6 なぜか勇者が怖いです
ある日、勇者が私の部屋を訪ねてきた。
「ようやく手筈が整った」
「手筈?」
「ああ。これで魔王を殺せる」
勇者は懐から、小さな石を取り出した。
夜の灯りを受けて、石の内側に淡い光が揺れる。
ただの宝石ではない。
見ているだけで、空気がかすかに歪むような気がした。
「これは?」
「特別な力を持った石だ。これを使えば、魔王の力を弱めることができる」
「魔王を……弱く?」
「そうだ。今の魔王は強すぎる。でも、この石があれば魔王を弱体化させられる。そうすれば、僕が殺せる」
殺せる。
その言葉が、天幕の中に重く落ちた。
私は息を呑む。
魔王を倒す。
それは勇者にとって、当然の目的なのだろう。
人間たちにとっても、きっと正しいことなのだろう。
魔族は恐れられている。
人を襲い、殺し、町を焼く存在だと聞いている。
魔王はその頂点に立つ者だ。
だから勇者が魔王を殺そうとするのは、物語としては正しい。
正しい、はずなのに。
「あの……」
声が震えた。
勇者が私を見る。
「どうしても、殺さないとダメなんでしょうか」
一瞬、空気が止まった。
勇者の表情から、ゆっくりと笑みが消える。
「……どういう意味?」
「魔族が今までたくさんの人を殺してきたのは知っています」
私は膝の上で手を握りしめた。
怖い。
勇者にこんなことを言うのは、きっとおかしい。
助けてもらった相手に、魔王を庇うようなことを言うなんて、恩知らずだと思われても仕方ない。
でも、黙っていられなかった。
「魔王が怖い存在だっていうのも、わかっています。でも……魔王も、魔族も元は人間だったって言ってました」
勇者の青い瞳が、わずかに細くなる。
「元は……人間?」
「はい」
私は頷いた。
「ある日突然、変わってしまうそうなんです。そして、化け物と呼ばれるようになる」
あの夜、魔王はそう言った。
山の夜景を見下ろしながら。
千年という、とんでもない時間を生きてきた声で。
人間でも、魔族でもないような、遠い目をして。
「魔族は私たちを殺そうとします。でも、私たちが魔族を迫害しなければ、こんなふうにはならなかったはずなんです。だから、今からでも――」
「君はまだ、魔王を庇うんだね」
勇者の声から温度が消えた。
「君は優しいから」
まただ。
勇者はそう言った。
私の言葉を、私のものではなくしてしまうみたいに。
「君は優しいから、魔王にまで同情する。自分を傷つけた相手なのに、まだ救いがあるんじゃないかと思ってしまう」
「……」
「でも、それは間違いだ」
勇者は私に近づき、膝をついた。
視線の高さを合わせるように。
けれど、その瞳は私を見ているようで、どこか別のものを見ていた。
「魔王は化け物だよ。元人間なんて関係ない。あいつは存在してはいけない」
その言葉に、息が詰まった。
人間の立場から見たら、その言葉は正しい。
けど。
(本当に、このままでいいの……?)
***
その夜、私は逃げることにした。
馬鹿なことだとはわかっている。
見張りもいる。
外には兵士もいる。
私は武器も持っていない。
土地勘もない。
そもそも、魔王城がどちらにあるのかも怪しい。
でも、このまま待っていることはできなかった。
たしかに、魔王は怖い。
冷酷で、残酷で、人を殺すことにためらいがない。
私を連れ去った張本人でもある。
だけど、本当に、それだけだっただろうか。
おもちゃを与えられた。
チェスをした。
古びた絵本に触れて怒られた。
山の夜景を見せてもらった。
魔王なのに、人間の街へ連れていってくれた。
そして、あの夜。
眠ったふりをする私を、優しくなでていた。
また一人にするのか、と怒った魔王。
その声の奥にあったものが、本当にただの支配欲だったのか。
私には、まだわからない。
でも。
(もう一度だけ、話したい。会って、理由を聞きたい)
私は天幕の布をそっとめくる。
見張りは少し離れた場所にいた。
焚き火の明かりが揺れている。
息を殺し、外へ出る。
一歩。
二歩。
草を踏む音さえ大きく聞こえた。
(お願い、気づかないで……!)
