3 なぜか魔王とおでかけしました
血まみれの魔王事件の後、魔王は忙しそうだった。
部屋にいる時間が、前よりずっと減った。
食事は必ず持ってきてくれるので、なんとか死ぬことはない。
けれど、話し相手がいない時間は、想像以上に長かった。
(暇で死にそう……)
そう思いながら、私は部屋の中を見回した。
魔王の部屋は広い。
寝台、長椅子、低い卓、本棚、よくわからない魔道具の置かれた机。
最近は少しだけ探索できるようになったけれど、逃げ道はない。
窓は高く、はめ殺しになっていて逃げられそうにない。
魔道具の類いは、触った瞬間に爆発しそうで怖い。
となると、残る娯楽は本棚だった。
私はそろそろと立ち上がる。
本棚の前に立つと、背表紙に難しい文字が並んでいた。
古代魔具の分類。禁忌指定魔道具一覧。
「……うーん、難しそう」
小さく呟いたとき、棚の下の方に一冊だけ、絵本があることに気づいた。
私は少しだけ目を瞬いた。
魔王の部屋に絵本。
似合わない。
字面だけで面白い。
私はそっと手を伸ばした。
「それに触るな」
「ひぃ……!」
突然、低い声が落ちた。
背筋が凍った。
私は反射的に手を引っ込める。
振り向くと、魔王がこちらを見ていた。
金色の瞳が、今まで見たことがないくらい冷たかった。
「あ、あの……」
「触るな」
部屋の空気が一瞬で冷えたようだった。
私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「……わかりました。触りません」
私はそう言って、部屋の隅に戻り、膝を抱えた。
面白くない。
ものすごく面白くない。
魔王の方を見ないように、わざと顔を背ける。
(……じゃあ、かまってくださいよーだ)
***
「……いい加減、機嫌を直せ」
「別に」
「……」
魔王はため息をついた。
あれからしばらく、私は機嫌が悪いままだった。
我ながら子どもっぽいとは思う。
けれど、あれだけ放置されたら、少しくらい拗ねてもいいはずだ。
「……来い」
「え?」
次の瞬間、視界が揺れた。
「ひぃっ!」
足元がふわりと浮くような感覚。
気づけば、私は魔王に抱きかかえられていた。
そして、魔王の背には黒い鳥のような翼が現れ、私たちは宙に浮いていた。
「な、な……」
「口を閉じていろ。舌を噛むぞ」
「ぎゃ~~~~~!」
思わず目を閉じる。
風が耳元を通り抜けていく。
体が浮く感覚に、心臓が変な音を立てた。
落ちる。
絶対に落ちる。
そう思って魔王の服を掴むと、彼は一瞬だけこちらを見た。
「暴れるな」
「無理です!」
けれど、次に目を開けたとき、私は山の上にいた。
「……え?」
思わず声が漏れた。
目の前には、夜の街が広がっていた。
遠く、暗い大地の中に、灯りが瞬いている。
家々の窓明かり、街路の魔灯、城壁の上を巡る青白い光。
空には大きな月が浮かび、薄い雲がゆっくり流れていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
私はしばらく、言葉を忘れた。
「……きれい」
素直にそう思った。
さっきまでの怖さも、むくれていた気持ちも、少しだけ風にさらわれていくようだった。
魔王は私の隣に立っている。
黒髪が夜風に揺れていた。
「すごいですね! こんなきれいな場所があるんですね!」
私は思わず身を乗り出した。
「それにしても、人間ってすごいですよね。こんな大きな街を作っちゃうなんて!」
「こんなに大きくなったのはつい最近だ。千年前は、もっと暗かった」
「千年前?」
私は魔王を見る。
「千年前って言いました?」
「……ああ」
「千年、生きてるんですか?」
「そうだ」
今日の天気でも答えるみたいな調子で、千年生きていると言われた。
私は魔王をまじまじと見た。
