第2話 優しい店主
店の二階にある風呂場に案内された俺は、濡れた服を脱ぎ捨て、浴室に入った。
体に湯をかけると、その熱さに身悶えする。
改めて自分の危機的状況を認識した。
――本当にやばかった。今風邪を引いたら、それこそ“詰み”だ。
髪を洗い、体を洗う。
そして、ゆっくりと、慎重に湯船に浸かる。湯の温もりが全身にゆったりと染み渡っていく――。
――あー極楽だあ……。
事態は好転したわけではないが、とにかく一息つくことができた。
(これからどうしよう……財布もないしスマホもない。とりあえず警察に遺失物届けを出しておこう。そして身分証明書を再発行して、それから……ああ、スマホがないと調べ物すらできないな……)
「湯加減はどう?」
「はい、とても気持ちいいです」
「わたしも一緒に入るね」
「は? え、いや、ちょっとまってください!」
「女の子同士だもの、気にしないでいいのよ。何があったのか、お風呂でゆっくり聞かせてね」
そう言って風呂場のドアを開ける店主の女性。
一糸まとわぬその姿に、慌てて目をそらす。
女性はふふっと笑った。
「あら恥ずかしいの? でも、裸のほうが素直になれるものよ」
「いえ、そうじゃなくて! 俺、男です!」
一瞬、時が止まった。彼女の視線が、俺の顔と湯船に浸かる体を何度も往復し――。
「え、うそ!? きゃああああ!!」
慌てて浴室を出た店主は、恐る恐るこちらを覗く。
「すみません! 俺、言ってなかったですね! 香坂湊、二十歳の男です! ごめんなさい!」
「ううん、こっちこそ叫んじゃってごめんなさい。可愛い顔と声で、髪も長めだったから、女の子と思いこんじゃった。それに……おヒゲとか無いし、脚も綺麗……」
遠慮のない視線に、いたたまれなさを感じた。
「そんなにじっくり見られると……その……恥ずかしいです……」
「あ! ごめんなさい! ……でも、私も風邪ひきそう……やっぱり一緒に入りましょ?」
「え!? あ、じゃあ……目をつぶってます! ――はい、どうぞ!」
まだ名も知らぬ女性と湯船に浸かるだなんて……。
ありえないような状況に、心臓が跳ね上がった。
かけ湯をした後に、そっと湯船に浸かる。
縮こまっている俺の膝に彼女の膝がとんと当たる。
その瞬間、体がびくっと反応してしまう。
「じゃあ自己紹介からね。私の名前は倉科澪。『喫茶店サウダージ』のオーナーなの。よろしくね」
目を瞑っているので、やたらと音に敏感になる。浴室に響く涼し気な声が、やたらと色っぽく感じた。
「ああ、はい、こちらこそよろしくです……。すみません、色々と」
ここに至るまでの話を倉科さんに説明した。
目を瞑っているので彼女の表情は分からないが、優しく声に出して相槌を打ってくれるので、不安は感じなかった。
「……可哀想にね。就職して間もないうちに……そんな目に遭うだなんて。うぅ……」
俺の話を親身に聞き、涙声に変わる倉科さん。とても優しい人だなと思うが、同時に危うさも感じた。
「私のことも話さないとね。――歳は二十七歳。湊くんより大分お姉さんね。元々お爺ちゃんと二人でお店を経営してたんだけどね。去年の暮れに亡くなっちゃって……今は私一人きりなの」
寂しげに語る倉科さんだが、一人暮らしをバラすのは正直どうかと思った。
「それはお気の毒に……大変だったんですね。ただ、一人暮らしという情報は人に知られないほうがいいと思います」
「そ、そうなの? ごめんなさい。私そういうの疎くて」
そもそも初対面の男と風呂に入ってるってだけで危機感はゼロを通り越してマイナスだ。こんなリスクの塊は見たことがない。
「湊くん……行く場所がないなら今日は泊まっていきなさい」
「倉科さん。お気持ちはありがたいですけど……そんなこと初対面の男に言っちゃ駄目ですよ?」
俺の言葉をどう受け止めたのか、間近に近づいてきた倉科さん。
「澪って呼んで。――湊くんはそんな悪い事する人なの?こう見えて、私は人を見る目には自信があるの」
そう言って、そっと俺の手を掴む澪さん。柔らかな感触に思わず息を呑んだ。
「君は傷ついちゃったけど、癒える場所さえあれば、すぐに空高く羽ばたけるはず。だからさ、せめて今夜ぐらいは……うちで癒そう。ね?」
男女を間違えた人が、人を見る目がある?
