第8話 初レッスンってこんなもの?
それからの時間はあっという間に経過した。
10月の入所オーディションが最初の勝負だ!
……なんてことにはならず。
正直、その日は拍子抜けの一日だった。
オーディション当日。
私も楓歌ちゃんも緊張していて、2時間も早く会場に着いてしまった。
集合時間の直前まで会場近くの公園で自己PRを発表し合ったり、お互いの服装をチェックしたり、万全の準備を整えた。
そして迎えた本番。
オーディション参加者は5人で1グループに分けられた。
審査員3人の前で30秒間の自己PRと、課題として渡されたセリフを自分なりに演じる。
この内容自体は調べておいた通りだった。
ただ、審査時間がたったの10分しかなかったのだ。
1人で10分ではない。
1グループで10分だ。
審査に参加している人数が多いせいなのか、1人あたりの持ち時間が本当に短かった。
全員が課題を終えると、特に何の説明もなく「審査結果をお待ち下さい」と言われて退場させられた。
入室から退室までが早すぎて緊張がほぐれる暇すらなかった。
あんな短時間の審査で人の深いところまでは絶対に分からない。
せいぜい人前で恥ずかしがらずに演技できる人物なのかを見定めるくらいだろう。
安芸さんの言った通り、入所させてはダメな人をはじくのが一番の目的なんだろうなと思った。
ちなみに審査員が誰なのかの説明もなかったので、事務所のマネージャーがいたかどうかは最後まで分からずじまいだった。
年が明け、私と楓歌ちゃんに合格通知が届いた。
幸運にも私と楓歌ちゃんは同じクラスに編成されていた。
千葉駅にあるスタジオで土曜日のお昼のクラスだ。
最悪東京まで通うのも覚悟はしていたけど、希望した千葉のクラスに入れたのは良かった。
それから春になるまで、安芸さんに言われた通り本を読んだり映画を観まくった。
楓歌ちゃんとそれぞれ見た作品の感想会をやって、どこが面白かったかを具体的に言語化できるように訓練した。
それと芝居には絶対に必要になるであろう肺活量を鍛えるためにランニングを始めた。
運動能力抜群の楓歌ちゃんと一緒に土気の町を走り回るのは辛かったけど楽しかった。
そんな事を繰り返している内に土気の町に桜の花が咲き、春がやってきた。
4月。
私達は高校2年生になった。
新入生の入学に合わせて各部活が勧誘を始める中、我がTRPG部は部室にこもってマイペースに活動を続けていた。
元々、私と楓歌ちゃんが学校でもTRPGをやりたいから始めた部活だ。
汐星先輩を含めた3人でも十分活動できているし、TRPGに興味のない人を無理やり連れてこようとは思っていない。
だから新入生が自ら入部して来ない限りは今年もこのままのメンバーで活動するつもりだ。
今日も授業後に部室に向かう。
「おはようございまーす」
扉を開けて部室に入ると、すでに汐星先輩が来ていた。
先輩は席に座って編み物をしていた。
のんびりと毛糸を編む姿が何とも愛らしいが、そこそこ暖かくなってきたこの時期に何故編み物をしているのかは謎だった。
「おはよう小雪ちゃん」
編み物を続けたまま、汐星先輩が笑顔で挨拶を返してくれる。
ちなみにTRPG部では朝だろうと午後だろうと挨拶は「おはようございます」で統一されている。
どの時間でも「おはようございます」になるのは舞台関係者の挨拶に由来するらしい。
何でも舞台の現場では色々な人が色々な時間に現地入りするので、誰がどの時間に来ていても相手を労えるようにこの挨拶になったのだとか。
TRPG部は汐星先輩が入部した時にこの挨拶だったので、それがそのまま根付いた形だ。
当時は不思議だったけど、いま思うと汐星先輩が声優の世界に入った安芸さんに影響を受けていたんだと思う。
「あれ。小雪ちゃんもしかして寝不足?」
部室に入って早々に汐星先輩に体調を指摘される。
言われた通り、私はここのところ寝不足だった。
「そうなんです。安芸さんに言われてから家に帰ると映画ばかり観てて。顔に出てました?」
