さんが保護者として署名をしてくれた。

「記入が終わったら着替えだな」

「分かりました」

 安芸さんとの訓練用に動きやすい服装で家を出てきたものの、さすがにアスレチックで遊ぶには向いていない。 

 だから昭和の森公園から移動する時に、一度家に帰って養成所のレッスンで使っている服を持ってきたのだ。

 更衣室は受付の隣に設置されていた。

 そこまで広いスペースではないので、着替えるのは1人ずつしか無理そうだ。

 なので早く動きたくて仕方なさそうな楓歌ちゃんに先に着替えてもらうことにした。

 着替えを待っている間、遠くの方から他の参加者の叫び声が聞こえてくる。

 その叫び声を聞いて私の不安は更に増していた。

 そもそも私は体を動かすのが得意な方ではない。

 そんな私が高所アスレチックに挑戦するなんて無謀なのではないだろうか。

「小雪ちゃん、着替え終わったよ!」

「!?」

 着替えを終えて更衣室から出てきた楓歌ちゃんを見た瞬間、私の不安はかき消えた。

 てっきり養成所のレッスンで使っているジャージに着替えるのかと思っていたら、もっとラフでブカブカなTシャツ姿で出てきたのだ。

 オーバーサイズの服なので小柄な楓歌ちゃんでは首元も袖も余りまくっていて、中に着ているインナーが見えてしまっている。

 見えてもいいインナーだと分かっていても眼福の極みだ。

 そして何より目を引いたのが普段めったにしてくれないポニーテールだった。

 長い髪を上の方でまとめて、動くたびにピョコピョコと髪が飛び跳ねる。

 それはもう、すぐさま抱きしめてしまいたくなるような可愛さだった。

「へへー。髪結んでみた。私の本気モードだよ」

「うんうん。かわいい。かわいいね。私と一緒にもう一回更衣室に入ろっか」

「え? なんで? どうして?」

 ああ。このまま攫ってしまいたい。

 家に連れて帰ってたくさん可愛がりたい。

 そうしたいのはやまやまなんだけど。あそこで怖いお姉さんが睨んでいるから、さっさと私も着替えようかな。


 着替えを終えて戻ってきた後、今度は安芸さんと交代。

 安芸さんも動きやすそうな服に着替えてきた。

 とは言え安芸さんは私達の訓練に付き合ってくれる時はいつもラフな格好だから、この服装に新鮮味が無いのは残念だ。

 全員が着替えを終えたので、インストラクターの人から講習を受けつつ装備を身に付けていく。

 まずはハーネスを装着した。

 ハーネスとは体に巻き付けるベルトのようなもので、これを装着することで体とハーネスが一体化する。

 このハーネスの先に滑車を取り付け、その滑車をコース上の頭の位置くらいに張られているワイヤーロープに通せば準備は完了だ。

 これで万が一足を踏み外しても、滑車を通してワイヤーロープとハーネスを装着した体が繋がっているので地面に落下はしない。

「赤ちゃんが付けるおんぶ紐みたいだね!」

 言われてみればそんな感じだ。

 ただ比較にならないほど体を締め付けられているのでやや苦しくはあった。

 いわゆる命綱なので当然と言えば当然なのだが。

「よし。じゃあ順番を決めるか」

「順番ですか?」

「ああ。コースの順路に沿って張られているワイヤーロープは1本しかない。だから1人ずつ順番に進むしかないんだ」

 そうか。滑車をワイヤーロープに取り付けたらもう順番を入れ替えられないんだ。

 つまり最初に滑車を取り付けた人は最後まで一番で進むことになる。

 どんなエリアでも一番最初に挑戦しなくてはならないのだ。

 正直、最初に挑戦するのは怖い。

 かと言って一番最後を選ぶと他の2人がクリアした後に置いてけぼりのような気分になるのでそれも嫌だ。