私は祈りながら、闇の中へ進んだ。
(よし、ここまでくれば)
陣の端まで来たところで、背後から声がした。
「どこへ行くの?」
血の気が引いた。
勇者が立っていた。
月明かりを受けて、銀髪が白く輝いている。
その姿は美しい。
恐ろしいほどに。
「だめじゃないか」
勇者の声は優しい。
優しいのに、足がすくむ。
「これじゃ君を守れない」
その瞬間、ぞくりとした。
背中を冷たいものが這い上がる。
勇者の手が伸びてくる。
私は反射的に逃げようとした。
けれど、腕を掴まれる。
「痛っ」
「あ、ごめん」
勇者はすぐに力を緩めた。
けれど、手は離さない。
「痛かった? ごめんね。でも、君が悪いんだよ」
青い瞳が、私を見下ろす。
「魔王のところへ行こうとするから」
「う、裏切るつもりはありません。ただ、もう一度、話をしたかっただけなんです」
「まだそんなことを言うんだね」
勇者の顔が歪んだ。
「かわいそうに」
彼はそう呟いた。
「魔王に心まで縛られているんだ」
違う。
そう言いたかった。
でも、声が出なかった。
勇者の腕が私の背に回る。
抱きしめられた。
優しく。
けれど逃げられない強さで。
「大丈夫。僕が助けてあげる」
耳元で囁かれた声を最後に、私は意識を失った。
***
次に目を覚ましたとき、私は天幕の中にいた。
最初に感じたのは、手首の重さだった。
「……え?」
体を起こそうとして、金属の音が鳴った。
――しゃらり。
冷たい感触。
私は自分の手首を見る。
そこには、銀色の枷がついていた。
細い鎖が寝台の柱へ繋がれている。
一瞬、何が起きているのかわからなかった。
頭が真っ白になる。
「起きたんだね」
勇者が言った。
椅子に座り、私を見ていた。
まるでずっと、眠る私を見守っていたように。
彼は柔らかく微笑む。
「ごめんね。本当はこんなことをしたくはなかったんだけど」
私は鎖を掴んだ。
「なに、これ……」
「君を守るためのものだよ」
「守る?」
勇者は当然のように頷いた。
「君はまだ混乱している。魔王のところへ戻ろうとするくらいに、心が傷ついている。だから、しばらくは僕のそばにいた方がいい」
「わ、私は正気です!」
自分でも驚くほど、はっきり言葉が出た。
勇者の表情が少しだけ曇る。
「違う。君は魔王に歪められているだけだ」
そう言って、私の枷に触れる。
指先が金属をなぞった。
「痛くないように作らせた。肌を傷つけないよう、内側に布も巻いてある。重さもできるだけ軽くした」
そんな問題ではない。
そう言いたいのに、喉がつかえる。
「食事も水も、薬も用意する。欲しいものがあれば何でも言って。僕が全部叶える」
勇者は優しく笑う。
「だから、ここにいて」
私は枷を見つめた。
冷たい銀色。
罪人のように繋がれた自分の手首。
ふいに、魔王の部屋を思い出した。
あの場所も、確かに檻だった。
でも、私の手首に枷はなかった。
足を鎖で繋がれもしなかった。
扉に鍵がかかっていないことさえあった。
それが、どれほど歪な線引きだったとしても。
私は今、その意味を思い知っている。
勇者は私を見つめている。
まっすぐに。
優しく。
けれど、その瞳の奥には、私の言葉が届く余地がない。
「大丈夫」
勇者は微笑んだ。
「魔王を殺せば、君も目が覚めるよ」
鎖が、私の手首で小さく鳴った。
その音は、魔王城の重い扉が閉まる音よりも、ずっと冷たく聞こえた。




