4 なぜか魔王に首を絞められています
その日は、いつもより城の空気がざわついていた。
石造りの廊下の向こうから、甲高い悲鳴と、衝撃音が何度も響いてくる。
窓の外を見れば、普段は静まり返っている魔王城の中庭にまで黒い影が走りまわっていた。
魔族たちが慌ただしく移動しているのが見える。
「……なんか、非常事態?」
何かが起きている。おそらく、よくないことが。
私は思わず扉を見た。
この部屋に連れてこられてから、外に出たいと思ったことは何度もあった。
でも、ここは魔王の城。出られるわけがない。
そう思って、何度か扉に触れかけては、結局やめていた。
今だってそうだ。開くはずがない。
そう自分に言い聞かせながらも、私は扉へ近づいた。
「……どうせ、開かないよね」
自分に言い聞かせるように呟いて、扉に手をかける。
すると、あっさりと扉が開いた。
「……え?」
拍子抜けするほど、簡単に。
「うそ……」
心臓がどくんと大きく鳴る。
あの魔王が閉め忘れた?いやいやいや、そんなまさか。
「……もしかして」
喉がひくりと鳴る。
「最初から、鍵なんてかかってなかった……?」
今さら気づいて、ぞっとした。
私はずっと閉じ込められていると思っていた。
逃げられないのだと思っていた。
だから、この部屋から出るという発想そのものを、どこかで諦めていた。
でももし、最初から鍵なんてなかったのだとしたら。
(なんで……?)
胸の奥が、ひやりと冷える。
それでも。今は考えている場合じゃない。
私はぎゅっと唇を噛むと、意を決して廊下へ足を踏み出した。
***
廊下へ出ると、空気がぴんと張りつめていた。
足がすくみそうになるのをこらえながら、私は音のするほうへ走った。
やがて、広い謁見の間の前までたどり着いた私は、息を呑みながら中をのぞいた。
「ひ……!」
そして、凍りついた。
玉座へ続く赤い絨毯の上に、何人もの人影が倒れていた。
剣を支えに片膝をつく青年。
法衣姿の少女。
大盾を構えたまま倒れている大柄な男。
彼らの服はぼろぼろで、誰もが満身創痍だった。
その向こう。
玉座の前に、彼が立っていた。
返り血を浴びてもなお、不気味なくらい美しい姿。
魔王。
「……これで終わりか、勇者」
低い声が、静かに響く。
その声に応じるように、床に伏していた銀髪の青年が顔を上げた。
青い目が、真っ直ぐ魔王を睨みつける。
ひどく傷ついているのに、その目だけはまだ死んでいない。
「まだ……だ……」
勇者は血を吐きながら、砕けた剣の柄を握りしめた。
「お前を……倒すまで……」
「無駄だ」
魔王は冷ややかに言い捨てると、魔法を唱え始めた。
黒いモヤのようなものが指先に集まり、見るだけでぞっとするような力が渦を巻く。
殺す気だ。
気づいたとき、私はもう走り出していた。
「やめて!!」
謁見の間にいた全員の視線が、一斉にこちらへ向く。
私は勇者たちの前に飛び込み、両手を広げて立ちはだかった。
「殺さないで!」
魔王の目が大きく見開かれる。
「……何をしている」
その声は、恐ろしいほど静かだった。
「どけ」
「嫌です!」
声が震えた。
けれど、私は首を振った。
怖かった。
だけど。
「あなたが誰かを殺すのを見たくないんです!」
その瞬間。
勇者が、地面に手をついたままこちらを見上げた。
「君は……」
私が勇者と目が合ったとき、魔王の気配が一変した。
「……そいつを見るな」
低く、押し殺した声。
ぞわりと全身が粟立つ。
次の瞬間、黒い影が私の目の前まで迫っていた。
何が起きたかわからないまま、身体がぐいと引き寄せられる。
気づけば私は魔王の腕の中に閉じ込められ、勇者たちから引き離されていた。
「ぎゃっ……!」
「私を拒むな」
耳元で囁かれた声に、息が止まる。
冷たさの中にどこか優しさを感じていたその声が、今は冷たさと怒りしか感じられなかった。
彼は私を抱え上げると、歩き始めた。
「え、ちょ、待って! 下ろして!」
暴れても、びくともしない。
「ま、待て! 魔王! その子を離せ!」
私は彼の肩越しに勇者たちを見た。
その青い瞳と一瞬だけ視線が合う。
なぜか、胸がざわついた。
***
部屋に戻されたとき、扉は背後で乱暴に閉まった。
私はようやく床に下ろされたけれど、次の瞬間には壁に押しつけられていた。
「っ……」
目の前には魔王の顔。
逃げ場はない。
「ひ……!」
彼の片手が私の首に触れる。
ひやりとした指先が、ゆっくりと肌をなぞった。
それだけなのに、身体が強張る。
「最初から」
彼は低く言った。
「恐怖で支配すればよかった」
ぞくりと背筋が冷える。
「お前が逃げないように。私以外を見ないように。私のそばだけにいられるように」