 となると狙うは二番目。

 最初に挑戦する人を参考にしつつ、置いてけぼりにもならない二番目が最高の位置だ。

 だから私としては安芸さん→私→楓歌ちゃんの順番が理想なんだけど……。

「はい! 私、一番に行きたいです!」

 そりゃあそうだよね。

 楓歌ちゃんが最初に行きたがるに決まっているよね。

 なら私は楓歌ちゃんの次に行かせてもらおう。

「じゃあ次は私が行きます」

「分かった。じゃあ私が最後だな。あまりグズグズしてると後ろからプレッシャーかけるからな」

「やめてくださいよ!」

 今は冗談っぽく言っているけど、いざとなったら本気でやりそうな人だから怖い。

 最初に楓歌ちゃん。次に私。最後に安芸さんの順番でワイヤーロープに滑車を取り付けてスタートとなった。


 まずは高所に移動するために木の柱に設置されたハシゴを登って行く。 

 一段登るごとに想像以上に地面が遠くなっていくのを感じた。

 ハシゴを登り切ると少し広いスペースになっていた。

 そこに立って下を覗き見ると、目が回るくらいの高度があった。

「怖ッ!!」

 思わず声が漏れてしまった。

 ワイヤーロープが支えてくれるから落下はしないと分かっていても、この高さは本能的な恐怖が襲ってくる。

 あまりの怖さに全身から冷や汗が噴き出してきた。

「小雪ちゃん。大丈夫?」

 地面ばかり見ていた私に楓歌ちゃんが手を差し伸べてくれる。

「怖いなら私の手を握ってていいよ」

「うん。ありがとう」

 体温が下がって冷えた体に楓歌ちゃんの手が暖かかった。

 本能的な恐怖よりも、この暖かくて柔らかい感触の方が私にとっては遥かに強い。

 手を握った瞬間から高さがあまり気にならなくなった。

 楓歌ちゃんと手を繋いだまま進んだ最初のエリアは、細いロープの上に30cm間隔くらいで踏み板が括りつけられている橋のような場所だった。

 例えるなら横断歩道の白い部分が踏み板になっていて、それ以外が奈落という感じだ。

 さすがに手を繋いだままここを渡るのは無理なので名残惜しくも楓歌ちゃんの手を離す。

「私が先に渡るから小雪ちゃんもついてきてね!」

 そう言って楓歌ちゃんは手すりのロープを掴みながらヒョイヒョイと板を渡って行った。

 見ている分には全然簡単そうだ。

 楓歌ちゃんはあっという間に向こう岸に辿りつくと手を振ってくれた。

「小雪ちゃーん!」

 満面の笑顔。

 あんな楽しそうな楓歌ちゃんが向こう岸で待ってくれているのなら急いで渡らねば。

 私も手すりのロープを掴んで一歩を踏み出し、最初の板に足を乗せた。

 ――揺れる。

 思った以上に揺れる。

 しっかりと踏みしめようと思ってもグラグラと揺れる板がそれを許してくれなかった。

 楓歌ちゃんはあんなに簡単そうに渡って行ったのに。

 細いロープが揺れて板ごと落下しそうな錯覚が襲ってくる。

 最初の板に乗ったまま私の足は一向に進まなくなってしまった。

 視線が自然と足元に向き、遥か下にある地面へと吸い込まれていく。

「……無理だ」

 またも口から弱音が出てしまった。

 弱音が出たが最後。もうそこから進むことも戻ることもできなかった。

 それどころか視線を前に向き直すのすら難しい。

 私の視線は地面に固定されたまま動かなくなってしまった。

 さっき楓歌ちゃんから勇気をもらったばかりなのに。

 また一瞬で恐怖が戻ってきた。

 頭の中でグルグルと思考が巡る。

 早く進まなきゃ。

 でも高い。怖い。

 次の一歩で板が外れるかもしれない。

 滑車が壊れて落下するかも。

 そもそも何でこんな危険なことを? 

 こんなの声優になるのと何の関係があるの?

