秩序と権利
時刻は午前六時――――インダルジェンスの朝は早い。軍隊に追われている風音は、太陽の見える時間帯には常に周囲を警戒しなければならない。一瞬でも隙を許したが最後、彼女は命を落とすこととなるだろう。
(笑っちまうよな。オレは自分の血清で世界を救えるんだと思い上がっていたのに、実際のオレは世界の敵だったんだもんな)
バベルは風音の全てを狂わせた。心を癒す暇もなく、新たな絶望の刃が傷跡をえぐっていく。彼女は絶え間なく続く苦痛と独りで戦っている。仮に風音が助けを呼んだとしても、その声は彼女の友人にも家族にも届かない。
そんな彼女に新たな出会いが訪れたのは、その数日後のことである。
数日の間、風音はいつものように軍隊と戦ってきた。しかし、彼女は依然として軍人を殺そうとはしなかった。彼女はただ軍人を気絶させ、その場に置き去りにするだけだ。この期に及んでもなお、風音は軍隊の攻撃が収まることを本気で信じているのだろう。場所は、車の通ることのなくなった大通り――――この日も、彼女は銃を構えた軍隊を睨みつけながら身構えていた。
――――その瞬間だった。
突如、機関銃の音が鳴り響き、彼女の眼前に立つ軍人たちは次々と倒れていった。連射された弾丸は、いずれも敵の急所を正確に穿っていた。ある者はこめかみを撃たれ、ある者は心臓を撃たれ、またある者は両目を貫通した銃弾に脳を深くえぐられた。とても人間業とは思えない。
風音は度肝を抜かれ、恐る恐る後ろを振り返った。遠方から姿を現したのは、両方の手に機関銃を構えた黒髪の女性だった。その堂々たる出で立ちを前にして、風音は生唾を飲み込んだ。
(二丁拳銃で、しかも機関銃だと!? しかも、見た感じ狙撃手としてもかなり優秀じゃねぇか! アイツ、一体何者なんだよ……)
銃火器に関する知識を持たない彼女にも、黒髪の女性の所業が人間離れしていることは一目で理解できたようだ。だからといって、風音が眼前で繰り広げられた殺戮を見逃すことはない。
「なぜアイツらを殺した。オレはアンタの助けなんか必要ねぇし、むやみに人を殺したくねぇ」
彼女はそう言い放ったが、目の前の女は顔色一つ変えなかった。女は命を奪ったことを悪びれる様子もなく、無表情で自己弁護をする。
「人権って、なんだと思う? 私は、法律を守る者に与えられるリターンだと思う。そして、それが失われた今、私たちインダルジェンスに法律を守る義理はない」
当然ながら、風音はその言い分に納得できなかった。
「お……おい。お前の言い分じゃ、法律を抜きにすりゃ人を殺しちゃいけねぇ理由なんざねぇってことにならねぇか?」
「我々が人権を失っているというのに、とんだ綺麗事だ。奴らが人情で私たちを見逃してくれるのなら、私も人情で奴らを見逃す」
「話せばきっと分かり合えるはずだ! そうだろ!?」
いかなる絶望の淵に立たされてもなお、彼女の正義感は健在だ。あるいは、全てを失った身だからこそ綺麗なものにすがりたくなるのかも知れない。しかし、和解の道を愚直に信じ続ける風音とは対照的に、黒髪の女性は世界に敵意を抱いているようだ。
「銃を持った者同士の話し合いは、口ではなく鉛玉で行うものだと決まっている」
「でも……」
「銃声も肉声もさほど変わらない。ただ、言葉が相手の胸に響かないことは多々あるが、私の銃弾は確実に標的の頭を貫く。馬鹿を黙らせるにはこれが一番手っ取り早い」
――――女性は全てを見限った人間の眼差しをしていた。彼女は物静かな佇まいをしていたが、静かな殺意を秘めた雰囲気を醸している。
そんな彼女の胸倉を勢いよく掴み、風音は怒声を張りあげる。
「相手は……人間なんだぞ!?」
無論、黒髪の女性からしてみても、そんなことは百も承知だ。それでも、彼女には軍人を殺さずにはいられない理由がある。
「私たちも人間だった。しかし、今は違う。私には桐ヶ谷ありさというヒトとしての名前があったが、それも今は名乗るための名前でしかない」
バベルが猛威を振るっている今、インダルジェンスと呼ばれる者たちの人権は無きに等しい。ありさと名乗る女性もまた、バベルに人生を狂わされた一人にすぎないのだ。硝煙の匂いの立ち込める路上で、風音は淀んだ空気を感じていた。




