善良な市民
無論、風音はそう簡単に見知らぬ相手の話を鵜呑みにするような女ではない。学識で他人に劣りがちな彼女にも、最低限誰かを疑うということはできるようだ。彼女は質問を続けた。
「……アンタの話、何を根拠に信じれば良いんだよ。アンタはどこでそんなことを知ったんだ?」
これもまた真っ当な疑心である。出どころのわからない情報を語られたところで、それを易々と信じるわけにもいかないだろう。
ましてや、それが真実であったとして、眼前のインダルジェンスがそれをどのように知り得たのかも甚だ疑問である。
青年はポープロを操作し、宇宙の広範囲を網羅した立体的な地図を宙に映し出した。その左端には地球、右端にはバベルの塔が表示されている。その間には様々な天体があり、その一部には赤い文字で「人工物あり」と書かれている。この大きなホログラムを右手で指しつつ、青年は自分がいかにして情報を手に入れたのかを説明し始めた。
「いずれ否が応でも真実だとわかることです。僕は宇宙に散りばめられたいくつもの超古代文明の残骸を経由し、バベルの塔にハッキングしました。そこに眠っていた古代文字のドキュメントのようなものを解読し、バベルやインダルジェンスにまつわる情報を入手することにも成功しました」
要するに、彼は宇宙の至る所に残されている先史時代の人工物を中継機の代わりにし、バベルの塔にアクセスしたらしい。それが本当ならば、この男は一度にいくつもの人工物にハッキングしていたことになる。
理屈はかろうじて成立していたが、それが信憑性に欠ける話であったことに変わりはない。当然ながら、風音はあまり納得していない様子だ。
「突拍子もない話だな……」
「せいぜい、信じたいことだけを信じていれば良いですよ……甘言蜜語に耳を傾けて身を滅ぼすのも人間の性ですから。信じたいことだけを信じる者がいるから欺く者は絶えず、信仰に帰属意識を持つ者がいるから争いは絶えないのです」
「ああ、確かにそうだ。つまり、最後に信じられるのは自分だけ……だからオレは自分を信じる」
結局、彼女は青年の話を信じないことにした。一方で、青年にも無理に彼女を説得する意志はないようだ。
「それもまた信仰のあり方の一つなのかも知れませんね。あなたとはまたお会いすることになるでしょう……相良風音さん」
彼がこの場所を訪れた目的は、あくまでも持っている情報を同胞に提供することだけらしい。青年はポープロから投影されていたホログラムを閉じ、もう用事は済んだとばかりにその場から消えようとした。
しかし、風音は青年を引き止めた。
「ちょっと待て。まだアンタの名前を聞いてねぇ」
相手は素性の知れない赤の他人だ。この男についてわかっていることはただ一つ――――彼がインダルジェンスであるということだけである。ここで彼の名前を聞いておくのは、的確な状況判断であると言っても良いだろう。青年は彼女の方へと振り向き、自らの名を名乗った。
「僕は羽柴朱朔。バベルが地球に投下される前までは人権が約束されていた……ただの善良な市民だった者です」
一先ず、これで彼の名前ははっきりした。ただ、朱朔と名乗るこの男が「ただの善良な市民」を名乗って良いものかはいささか疑問である。案の定、風音は引きつったような苦笑いを浮かべている。
「ただの善良な市民って、現代科学では仕組みがわからない機械にハッキングすることなんかできたっけ……」
「では、あなたは何者ですか。善良な市民には、民家を瞬時に粉砕するような化け物相手に丸腰で圧勝することなんてできませんよ」
――――ごもっともだ。朱朔の知能が常軌を逸脱しているように、彼女の戦闘能力もまた常軌を逸脱している。
だが風音はそんな自分を強いとは思っていないようだ。
「アンタはオレを買いかぶりすぎだ……オレは漫画みてぇな無敵のヒーローに憧れているだけのただの善良な市民だよ。大親友一人守れないオレには、世界を守るヒーローになんてなれっこねぇからな。オレは……無力だ……」
スーパーヒーローに憧れてきた彼女にとって、由奈を守れなかったことはあまりにも心残りだった。ましてや、彼女自身が己の力を過信してきたのだからなおさらのことである。気を遣ってのことか、はたまた本心から彼女の実力を買っているのか、朱朔は彼女のことを擁護した。
「物語のヒーローにとって、世界は自分を成功に導いてくれる舞台装置に過ぎません。一方で、現実はあなたの勝利を約束するようには設計されていません。それでも自らの力だけで戦おうとするあなたは、どんな物語のヒーローよりも強い人だと思いますよ」
彼はそう言い残し、由奈の家の跡地を去っていった。




