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4 なぜか魔王に首を絞められています

 その日は、いつもより城の空気がざわついていた。


 石造りの廊下の向こうから、甲高い悲鳴と、何かが砕ける重たい音が何度も響いてくる。

 窓の外を見れば、普段は静まり返っている魔王城の中庭にまで黒い影が走っていた。

 魔族たちが慌ただしく移動しているのが見える。


「……なんか、非常事態?」


 何かが起きている。

 それも、たぶん、よくないことが。


 私は思わず扉を見る。


 この部屋に連れてこられてから、外に出たいと思ったことは何度もあった。

 けれど、魔王の城なのだ。

 どうせ出られないに決まっている。

 そう思って、何度か扉に触れかけては、結局やめていた。


 今だってそうだ。


 開くはずがない。


 そう思いながら、私は半ば無意識に扉へ近づいた。

 外の騒ぎがあまりにも異様で、じっとしていられなかったのだ。


「……どうせ、開かないよね」


 自分に言い聞かせるように呟いて、扉に手をかける。


 すると、あっさりと扉が開いた。


「……え?」


 拍子抜けするほど、簡単に。


 私は呆然と立ち尽くした。


 開いた扉の隙間から、冷たい廊下の空気が流れ込んでくる。

 夢じゃない。

 見間違いでもない。

 本当に、開いた。


「うそ……」


 心臓がどくんと大きく鳴る。


 鍵が、かかっていなかった。


 私はそろそろと扉を見下ろした。

 壊れているわけでもない。

 閉め忘れた、という感じでもない。

 ただ普通に、最初から開けられる状態だったみたいに見える。


 その事実に、背筋がぞわりとした。


「……もしかして」


 喉がひくりと鳴る。


「最初から、鍵なんてかかってなかった……?」


 今さら気づいて、ぞっとした。


 私はずっと閉じ込められていると思っていた。

 逃げられないのだと思っていた。

 だから、この部屋から出るという発想そのものを、どこかで諦めていた。


 でももし、最初から鍵なんてなかったのだとしたら。


 (なんで……?)