いったいなにを根拠に言ってるんだ。
まったく、見た目よりよっぽど頑固な人のようだ……。
そんな、俺、初対面で、あれ……、言葉が、でない……。
「う、うわああぁぁ……! ああぁぁ……」
子供のように泣きじゃくる俺に、澪さんは自分の胸にそっと抱き寄せた。
人の優しさ、そして温もりをこれほどまでにありがたく思ったことはない。
彼女と知り合ってから一時間と経ってない間の出来事だ。
まだ死なずに済むことに心から感謝した。
先に風呂を出てから、用意してあった着替えを着ようとしたが、女性用の下着が置いてあった。これ、きっと澪さんの下着では……。
さっきまで女の子と思ってたから仕方ないと思った。
ただ、自分の下着を履かせようとする辺り、なんとも言えない気持ちになる。
ボストンバッグには下着が入っているが、濡れていたので玄関に置きっぱなしだった。
スウェットの上下を用意してくれてあったので、下着なしでそのまま履いてみる。――何だ、この妙な罪悪感は……。
その後澪さんが風呂から上がった。
「下着とかは洗濯してるから、そのうち着られるよ。お腹すいたでしょ。ご飯にしよっか」
体を拭きながら澪さんが言うが、あまり体を隠そうとしない。どうやら俺は男と見られていないようだった。仕方がないので首をなるべく澪さんに向けないよう努力する。
改めて部屋やキッチンを見ると、いたるところに物が溢れかえってる。片付けが下手なのはよく分かった。シンクも洗っていない食器が溢れかえっていた。
これでどうやってご飯を食べさせるつもりなんだろうか。そもそも喫茶店って軽食とか出すと思うが、衛生観念があまりにがっかり過ぎた。
「澪さん、ご飯ってどうしてるんですか?」
「ふっふっふ、これだよこれ! 冷凍食品のお弁当シリーズ! 栄養満点だよ! さあ、食べよう!」
そう言ってニコニコしながらレンジでチンする澪さん。鼻歌なんて出ちゃってる。彼女が冷蔵庫を開けると、中にはお酒がいっぱい入っていた。
「湊くんはお酒飲める? うち今お酒しかないからさ」
「飲めないことはないです。強くもないけど」
レンジでチンした冷凍食品を肴に、澪さんが缶ビールをプシュッと開ける。俺もそれに続いた。
「二人の出会いを祝して、それと、湊くんの新たな出発を祈って、かんぱーい!」
「かんぱーい……」
空きっ腹に染み込むアルコールの味。最後に飲んだのは数週間前の卒業の飲み会か。
(専門学校の仲間はどうしてるかな。スマホがなければ連絡も取れないじゃないか……)
思い返すと自分のバカさ加減に悔しくなる。ビールはとても苦く感じた。
「今の冷凍食品ってホント美味しいよね! もう自炊する必要ないんじゃないかって思っちゃう!」
そんな彼女の言葉に不安を感じる。
「お店で出す食事とかどうしてるんですか?」
「うちは飲み物で勝負だから!」
自信たっぷりに言うが、全く答えになってない。
でも、この家の惨状を見る限り、料理が得意とかってことはなさそうだ。
調理師の免許とか大丈夫なのだろうか。食品衛生責任者やら保健所とかの許可とか、下手したら色々詰んでるんじゃないのか?
そんな俺の不安げな視線を感じ取ったのか、彼女は神妙な面持ちを浮かべた。
「湊くん呆れちゃってるでしょ。見ての通り、私駄目なのよね。生活能力ゼロなの。得意なのは紅茶やコーヒーを入れることだけ。あとは全部お祖父ちゃんに任せてたからさ」
自虐的に笑う彼女は、伏し目がちに話を進める。
「お祖父ちゃんが元気だった頃はそれなりにお客さんも入ってたんだ。でも、今はもう滅多にお客さん来なくなっちゃった。私に喫茶店なんて無理だったみたい。もう店閉めちゃおうかなって思ってるんだ……」
初対面のときは猫背で、陰鬱な印象だった彼女。
でも、たまに見せる笑顔はとても綺麗で、眩しいほどだった。
しかし、今はまた、どこか陰のある顔に戻っていた。
勿体ないって思った。
ほんの少しの化粧で彼女は見違えるほどの美人になるのは間違いなかった。
彼女ほど磨けば光る存在は他にないと、俺の経験が囁いた。