「ぼんやりと目の下にクマができちゃってるね。女の子なんだから気をつけなきゃダメだよー」
「いやー。シリーズ物で面白い作品を見つけてハマってしまいまして」
「小雪ちゃんもハマると一気にどっぷりだよね。それ以外が目に入らなくなるタイプなのかな」
「そりゃ今の私は楓歌ちゃんしか目に入っていませんから」
「女の子の話じゃなかったんだけどな。まぁいいか」
自分がハマり症なのは自覚している。
そして一度深くハマってしまうとそれが長く続くのも分かっている。
私が長年TRPGを続けているのも、楓歌ちゃんから目が離せないのもそれが理由だ。
「ねぇ小雪ちゃん」
「はい。なんでしょう?」
「少し聞いてもいいかな」
編み物を続けながら汐星先輩の声が少しだけ神妙になる。
普段穏やかな汐星先輩にしては珍しい話の切り出し方だ。
「いいですよ」
「安芸ちゃんについてどう思ってる?」
「安芸さん!?」
まさかの質問だった。
てっきり楓歌ちゃんの好きなところでも聞かれるのかと思っていた。
せっかく何から語ろうか考えていたのに。
「えーと……怖いけど案外面倒見が良い人なのかなと思います」
「ふむふむ。他には?」
「え? そ、そうですね……独り立ちしてるのもあって頼もしいですよね。戦う女性って感じで」
「ほうほう。小雪ちゃんにはそう見えるんだ」
汐星先輩は関心しながらも編み物の手は止めない。
これ、ちゃんと話を聞いてもらえているんだろうか。
「何でそんなことを聞くんですか?」
「小雪ちゃんが安芸ちゃんに嫉妬してるんじゃないかなって思って」
「私が安芸さんに!? 嫉妬!?」
「だって楓歌ちゃんが安芸ちゃんにお熱じゃない。今まで楓歌ちゃんの視界にいたのは小雪ちゃんだけだったのに、急に安芸ちゃんが現れて視線を奪われたらいい気はしないでしょ?」
なるほど。私が安芸さんに敵意を抱くんじゃないかと心配になったのか。
確かに少し嫉妬している部分はある。
でもそうじゃない。
土気南のうり坊娘こと花見楓歌はもっと単純な生き物なのだ。
そして先輩が考えている以上に厄介な女の子なのだ。
「安芸さんに対して妬ける部分があるのはその通りです。でも楓歌ちゃんって昔からそうなんですよ。自分にとって一番必要なものに熱を注ぐんです。いま楓歌ちゃんは声優になるのが目的で、そのために一番必要な安芸さんに熱が向くのは当然なんです」
「そうなんだ。それも可愛い習性だね」
「私が楓歌ちゃんの隣にいられるのは必死にしがみついているからなんです。隣にいるための努力を怠った瞬間に楓歌ちゃんはどんどん先に進んで行っちゃうんです。うり坊ですからね」
「あらぁ。大変な子を好きになっちゃったね」
「そういうのも含めて好きですから。大変ですけど燃えますよ」
楓歌ちゃんは子供の頃から変わらない。
いつだって自分のやりたい事にまっすぐだ。
楓歌ちゃんを好きなら、楓歌ちゃんに置いていかれないように同じペースで進まなきゃいけない。
幼馴染だからと言って甘えていられるような相手ではないのだ。
「汐星先輩こそ、安芸さんをどう思っているんですか?」
楓歌ちゃんを語って気分が高揚していた私は、幼馴染つながりで気になっていた事がつい口に出てしまった。
「好きだよ。私達つき合ってるし」
「へぇー。そうなんですね」
「ええッ!?」
心の底から驚いてしまった。
驚きすぎて思わず机に膝をぶつけてしまった。
ジンジンと膝が痛む。
でもそんな痛みなんてどうでもよくなるくらいに衝撃的なカミングアウトだった。
「お、お二人はつき合ってるんですか? その……恋人関係?」
「恋人だよー。私の高校入学と同時につき合い始めたから、もう2年くらいになるかな」
編み物をしながら楽しそうに語る汐星先輩が私の知っている先輩とは別人に見えた。
汐星先輩って何かこう、フワフワしていて、他人との交際なんて無縁の人だと思っていたのに。
まさか恋人がいて。
しかもそれが女の子で。
その相手があの安芸さんだなんて。
いや、あの安芸さんの部屋での関係性を考えれば妥当……なのだろうか。