長い黒髪。金色の瞳。白い肌。
恐ろしいほど整った顔。
どう見ても若い。
でも、千歳ということは……。
(……実は、おじいちゃんなのかな)
「何を考えた」
「な、何も」
まずい。
この人、なぜか私の失礼な心の声に敏感だ。
私は慌てて話題を変えた。
「それにしても、ずいぶん街に詳しいんですね。人間の街ですよね、あれ」
「そうだ」
「魔族なのに?」
魔王は夜景を見下ろしたまま言った。
「魔族は、もともと人間だ」
「……え?」
「人間として生まれ、ある日、魔物の特徴が現れる。魔族として覚醒するんだ」
私は魔王を見る。
その横顔は、いつもより少しだけ遠くを見ているように見えた。
「角が生える者もいる。牙が伸びる者もいる。瞳の色が変わる者もいる。魔力が暴走する者もいる」
「それで……魔族になるんですか」
「人間がそう呼ぶ」
「人間が?」
「ああ。化け物だと」
風が吹いた。
私は言葉を失う。
魔族は、最初から魔族として生まれるのだと思っていた。
人間とはまったく別の存在なのだと。
でも、そうではないのなら。
ある日突然、昨日まで人間だった人が、急に化け物と呼ばれるようになるのなら。
それは、どんな気持ちなのだろう。
「あなたも、昔は人間だったんですか」
聞いてから、しまったと思った。
踏み込みすぎたかもしれない。
けれど魔王は怒らなかった。
「昔のことだ」
答えは、それだけだった。
それだけで十分だった。
この人も、昔は人間だった。
そう思った瞬間、さっきの人間の文字で書かれた絵本が頭をよぎった。
あの絵本は、魔王が人間だった頃のものなのだろうか。
「……あの」
私は小さく声をかけた。
「さっきの絵本、触りません。触りませんけど……大事なものなんですか」
魔王はしばらく黙っていた。
やがて、街へ視線を戻す。
「……忘れた」
「忘れた?」
「なぜ大事なのかは、忘れた」
私は目を瞬いた。
忘れた。
でも、大事なことだけは覚えている。
それは少し、寂しい。
忘れてしまうほど長い時間が経っても、手放せなかったもの。
理由は消えても、気持ちの跡だけが残ったもの。
「……それでも、大事にしてるってことは……きっと、とっても大事なものだったんでしょうね」
私がそう言うと、魔王は何も言わなかった。
しばらく二人で夜景を見ていた。
拉致監禁されている相手と夜景を見る。
なんて状況だ。
でも、本当にきれいだった。
***
ひとしきり夜景を楽しんだ後、魔王はふいに私を見た。
「行くぞ」
「え? どこへですか?」
「街だ」
「街!?」
思わず声が裏返った。
街というのは、今まさに眼下に広がっている、あの人間の街のことだろうか。
魔王が。
人間の街へ。
しかも、私を連れて。
「だ、大丈夫なんですか? 魔王様ですよね?」
「問題ない」
魔王はそう言うと、どこからともなく黒い外套を取り出し、頭から深くかぶった。
フードの影に角が隠れ、金色の瞳も夜闇に沈む。
それだけで、不思議なくらい人目を引かない旅人のように見えた。
それから魔王は、私を抱えたまま崖を蹴った。
「ひゃあっ!?」
「騒ぐな」
一瞬、体がふわりと浮いた。
夜風が頬を打ち、街の灯りがぐんぐん近づいてくる。
けれど、落ちると思った次の瞬間には、私たちは街外れの細い路地に立っていた。
足が地面についている。
生きている。
よかった。
私は震える膝を押さえながら、あたりを見回した。
石畳の道。壁にかかった魔石灯。遠くから聞こえる人々の笑い声。
さっきまで山の上から眺めていた街の中に、本当に来てしまったのだ。
胸が少しだけ高鳴る。
その一方で、別の考えも頭をよぎった。
ここは、人もたくさんいる。
道だって、いくつもある。
(もしかして、今なら逃げられる?)
「逃げてもいい」
(やばっ! また心の声を読まれた!)
