5 なぜか勇者に助けられました
――ゴォン!
最初に聞こえたのは、遠くで雷が落ちたような音だった。
どん、と腹の底に響く轟音。
それから一拍遅れて、魔王城全体が大きく揺れた。
「……っ!? また襲撃!?」
私は寝台の上で跳ね起きた。
壁に掛けられていた燭台が揺れ、卓の上に置かれていた杯が倒れる。
中身の水が床へこぼれ、黒い石床の上を細く広がっていった。
――ドォン!
また轟音が響いた。
今度は近い。
壁の向こうで何かが崩れる音がした。
次の瞬間、扉の隙間から灰色の煙が流れ込んでくる。
「けほっ……!」
喉が焼けるように痛んだ。
私は慌てて寝台から降り、扉へ向かう。
だが、扉は動かなかった。
がちゃ、がちゃ、と乾いた音だけが響く。
「開けて!」
私は扉を叩いた。
「誰か! 誰かいませんか!」
返事はない。
聞こえるのは、遠くの爆発音と、何かが燃える音だけ。
扉の隙間から煙が流れ込んでくる。
白い煙が床を這い、足元を覆っていく。
「けほっ、げほっ……!」
袖で口元を押さえる。
目が痛い。
喉が焼ける。
息を吸うたびに、胸の奥がじりじりと焦げるようだった。
「魔王様……!」
気づけば、私はその名を呼んでいた。
呼んでしまってから、自分でも驚いた。
私は逃げたいはずだった。
ずっと、ここから出たいと思っていた。
なのに、真っ先に呼んだのは魔王だった。
馬鹿だ。
拉致監禁してきた相手を呼ぶなんて、正気ではない。
しかも今、私を閉じ込めているのはその魔王なのに。
それでも。
あの夜、眠ったふりをする私のそばに立っていた黒い影を思い出す。
私に触れず、ただそこにいた魔王。
私を見捨てるような人ではない。
そう思ってしまう自分がいる。
煙がさらに濃くなる。
視界が霞んだ。
扉にもたれかかるようにして立っていたが、膝から力が抜けていく。
まずい。
このままでは、本当に倒れる。
そう思った瞬間だった。
「君!」
白い煙の向こうから、ひとりの青年が駆け込んできた。
銀色の髪が揺れていた。
煙の中でも淡く光って見える、月の糸のような銀髪。
青い瞳が、私を見つけて大きく見開かれる。
「しっかりして!」
銀髪が、ぼやける視界の中で揺れている。
ああ、勇者だ。
物語に出てくるような、正しい人。
「もう大丈夫。君は僕が守るよ」
その言葉を最後に、私の意識はぷつりと途切れた。
***
目を覚ますと、知らない天井があった。
布の天井だ。
白い布がゆるく張られ、風を受けてわずかに揺れている。
ここはどこだろう。
魔王城ではない。
石の冷たさも、あの重苦しい空気もない。
かわりに、乾いた草の匂いと、焚き火の匂いがした。
「……っ」
体を起こそうとすると、胸が痛んだ。
喉もひりひりする。
「起きたんだね」
すぐそばから声がして、私はびくりと肩を震わせた。
振り向くと、勇者が椅子から立ち上がるところだった。
銀髪は少し乱れていて、鎧は外している。
白いシャツの袖をまくり、腕には包帯が巻かれていた。
彼はほっとしたように笑う。
「よかった。ずっと目を覚まさなかったから、心配してたんだ」
「ここは……?」
「僕たちの陣だ。魔王城から少し離れた場所に天幕を張っている。君は煙を吸って倒れていたんだ」
そうか。
私は助かったのか。
魔王城から、出られたのか。
普通なら喜ぶべきところだ。
やった、自由だ、万歳。
そう叫んでもいい場面かもしれない。
なのに、胸の中は妙に静かだった。
むしろ、ぽっかり穴が空いたような感覚がある。
「あの人は……?」
口から出た言葉に、勇者の表情がわずかに固まった。
ほんの一瞬だった。
「……魔王のことを気にしているのか?」
「あ、いえ、その……」
勇者は私を安心させるように微笑んだ。
「君は優しいんだね」
勇者が、そっと私の手を取った。
「魔王にまで同情してしまうなんて」
「同情……?」
「そうだよ。君は優しいから、あんな化け物にも心を痛めてしまうんだ」
勇者の声は穏やかだった。
「大丈夫。わかっている」
勇者は私の手を両手で包んだ。
「君は魔王に囚われていた。恐怖で支配されていたんだ。だから、自分の感情がわからなくなっているだけだよ」
(そうなの……かな)
私は何も言えなかった。
「君のおかげで、僕は救われた」
勇者が言った。
「君が庇ってくれなかったら、僕は魔王に殺されていた」
青い瞳がまっすぐ私を見つめている。
「びっくりしたよ。まさか、僕を守ろうとしてくれる人がいるなんて。勇者として、僕は誰かを守ることを求められてきた。だから、誰かに守ってもらうのは初めてだったんだ。そして同時に、悔しくてたまらなかった。君が魔王に連れていかれるのを、見ているだけの自分が」
勇者は私の手を強く握った。
「だから今度は、僕が君を守るよ」
その言葉は、きっと優しいものだった。
救いの言葉だった。
――でも、なぜだろう。
胸の奥で、小さな棘が刺さったような気がした。
***
それから数日が経った。
私は勇者たちの陣で保護されることになった。
天幕の中には寝台があり、水も食事も運ばれてくる。
薬師が喉の薬をくれ、兵士たちは私を見ると気遣うように頭を下げた。
「具合はどう?」
勇者は毎日のように私の天幕へやって来た。
戦いの準備で忙しいはずなのに、朝も昼も夜も、少しでも時間ができると顔を出す。
「喉は痛くない? 息苦しさは?」
「もう大丈夫です」
私が答えると、勇者は安心したように微笑む。
だが、私の首元の傷に視線がうつると、勇者の顔が歪んだ。
「……この傷は?」
私はぎくりとする。
首には爪が食い込んだ傷が残っていた。
魔王に首を絞められたときのものだ。
あの日、勇者たちを庇った私を、魔王が部屋へ連れ戻したとき。
怒りに震える手で、私を捕まえた。
「これ、魔王にやられたのか」
答える前に、勇者の顔から笑みが消えた。
青い瞳が冷たく光る。
「ごめんね。僕を庇ったせいで」
勇者は私の首に触れる。
ひどく丁寧に。
壊れものを扱うように。
それなのに、指先にこもった力が強い。
「平気です。もう痛くないので、気にしないでください」
「……許せない」
勇者は私の首に触れたまま言った。
「あいつは君を傷つけた。君を閉じ込めて、怯えさせて、自分のものみたいに扱った」
その言葉は、正しい。
間違っていない。
なのに、なぜか胸がざわついた。
「大丈夫、僕が必ず終わらせる」
「終わらせる……?」
「魔王を倒す」
勇者は顔を上げた。
その瞳には、強い決意が宿っている。
あまりにも強すぎて、見ているこちらが息苦しくなるほどの光。
「君を苦しめたものは、僕が消してあげる」
その言葉が、妙に耳に残った。




