心の葛藤
ありさが気づくと、周囲には果てしなく続く真っ白な空間が広がっていた。彼女のすぐ目の前には、もう一人の彼女らしき何かがいる。この桐ヶ谷ありさのようなものは可視化された黒いオーラをまとっており、本物の彼女とは差別化された雰囲気をしている。
ありさは尋ねた。
「お前は一体……何者だ?」
自らと同じ外見をしているそれが一体何なのか――――もはや一目で察することはできない。ただひたすらに異様で、どことなく狂気に満ち溢れている。そいつは無機質な表情を保ったまま、ありさに話しかけてきた。
『……私は、お前が今まで殺し続けてきた“心”だ』
なおさら不気味なものである。先ほどまでサイボーグと死闘を繰り広げていたありさは、知らぬ間に妙な世界に迷い込んでいたようだ。
「私の……心だと……?」
『絶望、後悔、孤独、自責、自己嫌悪――――お前が封じ込めてきた全ての感情……それが私だ』
「なるほど……それだけわかれば十分だ」
これ以上の言葉は必要ない。彼女はそう考え、何のためらいも見せずに銃を構えた。それからはもう一秒の猶予も許されない。
この一瞬で、ありさは眼前の「心」の額を撃ち抜いた。
そいつは黒い液体のようなものに姿を変え、地面には漆黒の水溜まりが生まれた。ありさは勝利を確信し、小さなため息をつく。しかし――――
『心というものは、何度殺してもお前自身に付きまとうものだ』
――――「心」はすぐに元の姿を取り戻してしまう。どうやら、こいつは一筋縄ではいかぬ相手らしい。ありさはもう片方の手で機関銃を持ち、性懲りもなく射撃を続ける。その腕前は相変わらず人間離れしており、連射される銃弾の全ては眼前の標的の急所を的確にえぐっていく。
「桐ヶ谷ありさというものは、何度でもお前を殺すものだ」
『無駄なことを……』
「無駄なものか。私の殺していない感情は、私の殺してきた感情よりもはるかに強い。お前が殺され続けてきたのも、お前自身の弱さゆえだ」
『だが、人間は誰しも心に弱さを抱えているものだ。その摂理を覆せる者などどこにもいない』
「インダルジェンスの私には、今や『人間』を名乗る権利などない」
――――人間離れしているのは銃の腕前だけではないらしい。彼女は精神力においても常人を凌駕していた。真っ白な空間で、銃声が鳴り響く。心は何度も復活を遂げ、そのたびに蜂の巣にされていく。どういうわけか、ありさの銃が弾を切らすことはない。この世界に限り、彼女は永遠に射撃を続けることができるようだ。
『馬鹿な……なぜそんなことができる!』
「この弾丸は私の魂だ。そして、私の魂が尽きることは絶対にない。私はこんなところで犬死にするわけにはいかないんだ!」
『真っ赤な他人に等しき偽りの妹を守るためだけに、よくもまあそこまで必死になれるものだな。今のお前に、守るべきものなど何もないというのに……』
そいつの言い分はもっともだ。ありさは元より天涯孤独の身であり、血の繋がっていない身寄りもバベルに感染して死亡した。今の彼女は戦う理由があるようには見えないだろう。しかし、ありさも無意味に己の心と戦っているわけではない。
「ああ、お前の言う通りだ。私は本当に守るべきものを守れなかった」
『そうだ! お前の戦いはもう終わ……』
「だからこそ、こんなところで死ぬわけにはいかない。だからこそ! 私はっ……大切な誰かを守ったという記録を残すまで生き続けるんだ!」
それが彼女の信念だった。ありさの目の前では、彼女と同じ姿をした「心」が弾丸に肉体を削り取られていく。そいつは今にも砂煙と化しそうな有様だが、最期まで彼女の心を揺さぶろうとしていく。
『もう恥ずべきことはないだろう! 原罪者は死に絶え、インダルジェンスが勝利する! それで十分なはずだ!』
「私の戦争は殺すための戦争じゃない……守るための戦争だ。敵をせん滅したところで、大切な人を守れなかったら何の意味もない」
『そうか……だが覚えておくが良い。心を完全に殺すことなど、誰にもできやしないということを……!』
ありさが今まで封じ込めてきたそれは、宙に溶けて消滅した。




