第1話 香坂湊、詰む。
――あ……詰んだ。
人生で何度目か経験したこの感覚。
しかし、今回ばかりははっきりと、明確な“詰み”が間近に迫っていた。
――――
四月、期待に胸を膨らませ、都内に本社を構えるファミリーレストランに就職した俺、香坂湊。
軍隊のような一週間の研修を終え、今日から本格的に仕事が始まる――はずだった。
本社は騒然としていた。押し寄せるマスコミに、そこら中で怒鳴り声をあげる社員たち。
「倒産だと!? ふざけんじゃねえよ!」
「すみません! 今の気持ちを是非カメラの前で!」
「家のローン残ってるのに……、あのヒゲ社長! 会社の金、持ち逃げだって!」
「子どもの養育費どうすんのよ!」
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。俺はただ呆然と、その様子を眺めていた。
ツイてないでは済まされない。
蓄えもないし、住む場所だって会社頼みだった。帰る家が俺にはないのだ。
財産は僅かな預金と、ボストンバッグに着替えがあるだけだ。
非情にも社員寮は即退去。鍵を没収されてしまった。
預金はギリギリ一ヶ月しのげるかどうか。
それも住む場所があってのこと。
――我ながら無計画な金の使い方だった。永久脱毛なんてやらなけりゃよかった……。
当面はネット喫茶暮らしで日雇いバイト生活となるのも自業自得か。
溜め息をつきながら財布に入ってるお金を確認する。
――って、財布どこだ……。スマホは?
バッグの中には入ってない。服のポケットにももちろんない。
全身の血がサーッと抜け落ちる感覚がした。冷や汗で背筋は冷たく濡れ、全身に力が入らず、思わず地面に膝をついた。
――なにやってんだ俺……。
――やばい、詰んだ。
――やばいやばい、考えろ俺!
そんな俺を嘲笑うかのごとく、雲行きが怪しくなる。
ポタ、ポタポタ、ザーーーッ!
突然の土砂降り。傘なんて持ってない。
――畜生、俺が何をしたっていうんだ! ツイてないにも程があるだろ!
とにかく緊急避難だ。雨宿り出来そうな場所を見回す。
ふと、路地裏にある寂れた喫茶店が目に留まった。
どことなく昭和を感じる看板には、『喫茶サウダージ』と書かれていた。
明かりが灯っておらず、植え込みの荒れ具合を見る限り閉業したように思えた。
とりあえず雨が止むまで軒下を借りることにした。
四月の夕方は思いのほか冷え込み、びしょ濡れになった体から容赦なく体温が奪われていく。やがて、がたがたと全身が震えだした。
たまらずしゃがみ込んで、惨めに膝を抱えた。
――父さん、母さん。ちょっと、俺やばいかも。案外早く会えるかもね……。
絶望を感じたその時――。
――カランッ。
喫茶店の扉が開き、長身の女性がのそっと現れた。
黒色のロングヘアに物憂げな表情は、知的でありながら、どこか陰鬱な雰囲気を纏っていた。
「お客さん、じゃないようね……。あら貴方、ずぶ濡れじゃない。さっ、お店に入って」
「いえ、すみません、お店、閉まってると思ってました……。すぐどきます。お邪魔しました!」
慌てて走り出そうとする俺の腕をぐっと掴んだ。
「え……あの……?」
「お困りなんでしょ? いいから入りなさい」
そう言って店に引っ張り込む。見た目とは裏腹に、力強さを感じた。
カウンターに腰掛けた俺に、女性は熱いおしぼりをくれた。思わず顔に押し当てると、その温もりに少し泣きそうになってしまった。
少し気分が落ち着き、改めて店内を見回す。
照明は控えめで、どこか昭和の香りが漂う。カウンターには今時珍しいサイフォン式の抽出器具が置かれていた。
アルコールランプに火が灯り、フラスコの水がゆっくりと熱せられていく。やがて湯が細い管を伝って上のガラス容器へと昇り、コーヒーの粉をふわりと包み込んだ。
琥珀色の雫がやがて一本の線となり降り注いでいく。辺りに香ばしい香りが満ちていく。
「これを飲んで温まってね。サービスにしておくから」
そう言って女性は微笑みを浮かべ、コーヒーを差し出してくれた。熱い湯気の暖かさが身に沁みるようだ。ゆっくりと口に含み、香りを楽しむ。なんて、美味い――。
「こんなに味わい深いコーヒーは初めて飲みました。すごいなこれ……」
冷えた体だからそう感じたのか、それともこのコーヒーが特別なのか。俺の感想に、女性は嬉しそうに微笑んでいた。
窓の外に視線を移すその仕草にドキッとする。
今更気付いたが、女性の顔立ちはとても整っていた。
目隠れの長い前髪に、猫背なせいで、彼女の魅力はその真価を発揮していないように思えた。
「大雨ね……。これじゃあお客さんはこないかな。もっともお客さんなんて何日も来てないんだけどね」
苦笑交じりに店主が笑った。
「お店の看板、電気ついてませんでしたよ。閉まっていると思ってました」
さすがに「潰れてると思いました」とは言えなかった。
「あらあら、そうだったのね。でも、今日はもうおしまいにしましょう」
時刻は十八時を過ぎた。ふと現実に戻される。俺はこれからどうすれば――。
「貴方、このままでは風邪をひいてしまうわ。お風呂に入っていきなさい」
「え、いやそんな悪いですよ……」
「遠慮しないで。貴方、唇が真っ青よ?」
心配そうに見つめる女性に、心が折れそうになる。人の親切がこれ程ありがたく感じたことは今までになかった。
「すみません。ほんとは体が冷えてやばいんです。ありがとうございます。この御恩は必ず返しますので」
泣きそうな気持ちだった。――心も相当弱ってるな俺……。




