7 なぜか魔王が現れました
その日は、何か嫌な予感がした。
最初は、ほんの小さな違和感だった。
天幕の外が、妙に静かだったのだ。
いつもなら、兵士たちの足音や、武具の触れ合う音が聞こえてくる。
誰かが短く号令を飛ばし、焚き火のはぜる音に混じって、低い話し声が絶えず響いている。
けれど、その日は違った。
息を潜めているような静けさが、陣全体を覆っていた。
胸の奥が、ざわざわする。
何かが近づいている。
そんな気がした。
次の瞬間。
――ゴォン!
遠くで雷が落ちたような音が響いた。
地面が揺れ、吊るされていた灯りが大きく振れる。
卓の水差しが倒れ、水が絨毯に広がった。
「……なに?」
私は反射的に立ち上がろうとした。
だが、その腕を掴まれる。
驚いて振り向くと、勇者がいた。
青い瞳は鋭く、けれどどこか熱に浮かされたようにも見える。
まるで、この揺れが何なのか最初から知っていたみたいに。
「来て」
勇者は短く言った。
「魔王が来たんだ」
心臓が跳ねた。
「ようやく君を救えるよ」
勇者は私の手を強く引いた。
「大丈夫。あの化け物は、今日ここで終わる」
化け物。
その言葉に、なぜか胸が痛んだ。
天幕の外へ出ると、陣営は混乱していた。倒れた天幕。燃える魔道具。走り回る兵士たち。その中央に、彼がいた。
黒い外套を翻し、夜のような髪を揺らして、魔王が立っている。
金色の瞳が、こちらを見た。
その視線が、鎖の繋がった私の手首へ落ちる。
空気が凍った。
「その手を離せ」
低い声だった。
怒鳴ったわけではない。
それなのに、陣営全体が震えたような気がした。
勇者は私を背に庇う。
「断る。彼女は僕が守る」
魔王の表情が消えた。
次の瞬間、魔王の姿が掻き消える。
「っ!」
勇者が私を押しのけた直後、魔王の爪が勇者の頬をかすめた。
剣と爪がぶつかる。
甲高い音が響き、火花のように魔力が弾けた。
衝撃で地面が割れ、風が巻き起こる。
私は吹き飛ばされそうになりながら、必死に足を踏ん張った。
兵士たちは近づくことすらできない。
勇者と魔王の周囲だけが、別の世界みたいだった。
強い。
やはり、魔王は圧倒的だった。
勇者が剣を振るう。
魔王はそれを片手で受け流し、反対の手で勇者の肩を狙う。
勇者はかろうじてかわした。
けれど、避けきれなかった爪が服を裂き、赤い線を残す。
「勇者様!」
仲間たちの悲鳴が上がる。
魔王は追撃しようとして――けれど、止まった。
ほんの一瞬。
その爪は、勇者の喉元へ届く位置にあった。
殺そうと思えば、殺せたはずだった。
なのに、魔王は爪を逸らした。
勇者の剣だけを弾き飛ばし、身体を地面へ叩きつける。
私はそこで、違和感に気づいた。
誰も死んでいない。
魔王は兵士を吹き飛ばし、武器を壊し、魔術師を気絶させている。
殺そうと思えば、一瞬で殺せるはずなのに。
『あなたが人を殺すところなんて、見たくない』
まさか。
(まさか、それを守って――?)