魔王は私の方を見ず、何でもないことのように続けた。
「逃げられるものならな」
「で、ですよねー」
私は乾いた笑みを浮かべた。
そもそも今の移動を見せられたあとで、逃げ切れる気がまったくしない。
全力で走ったところで、きっと三歩目くらいで襟首を掴まれる。
いや、もしかしたら一歩目かもしれない。
私は大人しく、魔王の少し後ろを歩くことにした。
彼は街の歩き方に慣れているようだった。
人の流れを避けるのも、細い路地から大通りへ出るのも、迷いがない。
露店の灯りが多い道を選び、兵士の巡回が来る前に何気なく角を曲がる。
その動きは、初めて訪れた者のものではなかった。
一方、私はこんな大きな街を歩くのは初めてで――。
「わっ!?」
人にぶつかってばかりだった。
「っ、いたたた! どこ見てるんだい!?」
どん、と衝撃がしたと思ったら、女性が尻もちをついていた。
金切り声が耳に響く。
「す、すみません!!」
「謝ってすむと思ってんのかい。ほら、金を出しな」
「はい?」
思わぬ請求に狼狽していると、横から彼が現れた。
「何をやっている。行くぞ」
「あっ、お金! お金払わなくていいんですか!」
***
「目を離せばすぐいなくなるな。犬の方がまだ賢いぞ」
「犬以下……!?」
私がむすっとしているのを無視して、魔王は私の手を掴んだ。
男の人と手を繋ぐのは初めてで、思わずどきっとする。
「あの、これって……」
「首輪代わりだ。一人でふらふら歩かせれば、またああいう連中に絡まれかねない」
「ああいう連中?」
「あれは当たり屋だ。田舎から出てきた鈍臭い娘にぶつかったふりをし、金をせびる奴らだ」
「へえ、そんなひどい人もいるんですね。田舎娘さん可哀想」
「……」
「えっ!? さっきの私!?」
「……お前は本当に警戒心が皆無だな。今日の今日までよく生きていられたものだ」
「よく言われます……能天気だとか、馬鹿だとか。それはもう散々」
「そうだな。拐かされた相手に生意気な口をきけるのはお前くらいだ」
「えっ、生意気ですみません! 以後気をつけます!」
「今さら畏まるな。気持ち悪い」
「気持ち悪い!?」
私は思わず抗議した。
魔王は何も言わない。
ただ私の手を引いたまま、さっさと歩いていく。
腹立つ。
すごく腹立つ。
でも、繋がれた手はなかなか放してくれなくて、そのせいで心臓が妙にうるさかった。
街は賑やかだった。
露店が並び、焼いた肉の匂いや甘い菓子の香りが漂っている。
色とりどりの布、煌めく魔石灯、笑い声、客引きの声。
何もかもが珍しくて、私はきょろきょろしてしまう。
すると魔王が、ひとつの露店の前で立ち止まった。
串に刺さった焼き菓子のようなものが並んでいる。
菓子には砂糖がまぶされていて、香ばしくて、少し甘い匂いがした。
魔王は店主に硬貨を渡し、一本買う。
そして、そのまま私に差し出した。
「……え?」
「食え」
私は瞬いた。
「これ、私に?」
魔王は答えない。
でも、差し出されたままだった。
私はおそるおそる受け取る。
ひと口かじると、外はさくっとしていて、中はふわっと甘かった。
「……ウマ~~~!! なにこれ! めっっっちゃおいしいんですけど!? まぶしてある砂糖がまた絶妙~~~!」
思わず顔がほころぶ。
口の中に広がる甘さに、さっきまでの緊張が一気にゆるんでいく。
魔王はそんな私を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「な、何ですか」
「いや、ずいぶんと簡単に餌付けされるものだと思ってな」
「なっ……!」
むっとしながら焼き菓子をもう一口かじる。
おいしい。
腹立つけど、おいしい。
その後も、魔王は私を連れて街を歩いた。
魔王城で見る姿より、ずっと人間らしかった。
まるで、ずっと昔からこの街にいる人みたいだった。
私はそんな彼を横目で見ながら、ふと思う。
この人は、自分の本当の姿を隠さないと、街を歩くことすらできなかったのか。
千年も。
人の暮らしを知っていて、それでも誰にも混ざれずに。
たった一人で。
私は繋がれた手を少しだけ見下ろした。
首輪代わり、なんてひどい言い方をしたけれど、その手は思ったよりずっと普通で、思ったより少しだけ温かかった。
やがて、また視界が揺れる。
気づけば私は魔王の部屋に戻っていた。
いつもの監禁部屋。
さっきまでの賑やかな街が夢みたいだった。
魔王は何事もなかったように椅子へ向かおうとする。
「あの、魔王様」
魔王が足を止める。
「今日は……ありがとうございました」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
拉致監禁されている相手に礼を言うのもどうかと思う。
でも、夜景もきれいだったし、街も楽しかった。
あの焼き菓子もおいしかった。
たぶん、少しだけ嬉しかったのだ。
部屋から連れ出してくれたことも。
私が拗ねていたことに、気づいてくれていたことも。
魔王は私を見た。
しばらく黙ってから、低く言った。
「次は、ぶつかるな」
「そこですか!?」
「間抜けを直せ」
「ひどい!」
私は思わず声を上げた。
やっぱり、この人ちょっと嫌なやつです。