「ビックリしました。まさかこんなに身近にお仲間がいるなんて」
「小雪ちゃんが知らないだけで、女の子が好きな女の子はこの学校にも沢山いるよ。本当に楓歌ちゃんしか見てないんだから」
「そうなんですか!? 全然気づいていませんでした」
「だから楓歌ちゃんから目を離したらダメだよ。いつもそばにいて私の物アピールをしておかないと誰かに取られちゃうかも。あの子可愛いんだから」
汐星先輩の言う通りだ。
あんなに可愛くて、格好よくて、優しくて、面白くて、応援したくなる女の子。
誰だって好きになってしまう。
「そう言われると不安になってきました。大丈夫かな。楓歌ちゃん今頃どこかで誰かに告白されていないかな」
「分かる分かる。私も安芸ちゃんが声優やるって言い出した時は気が気じゃなかったもん」
「先輩はその不安をどうやって払拭したんですか?」
「しばらくは我慢してたんだけどねー。でも結局自分だけの物にしちゃうのが手っ取り早かったよ」
「自分だけのもの? ええと……どういう意味でしょう?」
「告白してつき合って、それで一線越えちゃうの」
「ひぇっ……」
聖母のような優しい笑顔を浮かべた天使……だと思っていた人が、とんでもないことを言い出した。
一線を越えるというのは、つまりそういうことだ。
それは大事な人を他人に取られないように深くマーキングする凄まじい独占欲だった。
……楓歌ちゃん。汐星先輩を天使先輩って呼ぶの、一度考え直した方がいいかもしれないよ。
「おはようございまーす!」
先輩の本性に戦慄していたら楓歌ちゃんが元気な挨拶と共に部室にやってきた。
ジトリと湿度が高くなっていた部室が一気に爽やかになる。
楓歌ちゃんはここまで走ってきたのか、髪が少し乱れていた。
こりゃいかんと楓歌ちゃんが椅子に座ったのを見計らって、すかさずクシで髪を梳かしてあげた。
「ありがとう。小雪ちゃん」
綺麗な長い髪にクシを通すたび、フワリといい匂いがして心が幸福感で満ちる。
そうだ。こういうのを部室以外でもやるべきなんだ。
こうやって楓歌ちゃんは私のものだとアピールしなきゃダメなんだ。
汐星先輩が悪そうな笑顔を浮かべていたので、それに応えて悪い笑顔を返しておいた。
「とうとう今週末からだね。養成所!」
楓歌ちゃんが鞄からプリントを取り出して机の上に広げた。
合格通知と一緒に届いた養成所の案内書だ。
楓歌ちゃんはおそらく何度も読んだであろう案内書を読み返していた。
「動きやすい服装と筆記用具をお持ち下さいだって。特別な持ち物はいらないみたいだね!」
「じゃあ他に持っていくとしたら飲み物と汗拭きタオルくらいかな」
持ち物としては運動系の部活とほぼ同じだ。
声優の勉強に共通の教科書なんてないだろうから、身一つで来いという事だろう。
「私にも見せて見せて」
汐星先輩も内容に興味があるらしく案内書を読み始めた。
「面白いね。内部情報などは決してSNS等に書かないようにだって。いま時の注意事項だね」
「私達はSNSなんてやってないから大丈夫ですよ! ……小雪ちゃん。やってないよね?」
「私はツイッターとインスタのアカウントだけは持ってるよ。見る専だから更新はしてないけど」
「そうなの!? 私も何かやった方がいいのかな?」
「楓歌ちゃんには向いてないと思うからやらなくて大丈夫だよ」
「そっかぁ……」
うり坊娘ちゃんにSNSなんてリスクでしかない。
うっかり始めたら何でもかんでも気にせずに書いてしまうだろう。
ここは私が防波堤にならなくては。
「どんなクラスなんだろうね。やっぱりプロをめざす人達だからギラついてるのかな!」
「私達が何にも知らない素人だからって見下されたりしてね」
「『ここはお前達みたいな素人が居ていい場所じゃない。土気に帰りなッ!』」
「何で土気出身ってバレてるの?」
「ライバルキャラみたいな人とかいるのかな? すっごい演技がうまくて、レッスン終わりに毎回事務局の人がその人をスカウトに来るの!」
「スカウトが来てるんだったらさっさとプロになんなさいよ」