 ネガティブな感情が渦巻き、思考が支配されてしまいそうになる。

「小雪ちゃんッ!!」

 ふいに響く大きな声。

 私の意識を現実に引き戻したのは楓歌ちゃんの声だった。

「下を見ないで! 私を見て! 小雪ちゃん!」

 大好きな幼馴染が大きく手を振りながら私の名前を呼んでくれる。

 視線は自然と地面から楓歌ちゃんの方へ向き直り、足も勝手に前に向かって動き始めてくれた。

 高さも気にならない。板の揺れも気にならない。 

 楓歌ちゃんが私の名前を呼んでくれるだけで、それ以外のことはどうでも良くなった。

 そのまま自分でも驚くほど素早く橋を渡りきり、楓歌ちゃんに向かって飛び込んだ。

 楓歌ちゃんは私を受け止めて抱きしめてくれた。

「大丈夫? 怖かった?」

「怖かった。だから次も私の名前を呼んで欲しい」

「うん。お安いご用だよ」

 天使の笑顔を浮かべた楓歌ちゃんが、私の手をギュッと握ってくれた。

 心の中が暖かくなる。

 また勇気が湧いてくる。

 どうやら楓歌ちゃんが手を繋いでくれている限り、私は無敵になれるらしい。

 思い返せば楓歌ちゃんと手を繋ぐのは久しぶりな気がする。

 子供の頃は全然気にせず繋いでいたのに。

 何で今はこんなに難しくなっちゃったんだろう。

「楓歌ちゃん。あの、ありが……」

「わぁー。師匠、凄いな」

「……あ」

 楓歌ちゃんにお礼を言おうと思っていたら、後ろにいる安芸さんの存在をすっかり忘れていたのに気づいた。

 振り返って進んで来た橋を見ると、安芸さんは手すりのロープには目もくれず、普通の道を歩くようにスタスタと板の上を歩いていた。

 たまに下を覗いているけど全く怖がっている様子はない。

 何だこの人。怖い物とかないのか。

 ものの数秒で橋を渡り切った安芸さんは、へたり込んでいる私と目を合わせると無表情でこう言った。

「うん。これは思ったより高くて怖いな」

 嘘つけ!! 

 ダウト。ダウト。ダウト。その顔は絶対にダウトだ。

 

 その後のエリアも楓歌ちゃんのおかげで順調に進めた。

 怖くなったら手を繋いでもらって勇気をチャージ。

 下を見そうになったら楓歌ちゃんのポニテを凝視。

 私の中でそんな攻略法が確立していた。

 途中、高低差のあるところをロープを掴んで滑り降りるエリアがあった。

 ジップラインと呼ばれているらしい。

 高さとしてはそれ程では無いものの、速度が結構出るのでビビっていたら、先に行った楓歌ちゃんが受け止めようとしてくれた。

 一応、滑り降りている人のコース内に他の人が入るのは禁止されているので、正確には私が滑り降りた後の勢いを殺すのを手伝ってくれた。

 結果、楓歌ちゃんでは私を受け止めきれずに2人して転がってしまったのだがそれがとても楽しかった。

 ターザニアはとにかく楓歌ちゃんとたくさん触れ合えるのが良い。

 手を繋いだり抱き合ったり、普段だとできないことが自然にできてしまう。

 私は恐怖心などすっかり失ってしまい、どうすれば楓歌ちゃんにもっと触れられるかという方に意識が集中していた。

 そして中盤。

 初めてルートの分岐に差しかかった。

 分岐と言ってもコースが完全に別れるわけではなくて、どちらを選んでもすぐ先で合流できるみたいだった。

 分岐は今いる場所よりも更に上に登るか。そのまま進むかだ。

 つまりこの分岐はこのエリアに挑戦するかどうかを選択するための分岐らしい。

 上に登るルートは今いる場所よりも5mほど高いところに狭いお立ち台があるだけ。

 お立ち台から先に道はなく、代わりに下の方に蜘蛛の巣のように網目状のロープが張ってあった。

「そこはやりたい奴だけやればいいぞ」

 最後尾から安芸さんが声をかけてくれた。

「師匠。これってどういうエリアなんですか?」

「ターザンロープだな。滑車を一旦外して、別のワイヤーロープに引っ掛けてターザンみたいにあそこの網目のロープまで飛び降りるんだ」

 飛び降りる!? 

 あんな高いところから!?