指に力がこもる。
「う……ぅ……うぁ」
喉が圧迫され、息が浅くなる。
「そうすれば、ここまで心をかき乱されることもなかった」
怒っていた。でもそれだけじゃない。
傷ついた子どもみたいな、どうしようもない悲しみも混じっていた。
「お前は」
金色の瞳が揺れていた。
「また、私を一人にするのか」
苦しい。だけど。
彼の手は本気を出せば簡単に私を壊せるはずなのに、どこかでためらっているのがわかってしまったから。
それが余計に苦しかった。
「……っう……まお…ぅ」
息が詰まり、視界が滲む。
彼の爪が私の首に食い込み、血が流れる。
「……!」
その瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。
はっとしたように、首から手が離れる。
「…~…っ!ゲほっ!ゴホっ!」
私はその場に崩れ落ち、咳き込む。
魔王は自分の手を見るように、ゆっくりと指を開いている。まるで私の首をしめた感触を確認するかのように。そして、長い沈黙のあと、彼は扉のほうへ向かった。
「待って!」
彼は振り返らなかった。
重い扉が閉まる。
そして、鍵がかかる音がした。
***
それから、監禁が始まった。
前と何が違うのかといえば、全部だった。
部屋から出られなくなったのは元からだったが、前は彼が持ち込んでいた奇妙なおもちゃも、チェス盤も、たまに見せる不器用な優しさもあった。
けれど今は、食事だけが影によって運ばれてくるだけになった。
彼は来ない。
食事はきちんと温かく、着替えも足りている。
必要なものは揃っている。
それが余計に気味が悪かった。
大事にされているのか、遠ざけられているのか、それすらわからない。
私は窓辺に座って、何度目かもわからないため息をついた。
「……拒んでるのはそっちの方じゃない」
頭の中にはずっとあのときの顔がこびりついていた。
『また、私を一人にするのか』
あの声が離れない。
あれだけのことをされて、死ぬほど怖かったはずなのに。
胸の奥に残っているのは、恐怖だけじゃなかった。
***
何日経ったのかわからない夜。
私は寝台に横になり、薄い毛布を胸元まで引き上げて目を閉じていた。
その日はなぜか、眠れなくて、私は何度も寝返りをうった。
物音ひとつしない静かな部屋で、私はただじっと呼吸を整える。
だが一向に眠くならず、ひつじを数え始めようとした、そのとき。
――カチャリ。
鍵が開く音がした。
扉が、ほんのわずかに軋む。
……来た。
空気が変わる。そこに誰がいるのか、嫌でもわかってしまう。
私は目を閉じたまま、寝息が乱れないよう意識した。
足音がゆっくり近づいてくる。
そしてそれは、寝台のそばで止まった。
私はただ、眠っているふりをするしかなかった。
やがて、寝台がわずかに沈む。
冷たい指先がそっと私の首に触れ、体が反応しそうになるのを私は必死でこらえた。
けれど、喉元に触れる指先があの日と同じ場所をなぞった瞬間、全身が粟立つ。
首を絞められたときのことが、嫌でも蘇る。
指先が少しだけ力を帯びる。
息が止まりそうになる。
このまま、絞められるのかと思った。
けれど。
その力は、それ以上強くならなかった。
むしろ、触れていた指先は私の傷を癒やすように、優しく触れていた。
そして、今度は髪にそっと触れられた。
するり、と撫でる。
首に置かれた手とは別人みたいに、その手つきは優しかった。
何度も、何度も、髪を梳くように撫でる。
まるで壊れものを扱うみたいに。
どうして、こんなことをするんだろう。
怖がらせたいのか、傷つけたいのか、それとも大事にしたいのか。
何もわからない。
ただひとつわかるのは、この人が壊れているということだけだった。
「――」
ふいに、低い声が落ちた。
それは――私の名前だった。
聞き間違いじゃなければ。
いや、聞き間違いなんかじゃない。はっきりと、確かに私の名前だった。
私の心には疑問が浮かんだ。
どうして、この人が私の名前を知っているんだろう。
私は話したことがあっただろうか。
名乗ったことがあっただろうか。
思い返そうとしても、頭がうまく働かない。
やがて、足音が遠ざかる。扉が静かに開き、閉じた。
ようやく気配が消えてから、私はゆっくりと目を開けた。
「……何、あれ」
かすれた声が漏れる。
首に触れた冷たい指の感触も、髪を撫でた優しい手つきも、まだ消えない。
どうして私の名前を知っているんだろう。
どうして私をここに捕らえるのか。
どうして、あんな苦しそうな声で私を呼ぶのか。
次に会ったとき、聞こう。
ちゃんと、話そう。
なのに。
――その次は、訪れなかった。