「だよねー」
TRPGの登場人物を考えるノリで養成所にいる他の生徒を想像するのは楽しい。
きっと濃いキャラクターの人達が沢山いるんだろうな。
「ところで天使先輩。安芸さんの……いえ。師匠の用事はそろそろ終わるんですか?」
「楓歌ちゃん、安芸さんのあだ名は師匠にしたんだ」
「うん。それしかないなって思った」
「来週には一息つくみたいだよ。そうしたら2人に指導してくれるって」
「ありがたやー。身近に経験者がいてくれるって心強いなぁ」
「しかも現役のプロだしね」
安芸さんには本当に頭があがらない。
そして安芸さんを紹介してくれた汐星先輩にも。
自分達だけでは難しいことでも誰かに力を貸してもらえれば進み方が見えてくる。
こうやって繋がった人との縁は大事にしたい。
養成所でもいい縁に恵まれるといいな。
週末。
私と楓歌ちゃんは養成所の初レッスンに参加した。
入所オーディションが行われた千葉駅から少し歩いた場所にあるスタジオがレッスン場だ。
更衣室で着替えてスタジオに入ると、私達の他に男女入り混じった20人程の生徒がいた。
ほとんどが私達よりも年上の人達のようだった。
中には顔立ちのいい人もいるにはいる。
やたら背の高いお兄さん。
黒髪の育ちの良さそうなお姉さん。
でも言っちゃ悪いけど、この中ならどう考えても楓歌ちゃんが飛び抜けて可愛い。
こういうタレント志望の人達が集まってくる中でも全然通用するビジュアルを持っているのは、さすが私の楓歌ちゃんだ。
そしてその楓歌ちゃんは今とてもクラスの注目を集めていた。
可愛いからではない。もっと別の意味でだ。
上半身タンクトップ。
下半身は短パン。
動きやすい格好を指定されて、まるで陸上選手のような格好をしてきたのだ。
「露出しすぎ!」
明らかに肌面積が大きい。
肩・腕・太ももをこれでもかと露わにした楓歌ちゃんが注目されるのは無理もない。
こんなことなら部室で案内書の話をしている時に一言注意しておけばよかった。
「えー?」
「えー? じゃないよ。肌を出しすぎ! 隠れてるところの方が少ないじゃん!」
「だって動きやすい格好って書いてあったから」
「動きやすいのを通り越してるの! そんな格好で動き回ったら色々見えちゃうよ!」
「大丈夫だよ。見えたって減るものじゃないし」
「モラルってものがあるでしょ!」
こんなところでも無自覚えっちを発揮しないで欲しかった。
念のため私はジャージを着てきて良かった。
中にTシャツを着ているから、ジャージの上着は楓歌ちゃんに着せよう。
楓歌ちゃんは小柄だから私のジャージだったら下もそれなりに隠れるでしょ。
「はい。これ着て」
「おお。防御力が上がった。でも代わりに素早さが下がっちゃった」
「レッスンに素早さとかいらないから」
楓歌ちゃんにジャージを着させると男連中が露骨に残念そうな顔をしていた。
ああ? 何だお前ら。
お前らなんかが楓歌ちゃんの肌をおいそれと拝めると思うなよ。
私の無言の威嚇が通じたのか、男どもは一斉に目を背けた。
全く。汚い視線を楓歌ちゃんに浴びせないで欲しい。これは今後も警戒しなきゃいけないな。
レッスンの前から悪目立ちしてしまった私達は、これ以上目立たないようにスタジオの隅で大人しくしていることにした。
しばらくすると講師と思わしき人がスタジオに入って来た。
背の高い、ほどなく老年に差し掛かろうかという男性だった。
歩き方が堂々としていて動きの一つ一つが印象に残る。
安芸さんとはまた違う、プロの風格を漂わせていた。
「おはようございます。講師の松本です」
渋くて深みのある声だった。
静かなのに力強さを感じる。
「おはようございます!」
生徒全員で挨拶を返す。
松本先生は長机と一緒に置かれた椅子に座り、持っていた資料を長机の上に置いた。
「今日から一年間よろしくお願いします。諸々の説明を始める前に、まずは自己紹介をしてもらおうかな。言いたい事があればついでに言ってもいいよ」
松本先生は机に置かれた資料をペラペラとめくった。
