9 なぜか魔王とチェスをしています
「とりあえず、遊びましょう!」
私が両腕いっぱいにおもちゃを抱えているのを見て、彼は眉をひそめた。
「何だ、それは」
「おもちゃです。倉庫から拝借してきました」
「見ればわかる。なんのつもりかと聞いているんだ」
「心身の健康は娯楽から、です。さあ、楽しみましょう!」
彼を救う。といっても、方法が分からない。とりあえず、彼を闇落ちさせないように、私は彼を楽しませることにした。
私は床におもちゃを並べた。
木馬。積み木。人形。からくり仕掛けの鳥。
そして、黒と白の駒が並ぶチェス盤。
「どうですか!」
「どう、とは」
私はからくり鳥のぜんまいを回した。
ぎぎぎ、と音を立てて、小さな鳥が羽をばたばたさせる。
「ほら、見てください。羽が動きます」
「それで?」
「……羽が動きます」
「……」
会話が終わった。
私は積み木を差し出した。
「じゃあ、これはどうですか。いろんな形が作れますよ!」
「作って何の意味がある」
「木馬は?」
「この年齢で乗れるわけないだろう。子供じゃあるまいし」
何を出しても、彼は興味を示さなかった。
無関心。
その一言に尽きる。
楽しいと思う前に、楽しむことを諦めている。
それがわかってしまって、私は少しだけ胸が苦しくなった。
この古びたおもちゃたちは、きっと昔、誰かの笑い声のそばにあった。
けれど、彼のそばにはなかった。
あまりにも残酷だった。
「……じゃあ、これは? これなら興味ありますよね」
ふと、箱の底に黒と白の駒が入った盤を見つけた。
チェスだ。
未来の魔王城で、私は魔王とチェスをした。
あの魔王は強かった。
腹が立つくらい強かった。
こちらの手を読み、意地悪く追い詰め、負けた私を見て楽しそうに笑っていた。
そのチェスが、ここにもある。
私はそっと盤を取り出した。
「さあ、やりましょう!」
「知らない」
「え?」
「ルールを知らないと言った」
私は固まった。
魔王が、チェスを知らない。
あの魔王が。
私を何度も何度も負かして、「弱いな」とか言ってきた、あの魔王が。
「……本当に?」
「嘘をつく意味がない」
「では、私が教えます」
「別にいい」
「えーと、盤の並べ方は――」
「お前、人の話を聞かないな」
私は床にチェス盤を置き、駒を並べはじめた。
白と黒の駒。
王、女王、騎士、僧正、塔、兵士。
「これは王様です。取られたら死にます。で、こっちが女王です。どの駒よりもすごく強いです」
「王より?」
「はい」
彼は眉をひそめた。
「王より女王の方が強いなんておかしい。王の立場がないだろう」
「現実もわりとそんなものです」
「不敬だぞ」
「とにかく! この遊びは、相手の王様を逃げられない状態にしたら勝ちです。駒ごとに動き方が違うので、それを使って追い詰めます」
私は簡単に駒の動かし方だけを説明した。
彼は聞いていないような顔をしていたが、質問は妙に的確だった。
やはり頭はいいのだろう。
(きっと、彼はチェスの才能がある。いくら初心者とはいえ、生半可な気持ちで戦ったら負ける……!)
そう思っていた。
最初の一局が始まるまでは。
(よっわ……)
驚くほど弱かった。
未来の魔王が強すぎたせいで、勝手に最初から天才なのだと思っていた。
けれど目の前の彼は、駒の動かし方は理解しているのに、なぜか王を危険地帯に突っ込ませる。
王子なのに王を大事にしない。
「王は守らないと負けますよ」
「王を守るために兵を捨てるのか」
私は少し黙った。
彼の瞳は盤の上を見ている。
小さな兵士の駒。
それを見つめる顔が、どこか冷たかった。
「……王は国のために、民のために死ぬのが当然だろう」
彼は小さく言った。
「王族とは、そういうものだろう」
私は何も言えなかった。
「死ななくていいんです。あなたは、私が助けますから」
私は自分の王を一歩動かした。
「王族だからって、国のために自分を犠牲にする必要はないんですよ」
彼は黙っていた。
何かを考えているようだった。
私はあえて明るく言った。
「というわけで、もう一回やりましょう」
「嫌だ」
「なぜですか」
「……」
「もしかして、負けたのが悔しかったとか?」
「うるさい」
その声には、さっきまでなかった感情があった。
悔しさ。
ほんの少しだけ、子どもみたいな悔しさ。
私は思わずにやけそうになった。
「じゃあ、勝てるまでやればいいんですよ。何度でも付き合いますから」
それから、私たちは何度もチェスをした。
彼は負けた。
それはもう、きれいに負けた。
最初は三手先どころか、一手先で自滅した。
次は女王を無駄に突撃させて失った。
その次は馬の動きに翻弄されていた。
「駒を飛び越えるな。卑怯者」
「馬はそこが面白いんです」
「面白くない」
「慣れると楽しいですよ」
「楽しくない」
「でも、もう一局しますよね?」
「……する」
私は笑った。
彼はむっとした顔で盤を睨む。
その顔には、もう最初の空っぽな色はなかった。
怒っている。
悔しがっている。
考えている。
生きている。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
***
翌日、私は驚いた。
部屋に入ると、彼がチェスの練習をしていた。
「昨日、楽しくないって言ってませんでした?」
「楽しくはない」
「では、なぜ?」
彼はチェス盤から目を上げずに言った。
「負けたままなのが不愉快だ」
私は口元を押さえた。
危ない。
笑いそうになった。
「笑うな」
「笑ってません」
「今、笑いかけた」
「気のせいです」
「そんなふうに笑っていられるのも今のうちだ。その自信に満ちた顔を崩してやる」
「あ……」
私は一瞬、言葉を失った。
『弱いな。こんなの暇つぶしにもならない。だが……自信に満ちた顔が崩れる瞬間は、なかなか愉快だったぞ』
その言葉が、魔王と初めてチェスをしたときの言葉によく似ていて。
「……どうした?」
「い、いえ、なんでもありません」
この時間が、未来につながっている。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がざわりとした。
けれど私は、その不安を振り払うように駒を並べ直した。
まだ大丈夫。
まだ、彼は魔王ではない。
まだ、間に合う。
この人を救えれば、未来は変わる。
そう信じて、私は白い駒を手に取った。
「では、もう一局」
彼はうなずいた。
金色の瞳に、かすかな光が宿っていた。
初めて見たときのような、死を待つだけの瞳ではない。
勝ちたいと願う瞳。
明日をほんの少しだけ見ている瞳。
私はその光を見て、胸の奥でそっと決意した。
この人を、ひとりにしない。
たとえ未来で魔王になる運命だとしても。
私が、その運命を変えてみせる。




