2 なぜか魔王になでられました
魔王とのチェス勝負に敗北してから、数日が経った。
私は今も、魔王の部屋に拉致監禁されている。相変わらず助けは来ない。
ただ、ひとつだけ変わったことがある。
私は、魔王とチェスをするようになった。
(……なんでこんなことに?)
いや、私にもわからない。
拉致監禁してきた相手とチェスをするなんて、冷静に考えると相当おかしい。
おかしいのだが、することがないのだ。
私は部屋の隅で、チェス盤を前に唸っていた。
敗北が悔しかったのだ。
しかも、ただ負けたわけではない。
『弱いな。こんなの暇つぶしにもならない。だが……自信に満ちた顔が崩れる瞬間は、なかなか愉快だったぞ』
そう言われた。
(……許せない)
私はチェスには自信がある。
父に鍛えられたこの頭脳をもってすれば、そう簡単に負けるはずがない。
……たぶん。
私がチェス盤の前で唸っていると、視線を感じた。
「……」
「な、何ですか」
魔王が本から視線を上げ、こちらを見ていた。
私は慌てて盤面を隠す。
(研究中の手がバレちゃう……!)
魔王は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
鼻で笑われた気がした。
腹立つ。
(……次こそコテンパンにしてやる!)
***
そんなことをしているうちに、夜になった。
魔王は本を閉じ、立ち上がる。
出かけるのだろう。
私は魔王には目もくれず、チェス盤を見ていた。
そして、気が抜けていたのだろう。
言ってはならないことを口走ってしまった。
「いってらっしゃい」
扉へ向かいかけた魔王が、足を止める。
(やば……!)
なぜ言った。私。
なぜ拉致監禁してきた相手に、外出の挨拶をした。
「あ、あの……! 違うんです! その、家族への癖で……!」
気まずい沈黙が落ちる。
魔王はしばらく私を見ていた。
「……行ってくる」
短い言葉を残し、魔王は出ていった。
部屋の中に、私ひとり。
私はしばらく扉を見つめた後、深く息を吐いた。
「……いってらっしゃい、って何よ」
おかしい。絶対におかしい。
これはきっと、監禁生活による精神的な混乱である。
そうに違いない。
私は自分に言い聞かせるように頷いた。
***
夜、眠れなかった私は、窓の方へ歩いていった。
分厚いカーテンを少しだけ持ち上げる。
窓の外には、魔王城の庭が広がっていた。
庭というより森に近い。
黒い木々、青白く光る花。そしてその向こうに夜空が見えた。
そんなことを考えながら、私はぽつりと呟いた。
「……帰れるのかな」
返事はない。
カーテンを戻そうとした、そのときだった。
庭の奥に、黒い影が現れた。
魔王だ。
いつもなら朝方まで帰ってこないのに、今日はやけに早い。
そう思った瞬間、私は息を止めた。
魔王の黒い服が、赤く濡れていた。
血だ。
魔王は、血まみれだった。
「……え」
頭が真っ白になった。
怪我をしている? あの魔王が?
魔王はゆっくりと庭を歩いている。
歩き方は変わらない。
倒れそうには見えない。
でも、あの血の量は普通じゃない。
そして、しばらくしても魔王は戻ってこなかった。
もしかして、どこかで倒れたのだろうか。
そんな考えが頭をよぎって、私はぞっとした。
(このまま魔王が帰ってこなかったら、私も餓死することに……!)
嫌な想像が駆け巡り、私はしばらく動けなかった。
やがて、扉の向こうから足音が聞こえた。
重い扉が、静かに開く。
そこに立っていた魔王は、いつも通りだった。
黒髪。金色の瞳。白い肌。乱れのない黒い服。
血は、どこにもついていない。
さっき見た姿が嘘みたいに、きれいだった。
「……」
魔王は何事もなかったように部屋へ入ってくる。
そのまま椅子へ向かおうとした。
「待ってください!」
思わず声を上げた。
魔王が足を止める。
私は魔王に駆け寄った。
近くで見ると、やはり血の匂いはしない。
怪我も見えない。
服もきれい。
でも、私は見たのだ。
血まみれで帰ってくる魔王を。
「怪我は!?」
「……見たのか」
怒っている、のだろうか。
でも、ここで引いたらいけない気がした。
「大丈夫なんですか?」
言ってから、私ははっとした。
何を言っているのだろう。
この人を、心配しているのだろうか。
魔王は私をじっと見ていた。
「怪我はない」
「でも、血が……」
「洗った」
「そういう問題じゃないです」
思わず言い返した。
魔王の眉がわずかに動く。
しまった。
魔王に向かって、そういう問題じゃないです、などと言ってしまった。
殺される。今度こそ殺される。
けれど魔王は何も言わなかった。
ただ、私の顔をしばらく見ていた。
それから、血の気の引いた私の頬に、そっと手を伸ばす。
私はびくっと肩を震わせた。
けれど、その手は私を傷つけなかった。
魔王の指先が、私の髪に触れる。
ゆっくりと、頭を撫でられた。
「……え」
私は固まった。
魔王は無言だった。
ただ、不器用に私の頭を撫でている。
慰めている、のだろうか。
落ち着かせようとしている、のだろうか。
さっきまで血まみれだった人に頭を撫でられるという状況は、普通に考えれば恐怖でしかない。
なのに、その手つきは驚くほど優しかった。
まるで、壊れものに触れるみたいだった。
「騒ぐな」
「……はい」
「私は簡単には死なない」
「……」
魔王は私の頭から手を離すと、何事もなかったように椅子へ向かった。
そして、いつものように本を開く。
(もしかして、私を慰めようとした……?)
そう思って、すぐに首を振る。
(絆されるな、私。向こうは拉致監禁犯だ)
私は部屋の隅に戻り、膝を抱えた。
***
魔王は、静かに立っていた。
足元には、動かなくなった者たちが転がっている。
命乞いの声も、悲鳴も、もうない。
ただ、血の匂いだけが残っていた。
魔王は自分の手を見る。
赤黒い血が指先を濡らしている。
自分の血ではない。
血に濡れた外套を脱ぎ捨てる。
手についた血を洗い流す。
服を替え、髪に残った血の匂いも消す。
少女の部屋へ戻る前に、すべて消さなければならなかった。
血も。
匂いも。
己が何をしてきたのかも。
「……また洗わねばならないな」
低く呟いた声は、誰にも届かなかった。