どうやらあの資料は入所が決まった後に事務局に送った私達の履歴書のようだ。
松本先生はその履歴書を見ながら生徒の名前を呼んでいった。
名前を呼ばれた生徒は自分の名前と年齢、趣味や特技などを言っていく。
最初に名前を呼ばれた生徒が「山高」で、次に呼ばれたのが「岩崎」なので、どうやら順不同で呼ばれているみたいだ。
「七夕」は割と最初の方なので、あいうえお順じゃなくて良かった。
できるなら後の方にやりたい。
「花見楓歌」
そうこうしている内に楓歌ちゃんの名前が呼ばれた。
「はい!」
楓歌ちゃんは元気よく返事をしてその場に立ち上がった。
「花見楓歌。16歳。高校2年生です! 地元では身長が低いのでうり坊娘と呼ばれています。TRPGをこよなく愛すゲーム大好き女子です!」
うんうん。さすが楓歌ちゃん。自己紹介も愛らしい。
こんな調子ならすぐにクラス全員が楓歌ちゃんの虜になってしまうな。
「せっかく何か言ってもいいとの事なので、声優をめざす上での目標を掲げます!」
一気に血の気が引いた。
まさか鷹月桜祭のことを言うつもりだろうか。
安芸さんから養成所では言うなと忠告されていたのに。
どうかここで無鉄砲な突撃はしないでと願いながら見守っていると、楓歌ちゃんは右手を大きく振り上げてこう言った。
「私は今日から3年以内に声優デビューしますッ!!」
…………。
…………。
…………。
楓歌ちゃんの宣言にみんながポカンとしていた。
今まで誰の自己紹介を聞いても反応していなかった松本先生ですら目を大きく見開いていた。
楓歌ちゃんの語った目標は、ここにいる全員から無謀だと思われたんだと思う。
何故ならこの養成所に通い始めて3年以内にデビューした人なんていないからだ。
私が調べた限りでは、この養成所から一番早くデビューした人でも4年かかっている。
その人は養成所2年目の試験で所属寸前まで進んだものの惜しくも落選。
続く3年目のオーディションでようやく事務所の預かり所属になった。
それからも研鑽を続けて、初めて現場に呼ばれたのが4年目。
おそらく楓歌ちゃんもこの記録を調べたんだろう。
だからあえてその人を超える3年以内デビュー宣言をしたんだと思う。
この養成所に通う生徒の中で、デビューまでの記録を塗り替えると言い出したのだ。
そもそも4年目でデビューした人だって他の人に比べれば早い方だ。
6年目でようやく初現場なんて人もいるくらいなのに。
「いや無理でしょ……」
「だったら養成所なんか通わずにどっかのオーディションに参加したらいいのに」
クラス内がざわつき始めた。
何人かは楓歌ちゃんを小馬鹿にしたような目で見ていた。
ここは1年目の初期クラス。
芝居に関しては何も知らない素人のためのクラスだ。
そんな素人が誰よりも早くデビューすると言い出せばこういう空気にもなるんだろう。
でも私は心配していなかった。
何せ楓歌ちゃんはこれまで宣言した事は絶対にやり遂げて来たからだ。
そういう主人公気質と運を持っている子なのだ。
今に見ていろお前達。楓歌ちゃんは本当に3年以内にデビューするからな。
このクラスの生徒で私だけが楓歌ちゃんの言葉を心から信じていた。
そして信じてくれたのかどうかは分からないけど、楓歌ちゃんの宣言を聞いた松本先生も楽しそうに笑っていた。
「花見。お前面白いな。楽しみにしてるぞ」
「はい! まずは一年ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
「はっはははは!」
土気の豊かな緑の中に安芸さんの笑い声がこだまする。
ここは【昭和の森公園】
土気最大の自然公園で、その敷地は100万㎡以上にも及ぶ広大な公園だ。
私達はその公園の【太陽の広場】という場所にいた。
この場所を分かりやすく説明すると巨大な原っぱだ。
端に立って、反対側の端にいる人を見ると小粒すぎて人なのかも分からないくらいに広い原っぱ。
その太陽の広場の隅っこに、私と楓歌ちゃん、それに安芸さんが座り込んで話していた。
