その日
(死ぬ時は“人間として”死にたい。私、化け物になりたくない……)
それが由奈の考えだった。彼女の目先にあるのは、ドアの上方から吊るされながら輪を描いた縄だ。
彼女の家に風音が訪れたのは、まさにそんな時である。
「由奈! いるか!?」
玄関から聞こえる活気に満ちた声により、由奈は自殺を思いとどまった。彼女にとって、風音は自分の人生を変えた恩人だ。
(……こんな時に来てくれるなんて、ずるいよ。後一秒でも遅かったら、私とっくに死んでたもん。どうして風音は……いつもいつも……)
感極まった由奈は無意識のうちに涙を流していた。彼女はすぐに玄関の方へと向かい、小さな声で囁いた。
「風音……今度はもう『余計なことしないでよ』なんて絶対に言わないから、私を助けて……」
その声は震えていた。風音はまだ彼女の顔を見ていなかったが、心情を察せずにはいられなかった。
「ああ、もちろんだ。オレを信じろ。とりあえず、ドアを開けてくれないか?」
「うん……」
家の内側から、玄関の扉がゆっくりと開かれる。この時、風音は一瞬だけ由奈の泣き顔を見た。
――――それは、由奈が人間の姿を見せた最後の瞬間だった。
彼女は突如化け物に変貌し、強靭な両腕で自らの家を粉砕した。風音は目を疑い、眼前の怪物の姿を二度見した。
「由奈……嘘だろ……!?」
いくら考えを巡らせようとしても、思考が止まってしまう。まるで肉体が動くのに精神が金縛りに遭っているかのようだった。しかし、風音には立ち尽くしている暇などない。化け物は彼女めがけて大きな拳を振り下ろす。
「必ず助けてやるからな!」
攻撃を後ろにかわしつつ、風音は咄嗟に身構えた。その顔つきには、いつものような憎悪はまるで込められていない。彼女にとって、目の前の怪物は敵ではなく大親友だ。
その時、家の脇にある曲がり角から一人の青年が姿を現した。彼はどことなく清潔な身なりをしており、容姿端麗という言葉の似合う妖美な男だった。風音はすぐに男の方に目を遣ったが、その容姿に見とれたわけではない。
(バベルの感染者を目の前にして、人間の姿を保っている。この男、オレと同じ体質なのか……?)
こんな時でさえ彼女は冷静だ。彼女がこの状況下で取り乱さないのも、由奈を元の人間に戻せるという根拠のない自信ゆえのことだろう。青年がここを訪れたのは、そんな彼女に用があってのことだった。
彼はニヒルな微笑みを浮かべつつ、風音に声をかけた。
「あなたのご友人は、あなたのせいでバベルに感染したようですね」
それは彼女にとって、あまりにも信じがたい言葉だった。何しろ、彼女自身は化け物になっておらず、自らを感染者だとは考えにくい状況だ。
「ア……アンタは、一体……?」
案の定、風音は困惑しているようだ。彼女は化け物の攻撃から己の身を守りつつも、怪訝そうな顔を青年に向けた。
そこで、青年は自分の身分を手短に説明することにした。
「あなたと同じ『インダルジェンス』ですよ。ご覧の通り、我々はバベルに感染しても化け物にはなりませんが、インダルジェンスにあらざる者にとっての感染経路にはなってしまうようです」
つまるところ、インダルジェンスと呼ばれる者たちはバベルに感染しても化け物にはならないというだけで、バベルそのものに感染しないわけではないらしい。
「インダルジェンス……?」
「おっと……悠長に話を進めている場合でもなさそうですね。とりあえず、まずはそこの化け物を片付けてください」
彼は感情の起伏が少なく、一目では何を考えているのか想像もつかないような人間だ。風音はこの男のことを警戒していたが、今は目の前の化け物をどうにかしなければならない。彼女は「鈴木由奈だったもの」をまっすぐに見据え、全身の神経を研ぎ澄ました。