 胸の奥が、ひやりと冷える。


 それでも。


 今は考えている場合じゃなかった。


 悲鳴がまたひとつ、遠くで響く。


 私はぎゅっと唇を噛むと、意を決して廊下へ足を踏み出した。


 廊下へ出ると、空気がぴんと張りつめていた。

 遠くから金属のぶつかる音が響く。

 魔力のような、肌を刺す圧力も感じる。

 足がすくみそうになるのをこらえながら、私は音のするほうへ走った。


 やがて、広い謁見の間の前までたどり着いた。

 重厚な扉は半ば砕け、開け放たれている。

 そこから吹き込んでくる空気は、血と焼けた石の匂いを含んでいた。


 私は息を呑みながら、中をのぞいた。


 そして、凍りついた。


 玉座へ続く赤い絨毯の上に、何人もの人影が倒れていた。


 剣を支えに片膝をつく青年。

 法衣姿の少女。

 大盾を構えたまま崩れ落ちている大柄な男。

 彼らの服はぼろぼろで、誰もが満身創痍だった。


 その向こう。


 玉座の前に、彼が立っていた。


 黒い髪。

 金色の瞳。

 返り血を浴びてもなお、不気味なくらい美しい姿。


 魔王。


 彼の足元には砕けた剣が転がり、空気そのものが彼を中心に歪んで見えた。

 まるでこの場のすべてが、彼の怒りに怯えているみたいだった。


「……これで終わりか、勇者」


 低い声が、静かに響く。


 その声に応じるように、床に伏していた銀髪の青年が顔を上げた。

 青い目が、真っ直ぐ魔王を睨みつける。


 勇者だ、と直感した。


 ひどく傷ついているのに、その目だけはまだ死んでいない。


「まだ……だ……」


 勇者は血を吐きながら、砕けた剣の柄を握りしめた。


「お前を……倒すまで……」


「無駄だ」


 魔王は冷ややかに言い捨てた。


 その右手がゆっくり持ち上がる。

 黒い靄のようなものが指先に集まり、見るだけでぞっとするような力が渦を巻く。


 殺す気だ。


 わかった瞬間、頭が真っ白になった。


 気づけば私は走り出していた。


「やめて!!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。


 謁見の間にいた全員の視線が、一斉にこちらへ向く。


 私は勇者たちの前に飛び込み、両手を広げて立ちはだかった。

 膝が震えている。

 心臓が今にも喉から飛び出しそうだった。

 それでも、どかないと決めた。


「殺さないで!」


 一瞬、静寂が落ちた。


 魔王の目が大きく見開かれる。


「……何をしている」


 その声は、恐ろしいほど静かだった。


「どけ」


「嫌です!」


 声が震えた。

 けれど、私は首を振った。


 怖かった。

 だけど。


「あなたが誰かを殺すのを見たくないんです!」


 私は必死に叫んだ。


 その瞬間。


 勇者が、地面に手をついたままこちらを見上げた。

 血に濡れた顔で、それでも私を見ていた。


「君は……」


 私が勇者と目が合ったとき、魔王の気配が一変した。


 びり、と空気が裂ける。


「……そいつを見るな」


 低く、押し殺した声。


 ぞわりと全身が粟立つ。


 次の瞬間、黒い影が私の目の前まで迫っていた。

 何が起きたかわからないまま、身体がぐいと引き寄せられる。

 気づけば私は魔王の腕の中に閉じ込められ、勇者たちから引き離されていた。


「ぎゃっ……!」


「私を拒むな」


 耳元で囁かれた声に、息が止まる。


 金色の瞳が、間近で私を射抜いた。

 冷たさの中にどこか優しさを感じていたその瞳が、今は閉ざされた闇のように暗かった。


 彼は私を抱え上げた。


「え、ちょ、待って! 下ろして!」


 暴れても、びくともしない。


「ま、待て! 魔王! その子を離せ!」


 私は彼の肩越しに勇者たちを見た。

 勇者はなおもこちらへ手を伸ばしかけていたが、仲間がそれを止めていた。

 もう追う力も残っていないのだろう。


 その青い瞳と一瞬だけ視線が合う。


 なぜか、胸がざわついた。


***


 部屋に戻されたとき、扉は背後で乱暴に閉まった。


 どん、と重い音が響く。


 私はようやく床に下ろされたけれど、次の瞬間には壁に押しつけられていた。


「っ……」


 目の前には魔王の顔。


 逃げ場はない。


 彼の片手が私の首に触れる。

 ひやりとした指先が、ゆっくりと肌をなぞった。

 それだけなのに、身体が強張る。


「最初から」


 彼は低く言った。


「恐怖で支配すればよかった」


 ぞくりと背筋が冷える。


「お前が逃げないように。私以外を見ないように。私のそばだけにいられるように」


 指に力がこもる。


「う……ぅ……うぁ」


 喉が圧迫され、息が浅くなる。


「そうすれば、ここまで心をかき乱されることもなかった」


 怒りだった。

 けれど、それだけじゃない。

 傷ついた子どもみたいな、どうしようもない色も混じっていた。


「お前は」


 金色の瞳が揺れていた。


「また、私を一人にするのか」


 私は答えられなかった。


 苦しい。

 怖い。

 なのに、ただ怖いだけではなかった。

 彼の手は本気を出せば簡単に私を壊せるはずなのに、どこかでためらっているのがわかってしまったから。


 それが余計に苦しかった。


「……っ」


 息が詰まり、視界が滲む。


 彼の爪が私の首に食い込み、血が流れた。


 その瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。


 はっとしたように、首から手が離れる。


 私はその場に崩れ落ち、咳き込んだ。

 喉がひりひりする。