「レッスン初日から大目立ちとはやるじゃないか」
「海賊王になるって宣言して笑われるルフィの気持ちが分かりました」
「物事は否定する方がエネルギーがいらないからな。言いたい奴には言わせておけばいい」
「安芸さんは楓歌ちゃんの3年以内デビューについてどう思いますか?」
「分からん」
「ええ……」
「運のいい奴は即採用される世界だから何とも言えない。私がそうだったからな」
「説得力しかない」
「実力なんて後からいくらでもついてくる。たまにいるだろ? 酷い棒読みなのに主人公をやっている声優。その後パッタリ見なくなるか、十年選手のベテランになっているかだ」
「楓歌ちゃんが後者になる可能性もありますか?」
「無くはない。今の市場だと花見みたいなのは受けるかもしれん」
「えへへ」
楓歌ちゃんが顔を赤くして照れていた。
楓歌ちゃんはこれでいて褒められるのにめっぽう弱いのだ。
この可愛い照れ笑いが世に知られれば、どんな市場だって放っておかないだろうに。
「で。どうだった? 養成所のレッスンは」
「……」
安芸さんの質問に、私と楓歌ちゃんは顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「えっと……和やかでした」
「結構じゃないか」
「雰囲気がいいのは嬉しかったです。でも何て言うかみんな遊びに来ているみたいな感じでした」
楓歌ちゃんのその感想には私も同意だった。
想像していたのとは違ってレッスンそのものの緊張感はほとんど無かった。
何ならTRPG部の活動時間よりも緩いくらいだ。
「もっと殺伐とした空気なのかと思ってました。だってあそこに参加してるのってみんな声優志望なんですよね? 数少ない枠を奪い合う関係なんですよね?」
「そうなるな」
「普段から険悪でいたいとは思わないですけど、それにしたって柔らかすぎると言うか。みんなで頑張って声優になろうね! みたいな空気でした」
「まあ初期クラスなんてそんな連中が多いだろうな」
安芸さんが鼻で笑った。
「知識がないのか。想像力が足りないのか。何故か養成所に通えば誰かが声優にしてくれると勘違いしている奴が結構いるんだ」
「まさかそんな。子供じゃないんですから」
「笑っちゃうよな。あり得ないと思うよな。でも連中、性根のところではそう思っているんだ」
地面に落ちていた枯れ枝を拾った安芸さんは、枝を虚空に向かってひゅんひゅんと振りだした。
短い付き合いだけど分かる。
多分いまの安芸さんは機嫌が悪い。
「当然のように自己都合で休む。講師の話を聞かない。話を聞いてもメモを取らない。帰ってから訓練もしない。新しい作品に触れたり、最近の流行りを勉強しようともしない。あそこにいればそのうち勝手に門が開くと思っているんだ。それにいつまでも気づかず、何年も何年も無駄に通って、もう取り返しのつかない年齢になった時にようやく諦める。そしてあそこに通っても意味が無いとか言い出すんだから始末が悪い」
安芸さんはパキン。と枝を折って無造作に放り投げた。
そして大きくため息をつく。
これは相当呆れてる感じだな。
「他に花見みたいに自己紹介で何らかのアピールをした奴はいたか?」
「私と小雪ちゃんだけだったよね?」
「うん。他のみんなは簡単な自己紹介だけでした」
私は元々TRPG好きをアピールするつもりだったので、過去に盛り上がったシーンを切り抜いて簡単に演じてみせた。
何人かは怪訝な顔をしていたけど、松本先生は「それはどういう遊びなんだ?」と興味を持ってくれたので、TRPGについて熱く語っていつか一緒にやりましょうねと誘っておいた。
「そうか。残念だなお前ら。そのクラスは恐らくハズレだ」
「ハズレ!?」
「対抗になりそうな奴がいないという意味では当たりか。講師は何かしらの自己PRをしろと言ったのに誰もそれを読み取れていない。そうじゃなくてもせっかく時間を与えられたんだから、何かやるべきだ」
やっぱりあれはそういう意味だったのか。