 今いる位置ですらかなり高いのに、更に高いところから飛び降りるなんて正気の沙汰じゃない。

 ジップラインで滑り降りるのとは訳が違う。

 このエリアをクリアするには本当に10m近く落下する必要があるのだ。

「楓歌ちゃん。ここは飛ばして次に行こうよ」 

 私がそう提案しても楓歌ちゃんはじっとお立ち台の方を見上げていた。

 嫌な予感がした。

 楓歌ちゃんがこの目をしている時は、もうすでに心が決まっている時なのだ。

「私、挑戦してみる」

 そう言うと滑車をワイヤーロープから取り外して、ルート変更のワイヤーロープに付け替えてしまった。

「ダメだよ! 危ないよ楓歌ちゃん!」

 もちろんこのエリアもワイヤーロープそのものはあるので地面に落下する危険は無い。

 でも最初に読んだ確認書に「高所への恐怖がトラウマになる可能性もある」という注意書きがあった。

 肉体に怪我がなくてもあまりの恐怖で精神に傷を負ってしまう人もいるのだ。

 私が止める間もなく、楓歌ちゃんはハシゴに手をかけて上に登って行ってしまった。

 お立ち台まで登りきると素早くターザンロープに滑車を移し替えていた。

「……」

 下から見える楓歌ちゃんの顔からは、笑顔が消えていた。

 怖いんだ。

 いくら楓歌ちゃんでも、あの高さになると楽しいだけでは抑えきれない恐怖を感じるんだ。

 当然だ。10mなんてマンションの3~4階に該当する。

 おまけに森の中で視界が開けているから余計に高く感じているはずだ。

「楓歌ちゃん!」

 心配する私の声が届いたのか、楓歌ちゃんは一度だけ私の方を見てくれた。

 そして怯えながらもヘニャリとした笑顔でピースサインをした。

 ――次の瞬間。

 ターザンロープにしっかりと両腕を絡めた楓歌ちゃんは、お立ち台からジャンプした。

 楓歌ちゃんの体がターザンロープに吊られて勢いよく落下して行く。

 地面には落ちない。それは分かっている。でもそれだけだ。

 落下の速度は普通に飛び降りたのと何ら変わらない。

 楓歌ちゃんは一番下まで落ちると、慣性で振り子の様に大きく振られた。

 ロープを掴んだまま前後に揺られ、向こう側に着いた瞬間にうまく網目のロープに飛びついた。

 側から見ていればスマートな動きだった。

 でもそれがどれくらい勇気のいる行動だったかは、この場にいる人にしか分からない。

 いや。本当の怖さなんて実際に飛び降りた楓歌ちゃんにしか分からないんだ。

 網目のロープを手繰って本来のルートに戻ってきた楓歌ちゃんは体が震えていた。

 あの元気の塊のような楓歌ちゃんが震えているなんて尋常じゃない。

「大丈夫? 楓歌ちゃん、大丈夫?」

 私は心配でそれしか言えなかった。 

「うん。うん」

 楓歌ちゃんは何とか笑顔を浮かべていたけど、それでも震えは止まっていなかった。

 私は彼女を力いっぱい抱きしめた。

「楓歌ちゃんは凄いよ。尊敬する」

「えへへ。私、スパイダーマンになるのは無理かも」

「そんなのトム・ホランドに任せておきゃいいんだよ」

 さっき手を繋いで私が勇気をもらったように、今度は私が彼女の震えが止まるまで抱きしめ続けた。

 正直に言う。この瞬間だけは本当に下心はなかった。

 本気で幼馴染を心配する気持ちで抱きしめていたのだ。


 その後はそこまで大変なエリアは無かった。

 高所に慣れたのか、恐怖が完全に麻痺したのかは分からないけど最後まで楽しめた。

 最初に安芸さんに言われた通り、大声で叫んだり大笑いしたり大騒ぎしながらターザニアのコースを完全にクリアしたのだった。

「いやー楽しかったね!」

 楓歌ちゃんはすっかり元気に戻っていた。

 弱り気味の姿も珍しくて良かったけど、やっぱりいつもの元気な姿がいい。

 ターザニアを後にして帰りのバスを待つ間、私は安芸さんに聞いてみた。

「楽しんでおいてなんですけど、そう言えばこれって感情解放の訓練でしたよね?」

「そうだ」

「訓練になってたんですか?」

「十分なったさ。大騒ぎしたおかげで今のお前らは感情がオープンになっている。花見が言うところのバリアが無い状態になっているんだ。試しにここでやってみるか?」

「今ですか? 森の中でもいつ誰が通るか分からないですよ?」