 涙まで勝手に滲んできて、惨めだった。


 魔王は少し離れたところで立ち尽くしていた。

 自分の手を見るように、ゆっくりと指を開いている。


 長い沈黙のあと、彼は扉のほうへ向かった。


「待って!」


 かすれた声で呼ぶ。


 彼は振り返らなかった。


 重い扉が閉まる。

 そして、鍵がかかる音がした。


 私はしばらくその場から動けなかった。


***


 それから、監禁が始まった。


 前と何が違うのかといえば、全部だった。


 部屋から出られなくなったのは同じなのに、空気が違う。

 前は彼が持ち込んでいた奇妙なおもちゃも、チェス盤も、たまに見せる不器用な優しさもあった。

 けれど今は、食事だけが影によって運ばれてくるだけになった。


 彼は来ない。


 一度も、姿を見せない。


 朝も、昼も、夜も。


 食事はきちんと温かく、着替えも足りている。

 必要なものは揃っている。

 だから余計に気味が悪かった。

 大事にされているのか、遠ざけられているのか、それすらわからない。


 私は窓辺に座って、何度目かもわからないため息をついた。


「……逃げてるのはそっちの方じゃない」


 ぽつりと呟く。


 自分でも、少し意地悪な言い方だと思う。


 でも本当にそうだった。


 私をここに閉じ込めておいて、自分は来ない。

 傷つけそうになったからなのか、怒っているからなのか、それとも、私に拒まれたのがそんなに堪えたのか。


 考えても答えは出ない。


 それでも、頭の中にはずっとあのときの顔がこびりついていた。


『また、私を一人にするのか』


 あの声が離れない。


 怖かった。

 怖かったはずなのに。


 胸の奥に残っているのは、恐怖だけじゃなかった。


***


 何日経ったのかわからない夜。


 私は寝台に横になり、薄い毛布を胸元まで引き上げて目を閉じていた。


 その日はなぜか、眠れなかった。


 物音ひとつしない静かな部屋で、私はただじっと呼吸を整える。

 眠れるように。

 だが一向に眠くならず、まぶたの裏で暗闇を見つめていた、そのとき。


 鍵が開く音がした。


 扉が、ほんのわずかに軋む。


 ……来た。


 足音はほとんどしない。

 それでもわかる。


 空気が変わる。

 あのひんやりした気配が部屋に満ちるだけで、そこに誰がいるのか、嫌でもわかってしまう。


 私は目を閉じたまま、寝息が乱れないよう意識した。


 足音がゆっくり近づいてくる。


 寝台のそばで止まる。


 それから、長い沈黙が落ちた。


 見られている。


 そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 怖い。


 怖いのに、逃げられない。

 逃げるどころか、目を開けることすらできない。

 私はただ、眠っているふりをしたまま、その気配に耐えるしかなかった。


 やがて、寝台がわずかに沈んだ。


 彼が腰を下ろしたのだとわかる。


 すぐそばにいる。


 息が詰まりそうになる。


 冷たい指先が、そっと私の首に触れた。


 びくり、と身体が反応しかける。


 私は必死でこらえた。

 起きていると悟られたくなかった。

 けれど、喉元に触れる指先があの日と同じ場所をなぞった瞬間、全身が粟立つ。


 首を絞められたときのことが、嫌でも蘇る。


 指先が少しだけ力を帯びる。


 息が止まりそうになる。


 このまま、絞められるのかと思った。


 けれど。


 その力は、それ以上強くならなかった。


 むしろ、触れていた指先は私の傷を癒やすように、優しく触れていた。


 そして、今度は髪にそっと触れられた。


 するり、と撫でる。


 首に置かれた手とは別人みたいに、その手つきは優しかった。


 何度も、何度も、髪を梳くように撫でる。


 まるで壊れものを扱うみたいに。


 私は目を閉じたまま、息を潜めた。


 どうして。

 どうして、こんなことをするんだろう。


 怖がらせたいのか、傷つけたいのか、それとも大事にしたいのか。

 何もわからない。

 ただひとつわかるのは、この人が壊れているということだけだった。


 ふいに、低い声が落ちた。


 とても小さな、独り言みたいな声だった。


 私の名前だった。


 はっきりと、優しく呼ばれた。


 胸がどくんと大きく鳴る。


 どうして。

 どうして、この人が私の名前を知っているんだろう。


 私は話したことがあっただろうか。

 名乗ったことがあっただろうか。

 思い返そうとしても、頭がうまく働かない。


 驚きで呼吸が乱れそうになるのを、私は必死で抑えた。


 彼はなおも、私の髪を撫でていた。


 まるで愛おしむように。


 何かを確かめるように。


 そして、髪から手を離す。


 寝台がきしむ。

 立ち上がったのだろう。


 足音が遠ざかる。


 扉が静かに開き、閉じる。


 ようやく気配が消えてから、私はゆっくりと目を開けた。


 暗い天井が視界に映る。


 全身から一気に力が抜けて、私は毛布をぎゅっと握りしめた。


「……何、あれ」


 かすれた声が漏れる。


 首に触れた冷たい指の感触も、髪を撫でた優しい手つきも、まだ消えない。


 どうして私の名前を知っているんだろう。


 なぜ私をここに捕らえるのか。


 どうして、あんな苦しそうな声で私を呼ぶのか。


 次に会ったとき、聞こう。

 ちゃんと、話そう。


 そう思った。

 そう、思ったのに。


 その次は、訪れなかった。

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