講師が ”言いたい事があればついでに言ってもいいよ” なんてわざわざ言うからには、何か言いなさいって解釈で正解だったみたいだ。
「クラスは20人弱。3時間のレッスンの中で1人に与えられる時間は少ない。なら一瞬でも自分にスポットがあたれば、それは自分をアピールするチャンスなんだ。それを言われないと気づけないなら、そもそもこの世界には向いていない」
「でも今回は気づけましたけど、次は気づけないかもしれません」
「簡単だよ花見。”声優になるためにはどうすればいいか” を常に考えるんだ」
「声優になるため?」
「道筋は説明したはずだ。養成所に通って事務所に所属してオーディションに呼んでもらう。その道筋を辿るためにどうすればいいかを考えて行動するんだ。今のクラスの中でもっとも事務所と繋がっているのは誰だ?」
「講師の方です」
「そうだな。じゃあ講師にこいつは他と違う。面白い奴だなと思わせるんだ。クラスの連中に感心されても意味がない。講師を感心させろ」
言われてみれば当然の話だ。
事務所に所属するためには評価されなければいけない。
その評価はオーディションの評価だけではないはずだ。
講師が生徒の状況を逐一事務所に報告するに決まっている。
だから普段のレッスンから常に評価されているのを意識しなければいけないんだ。
「分かりました」
「時間を無駄にするなよ。ちなみに最初のレッスンは何をやった?」
「ストレッチと腹式呼吸です」
「妥当だな。腹式呼吸は全ての基本。変なクセがつく前に覚えた方がいい技術だ」
「でも全然分かりませんでした」
「腹式呼吸は感覚の問題だからな。一度覚えてしまえば意識しなくてもできるようになる」
「吸った息をお腹に吸い込むってのが分からないんです。息を吸えば肺に入りますよね?」
「本当に腹に酸素が入って行くわけじゃないぞ。腹式呼吸だって酸素は肺に入る」
「でも先生の手本はお腹が膨らんでましたよ?」
「実際に体験した方が理解しやすいか。よし。2人とも、私の腹に触れてみろ」
「え?」
安芸さんは立ち上がって片手で自分のお腹をポンポンと叩いた。
安芸さんのお腹に触れる……。
自分よりも年上の女性のお腹に触れるのに抵抗があった。
嫌なわけではなくて、恐れ多いと言うか、失礼と言うか、そもそも他人の体に触れること自体があまり無いのに。
「失礼しまーす」
私が頭の中で色々考えてる内に楓歌ちゃんは安芸さんのお腹に触れていた。
少しの躊躇もなかった。さすがうり坊娘。
「七夕も気にするな。慣れろ」
「は、はい」
咎める気持ちもありつつ、触れと言われているのだから触るしかない。
私も立ち上がってお腹に触らせてもらった。
安芸さんのお腹は思ったよりも硬かった。
女性とは思えないくらい引き締まったお腹をしている。
「いいか。今から腹式呼吸をするから、腹がどういう動きをするか手で感じろ」
そう言うと、安芸さんは大きく息を吐いた。
するとみるみるお腹が凹んで行く。
私達の手は安芸さんのお腹を押すような形で沈んでいった。
「スゥー」
今度は大きく息を吸う。
それに合わせてお腹が膨らみ、私達の手を押し返してきた。
「これが腹式呼吸をしている時の腹の動きだ」
「すっごい動いてますね」
「胸式呼吸と違って一度に吸える量が跳ね上がる。声は喉から空気を出して音にするから、呼吸の量が重要になってくるんだ」
それから数度、吸ったり吐いたりを試してくれた。
私達と違ってお腹が動いている時に胸は一切動いていない。
「腹を動かすというのを意識してやってみろ」
私と楓歌ちゃんが言われた通りにお腹を動かしながら呼吸をしてみる。
でもどうしてもお腹よりも胸の方が動いてしまう。
「うぐぐ……難しい」
「言われていることは分かるのに、どうやって体を動かしたらいいか分からない」
しばらくやってみたもののキッカケさえつかめなかった。
「難しいか。私も最初は苦労したな。今となっては逆に胸に入れる方が難しくなってしまった」
「そういうものなんですね」
「ではここでとっておきの方法を教えてやろう」