「……嘘でしょ」
「惑わされないで」
勇者が低く言った。
「あれは君の同情を引くための演技だ」
「でも、あの人は――」
その瞬間、魔王が勇者の剣を弾いた。
勇者の身体が地面に叩きつけられる。
「勇者様!」
仲間たちの悲鳴が上がる。
魔王はゆっくりと歩み寄った。
「二度とこいつに近づくな」
金色の瞳が、勇者を見下ろす。
勇者が地面に伏せたまま、笑った。
「……今だ。魔力砲、用意!」
背後で、低い唸りが響いた。
振り返ると、天幕の奥に巨大な魔道具が据えられていた。
砲身のような形をした、黒い魔力砲。
魔術師たちが両手をかざし、白い魔力を砲口に集めている。
「魔王様!」
私は叫んだ。
魔王はちらりと魔力砲を見る。
「そんなものは無駄だ」
冷たく切り捨てる。
「私には当たらない」
そうだ。
当たるはずがない。
彼は空を飛べるのだ。
正面から魔力砲なんて当たるわけがない。
なのに、勇者は笑っていた。
「そうだね」
嫌な予感がした。
「君には当たらない」
砲口が動いた。
魔王ではなく、私へ。
白い光が膨れ上がる。
足が動かない。
声も出ない。
(あ、死ぬ)
そう思った。
光が放たれる。
けれど、痛みは来なかった。
代わりに、強い腕が私を抱きしめる。
黒い外套。
冷たい匂い。
頬に触れる、夜のような髪。
「……っ」
低い呻き声が耳元で響いた。
私は震えながら目を開ける。
魔王が、私を庇っていた。
背中から黒い血が流れている。
「魔王様……?」
魔王は私を抱えたまま、膝をついた。
「……無事か」
「私は平気。あなたが……!」
「騒ぐな」
「……!」
「私は簡単には死なない」
そう言って、魔王は私の頭を撫でた。
いつか、取り乱した私の頭を撫でたときのように。
「やっぱりね」
勇者は勝ち誇った顔でこちらへ歩いてくる。
「君を殺そうとすれば、魔王は庇うと思った」
その手には、小さな石が握られていた。
透明な石の内側で、星屑のような光が揺れている。
魔王を弱体化させるための石。
「怖い思いをさせてごめんね。この石の発動条件は、対象に近づく必要があって。でも、全部君のためだから」
勇者の声は穏やかだった。
穏やかすぎて、狂っていた。
「今度こそ殺す。二度と、君の前に現れないようにね」
血の気が引いた。
勇者が魔王へ近づく。
石の光が強くなる。
「やめてっ!」
私は魔王の腕を抜け出し、勇者へ飛びかかった。
「うわっ!?」
勇者の目が見開かれる。
私は全力で彼を突き飛ばした。
その瞬間、石が割れた。
世界が白く弾ける。
誰かが私の名を呼んだ。
魔王の声だった。
初めて聞くほど、必死な声だった。
伸ばされた手。
金色の瞳。
黒い血。
それを最後に、すべてが闇に沈んだ。
***
私はゆっくりと目を開けた。
「……ここ、どこ」
天幕ではない。
広い寝台。
重厚な長椅子。
低い卓。
壁一面の本棚。
魔王の部屋だ。
戻ってきたんだ。
そのとき、物音がした。
私は息を呑んで振り向く。
部屋に、人影があった。
「魔王様……?」
私は思わず声を漏らした。
そこにいたのは、魔王だった。
「魔王様!」
彼は倒れていた。
慌てて背中を見る。
傷がない。血も流れていない。服も破れていない。
よかった。
生きてる。
「よかっ……」
そのとき、彼が目を開けた。
だけど、思いもよらない返事だった。
「お前は誰だ」
「……え? じょ、冗談きついですよ。私のこと忘れちゃったんですか?」
「お前など知らない。一体なんのつもりだ」
見間違えるはずがない。
夜のような黒髪も、こちらを射抜く金色の瞳も、息を呑むほど整った顔立ちも、私の知る魔王そのものだった。
でも、少しだけ違う。
魔王のような底知れない圧がない。
冷たさはあるのに、奥に剥き出しの警戒が見えた。
「どこから来た。何のつもりだ」
「ま、待ってください。私は――」
言いかけて、息を呑んだ。
黒髪も、金色の瞳も、顔立ちも同じ。
だけど、彼には魔族の証である『角』がなかった。