「公園よりは気が楽だろ? と言うより今ならそういうのは気にならないはずだ。いいから花見は泣いて、七夕は笑ってみろ」

 森の中のバス停で突然泣き出したり笑い出したりする女子高生。

 もし誰かに見られでもしたらやっぱり不審者だ。

 でも不思議と今なら全然やれる気がした。

 楓歌ちゃんと一緒に深呼吸して心を落ち着ける。

 感情解放は任意に感情を引き出さなければいけない。だから勢いで出来ても意味がないのだ。

 一旦心をゼロの状態へ。

 笑うには、ここから心を楽しいと思える状態にしなければいけない。

 楽しいこと……やっぱりいま体験したばかりのターザニアの体験が新鮮だった。

 楓歌ちゃんと一緒に大騒ぎしたのを思い出す。

 楓歌ちゃんと触れ合って、笑い合った記憶を呼び起こす。

「あは、あははははははははッ!」

 それは心から溢れるように。

 一度笑いだすと次から次へと楽しい想いが溢れてきて体が勝手に笑っていた。

 前はあんなに苦労していたのに。

 笑おうと思っても体が反応しなかったのに。

 今は思うように笑うことができた。 

 隣を見ると楓歌ちゃんは泣いていた。

 涙まで流して「怖かったよお!」と大泣きしていた。

 楓歌ちゃんが泣いている顔を見るなんて子供の時以来だ。

「花見。怒り!」

 安芸さんが手を叩く。

「誰だよこんな施設作ったの! どれだけ怖かったと思ってるの!?」

 楓歌ちゃんが一瞬で悲しみの感情から怒りの感情に変化する。

 苦手なネガティブな感情を見事に表現できていた。

 感情解放は切り替えが重要だ。

 いかに素早く、キレ良く感情を切り替えられるかが問われる。

「七夕。喜び!」

 再び安芸さんが手を叩く。

 私は楽しいから喜びへの感情変化を要求された。

 【楽】を笑いだとすると【喜】は爆発。

 心の中の嬉しいという想いを一気に外に放出する。

「やったあああああああッ!!」

 楓歌ちゃんに優しくしてもらえた。

 楓歌ちゃんにたくさん触れられた。

 楓歌ちゃんが泣いているところを見られた。

 楓歌ちゃんが怒っているところを見られた。

 嬉しい気持ちはいくらでも出てくる。

 何も気にせず。気にならず。

 私は森の中でただただ喜びを表現した。

「……よし。ストップ!」

 安芸さんが再度手を叩くのと同時に私達はピタリと感情の解放を止めた。

 まだ心は動いていても、それを外に出さないようにゼロの状態へ戻す。

「今の状態なら頑張らなくても自由に感情を動かせただろ? 泣けと言われればすぐに泣けるし、笑えと言われればすぐに笑える」

「はい。今なら多分、喜怒哀楽どれでもすぐに出せます」

「レッスンでやった時と全然違うね! 何のつっかえも無くできたよ」

「そう。人間はなるべく感情を出さないように制御されている。普段から感情を押し込めているから、いざ出せと言われてもうまく出せないんだ。だからこうやって感情がほぐされれば思い通りに表現できる」

「確かにほぐされてる実感があります」

「今の心の状態を覚えておくんだ。そして大騒ぎしなくても自由にスイッチを切り替えられるように研究しておくといい」

 いつでもこの状態になれるようにか。

 役者の人はみんなこういう風に自分の心をコントロールするスイッチを持っているんだろうな。

 私だったらそれは何だろう。

 やっぱり楓歌ちゃんに関することだろうか。

 今回感情の解放がうまくいったのも、ターザニアで大騒ぎしたからと言うよりは、楓歌ちゃんにたくさん触れ合えたからのような気がする。

 楓歌ちゃんに抱きしめてもらえればいつでも解放できる自信があるのにな。

 

 しばらく待ってやって来たバスに乗り込んだ帰り道。

 隣に座る楓歌ちゃんを見ると、はしゃぎ疲れたのか目がトロンとしていた。

 あまりの可愛さに目が離せなくなる。

「……うぅん? 小雪ちゃん。どうしたの?」

「楓歌ちゃんが可愛いなって」

「……そうだね。カレーが食べたいね……」

 何て可愛い反応。

 何て可愛い幼馴染なんだろう。

 ついに私に寄りかかって眠ってしまった楓歌ちゃんを見て、私は感情が爆発してしまいそうだった。

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