「とっておきの方法?」
「これをやれば嫌でも腹式呼吸になる」
「そんな便利な方法があるんですか?」
「ああ。どちらから試そうかな……まあ、ここは花見か」
「私ですか?」
安芸さんが楓歌ちゃんの正面に立った。
そして右手を握ってグーの形にした。
「腹式呼吸の感覚を掴む方法、それは」
「それは?」
「腹パンだ」
「え?」
そう言うと安芸さんは固めたこぶしを楓歌ちゃんのお腹に叩き込んだ。
「ふぐっ」
お腹にパンチされた楓歌ちゃんから息が漏れる。
安芸さんは割と容赦なく腕をねじ込んで、楓歌ちゃんのお腹は強制的に凹まされていた。
「ちょっと安芸さん!」
やめさせようと私は安芸さんの腕を掴んだ。
でも思ったより力が強くて全然動かせない。
「花見。腹の力だけでこの腕を跳ね返してみろ」
「うえ?」
「その時に息を吸うんだ。息を吸いながら腹に力をこめろ」
「え……えっと。スゥーーーーー」
言われるままに一生懸命息を吸う楓歌ちゃん。
すると息を吸うごとに安芸さんのこぶしが押し返されていった。
「よし。次はゆっくり息を吐いていけ」
「は、はい。ふぅーーーーーーっ」
今度はお腹が引っ込んでいく。
安芸さんのこぶしは楓歌ちゃんのお腹に沈んでいった。
「また吸う」
「スゥーーッ」
「吐く」
「ふぅーーーーーーっ」
「できてるな。それが腹式呼吸だ」
「本当だ。できてる!」
体を動かしている楓歌ちゃんが一番驚いていた。
確かに楓歌ちゃんのお腹は、さっき見せてもらった安芸さんのお腹と同じ動きができている。
「じゃあ腕を離すぞ。今度は何もない状態でやってみろ。ただし今も私の腕が腹を押し込んでいると意識してやってみるんだ」
「はい! 押されたまま。押されたまま」
楓歌ちゃんが息を吐くとお腹は見事に凹んでいた。
限界までお腹を凹ませて、今度は息を吸う。
酸素が取り込まれるごとに楓歌ちゃんのお腹は膨らんでいた。
「よし。まだぎこちないがその感覚だ」
「凄い! できるようになってる!」
「しばらくは暇があったらこの訓練をするんだ。そのうち意識しなくても自然と腹式呼吸になっているはずだ」
経験者のアドバイスって凄い。
あんなに苦労してもできなかったことが、あっという間にできるようになってしまった。
突然お腹を殴った時は何を考えているんだと思ったけどこういう覚えさせ方もあるんだな。
……でもそれはそれとして、楓歌ちゃんが殴られたのには一言物申したい。
「安芸さん。これってわざわざ殴らないとダメなんですか? 手を添えて力を込めるだけでも良くないですか?」
「待って小雪ちゃん! 別に殴られてはいないよ」
「え?」
「お腹にぴたっと触れてからゆっくり押されただけ。全然痛くはなかったよ!」
「そうなの?」
「当然だ。要は腹筋に圧を加えるだけだからな。殴る意味はない」
「じゃあどうしてあんなオーバーな動きをしたんですか?」
「その方が記憶に残るだろ? これでお前達はこのやり方を忘れない。勉強でも何でもそうだが、理屈だけを教えられても覚えが悪いからな。印象的なやり方を見せたんだ」
「ってことはパンチするお芝居だったんですか?」
「そうだ」
全然お芝居に見えなかった。
全身の動きと表情から感じる気迫。
両方揃うとあんなに説得力が出るんだ。
「では花見。今度はお前が七夕にパンチしてやれ」
「合点!」
分かっていたけど私もやられるんだ。
そりゃできないなら当然同じ目に合わされるわな。
「ちょ、楓歌ちゃんやめて。女の子のお腹は優しく扱って!」
などと口に出してはいるものの、楓歌ちゃんにパンチしてもらえる機会なんてまず無い。
言葉とは裏腹に私の心の中はウキウキだった。
「てい!」
「うぐ!」
とは言え、体の小さい楓歌ちゃんのパンチではうまく私のお腹を凹ませられなかった。
頑張って何度もパンチする楓歌ちゃん。
全然痛くないし、必死な感じがとても愛らしい。
私がヘラヘラとそれを堪能していると。
それを見かねた安芸さんが、しっかりとした腹パン(の芝居)をぶちかましてくれたのだった。




