7 なぜか魔王が現れました
その日は、何か嫌な予感がした。
最初は、ほんの小さな違和感だった。
天幕の外が、妙に静かだったのだ。
いつもはうるさいはずの天幕が、今日だけは静かだった。
だが、その静かさは破られる。
――ゴォン!
遠くで雷が落ちたような音が響いた。
地面が揺れ、吊るされていた灯りが大きく振れる。
卓の水差しが倒れ、水が絨毯に広がった。
「……な、なに?」
私は反射的に立ち上がろうとした。
だが、その腕を掴まれる。
驚いて振り向くと、勇者がいた。
青い瞳は鋭く、けれどどこか熱に浮かされたようにも見える。
「来て」
「あの、一体……」
「魔王が来たんだ」
「え?」
魔王、その言葉に私の心臓が跳ねた。
「ようやく君を救えるよ」
勇者は私の手を強く引いた。
「大丈夫。あの化け物は、今日ここで終わる」
化け物。彼をそう呼ぶ勇者に、なぜか胸がざわざわとした。
***
天幕の外へ出ると、陣営は混乱していた。倒れた天幕。燃える魔道具。走り回る兵士たち。その中央に、彼がいた。
魔王。
黒い外套を翻し、夜のような髪を揺らして、彼が立っている。
金色の瞳が、こちらを見た。
そして、その視線は、鎖の繋がった私の手首へ落ちる。
「その手を離せ」
とても、とても冷たい声だった。
勇者は私を背に庇う。
「断る。彼女は僕が守る」
次の瞬間、魔王の姿が掻き消える。
「ッ……!」
勇者が私を押しのけた直後、魔王の爪が勇者の頬をかすめた。
剣と爪がぶつかる。耳をふさぎたくなるような甲高い音が響いた。
「はぁ……っ!」
勇者が剣を振るう。
魔王はそれを片手で受け流し、反対の手で勇者の肩を狙う。
勇者はかろうじてかわした。
けれど、避けきれなかった爪が服を裂き、赤い線を残す。
「勇者様!」
仲間たちの悲鳴が上がる。
魔王は追撃しようとして――けれど、止まった。
ほんの一瞬。
その爪は、勇者の喉元へ届く位置にあった。
殺そうと思えば、殺せたはずだった。
なのに、魔王は爪を逸らした。
勇者の剣だけを弾き飛ばし、身体を地面へ叩きつける。
私はそこで、違和感に気づいた。
誰も死んでいない。
魔王は兵士を吹き飛ばし、武器を壊し、魔術師を気絶させている。
殺そうと思えば、一瞬で殺せるはずなのに。
『あなたが人を殺すところなんて、見たくない』
まさか。
(まさか、それを守って――?)
「惑わされないで」
勇者が低く言った。
「あれは君の同情を引くための演技だ」
「でも、あの人は――」
その瞬間、魔王が勇者の剣を弾いた。
勇者の身体が地面に叩きつけられる。
「勇者様!」
仲間たちの悲鳴が上がる。
魔王はゆっくりと歩み寄った。
「二度とこいつに近づくな」
金色の瞳が、勇者を見下ろす。
勇者が地面に伏せたまま、笑った。
「……今だ。魔力砲、用意!」
背後で、嫌な音が響いた。
振り返ると、天幕の奥に巨大な魔道具が据えられていた。
砲身のような形をした、黒い魔力砲。
魔術師たちが両手をかざし、白い魔力を砲口に集めている。
魔王はちらりと魔力砲を見る。
「そんなものは無駄だ」
冷たく切り捨てる。
「私には当たらない」
そうだ。
当たるはずがない。
彼は空を飛べるのだ。
正面から魔力砲なんて当たるわけがない。
なのに、勇者は笑っていた。
「そうだね。君には当たらない」
砲口が動いた。
その矛先、魔王ではなかった。
「へ……?」
照準、私。
(あ、今度こそ本当に死ぬ)
死因:魔力砲。
光が放たれる。
けれど、痛みは来なかった。
代わりに、何かが私を抱きしめた。
頬に触れる、夜のような髪。
「……っ……」
低い呻き声が耳元で響く。
震えながら目を開けると、そこには――
「魔王様……?」
魔王は私を抱えたまま、膝をついた。
「……無事か」
「わ、私は平気ですっ……でも、あなたが……!」
「騒ぐな。私は簡単には死なない」
そう言って、魔王は私の頭を撫でた。
いつか、取り乱した私の頭を撫でたときのように。
「やっぱりね」
勇者は勝ち誇った顔でこちらへ歩いてくる。
「君を殺そうとすれば、魔王は庇うと思った」
その手には、小さな石が握られていた。
透明な石の内側で、光が揺れている。
魔王を弱体化させるための石。
「怖い思いをさせてごめんね。この石の発動条件は、対象に近づく必要があって。でも、全部君のためだから」
勇者の声は穏やかだった。
「今度こそ殺す。二度と、君の前に現れないようにね」
勇者が魔王へ近づく。
石の光が強くなる。
「やめてっ!」
私は魔王の腕を抜け出し、勇者へ飛びかかった。
「うわっ!?」
勇者の目が見開かれる。
私は全力で彼を突き飛ばした。
その瞬間、石が割れた。
世界が白く弾ける。
「――!」
誰かが私の名を呼んだ。
魔王の声だった。
伸ばされた手。
それを最後に、私の意識はなくなった。
***
「……ここ、どこ」
広い寝台。重厚な長椅子。低い卓。壁一面の本棚。
(魔王の部屋だ。戻ってきたんだ……!)
――そのとき、物音がした。
私は息を呑んで振り向く。
部屋に、人影があった。
「魔王様……?」
そこにいたのは、魔王だった。
「魔王様!」
彼は倒れていた。
慌てて背中を見と、傷がなかった。血も流れていない。服もこぎれいだ。
「よかっ……」
そのとき、彼が目を開けた。
だけど、思いもよらない返事だった。
「お前は誰だ」
「……え?」
なんで。
「じょ、冗談きついですよ。私のこと忘れちゃったんですか?」
「お前など知らない。一体なんのつもりだ」
見間違えるはずがない。
夜のような黒髪も、こちらを射抜く金色の瞳も、息を呑むほど整った顔立ちも、私の知る魔王そのものだった。
でも、少しだけ違う。
魔王のような底知れない圧がない。
冷たさはあるのに、奥に剥き出しの警戒が見えた。
「どこから来た。何のつもりだ」
「ま、待ってください。私は――」
言いかけて、息を呑んだ。
黒髪も、金色の瞳も、顔立ちも同じ。
だけど、彼には魔族の証である『角』がなかった。




