13 なぜか魔王の過去を見ています
それから先は、あまりよく覚えていない。
ただ、暗闇の中に落ちていくような感覚だけがあった。
体が沈む。
意識が沈む。
音も、光も、温度さえも遠ざかっていく。
ぱらぱらと、古い絵本のページをめくるように。
壊れた硝子の欠片が、ひとつずつ光を映すように。
記憶が流れ込んでくる。
だけど、これは私の記憶じゃない。
彼の記憶だ。
「この人相の女を知らないか。名は――」
最初に見えたのは、人の多い街だった。
雑踏の中で、彼はひとり立っていた。
深くフードをかぶり、顔を隠している。
「黒い髪の女だ。背はこのくらいで、よく妙なことを言う。チェスは強い。だが、すぐに顔に出る」
胸が、ぎゅっと痛んだ。
それは、私のことだ。
彼は私を探していた。
道行く人に声をかける。市場の商人に尋ねる。宿屋の主人に尋ねる。
旅人に、兵士に、酒場の客に、何度も何度も同じことを聞く。
けれど、誰も私を知らない。
「さあ、知らないね」
「そんな女、この街にはいないよ」
何人もの人間が首を横に振る。
それでも彼は諦めなかった。
朝になっても、昼になっても、夜になっても、また次の街へ行く。
雨に濡れても、泥に足を取られても、食事を忘れても、眠ることさえ忘れても。
ただ、私を探していた。
「……どこにいる」
かすれた声が聞こえた。
「どこにいるんだ……お前は」
私は叫びたかった。
ここにいる。
私はここにいる。
でも、これは過去の記憶だ。
私は触れられない。
声も届かない。
ただ、見ていることしかできない。
そのとき、強い風が吹いた。
彼のフードが外れる。
黒い髪が揺れ、その間から、角があらわになった。
街のざわめきが、一瞬で変わる。
「きゃあああっ! 魔族よ!」
「魔族だ!」
「人間の街から出ていけ!」
悲鳴。怒号。石が飛んだ。
ひとつ目の石が、彼の肩に当たる。
ふたつ目が頬をかすめる。
「違う……私は」
「化け物め!」
「出ていけ!」
彼は唇を噛んだ。
血が滲むほど、強く。
それでも反撃はしなかった。
彼はただ、フードを拾い上げ、もう一度顔を隠した。
そして、人々の罵声を背中に受けながら、街を出ていく。
私はその背中を追いかけようとした。
けれど、足は動かない。
「どこにいるんだ……っ、お前は」
彼がそう呟いても、私は答えることはできなかった。
景色が、暗闇に溶けた。
次の記憶が流れ込んでくる。
***
「ようやく見つけたぞ、魔族め!」
剣の音が響いた。
場所は、城だった。
あの過去で見た城。
彼が閉じ込められていた、王子の部屋によく似た場所。
けれど、もう穏やかな面影はなかった。
扉は破られ、窓は割れ、床には血が散っている。
武装した兵士たちが彼を取り囲み、その先頭に、ひとりの青年が立っていた。
彼によく似た顔立ちの男だった。
「兄上、私は……」
「俺を兄と呼ぶな、化け物!」
その言葉に、彼の顔が凍りついた。
化け物。
街の人間に投げつけられた言葉とは、重さが違った。
家族に言われたのだ。血を分けた兄に。
子どもの頃から、きっと何度も名前を呼んできた相手に。
彼は一歩、後ずさる。
「お待ちください。私は争うつもりはありません」
「その姿で何を言う!」
剣が腕を裂く。
血が散った。
それでも彼は、反撃しない。
彼の金色の瞳が揺れていた。
どうして。
なぜ。
そんな声が聞こえた気がした。
だが、兄王子は止まらなかった。
彼の胸を狙い、剣を突き出す。
それは本気の一撃だった。
「――っ」
次の瞬間、黒い影が弾けた。
彼の体からあふれた闇が、まるで獣の爪のように伸びる。
兄王子の剣が砕けた。
兵士たちが悲鳴を上げる。
そして。
兄王子の体が、床に崩れ落ちた。
時間が止まったようだった。
彼自身も、何が起きたのかわからない顔をしていた。
「兄、上……?」
床に膝をつく。
倒れた兄王子に手を伸ばす。
けれど、その手は届かなかった。
「王子を殺したぞ!」
「魔族が王子を殺した!」
「やはり悪魔だ!」
叫び声が重なる。
彼は、血のついた手を見下ろした。
その指先が震えている。
「違う……違う、私は……」
その日、彼は国を追われた。
城門の外に追い立てられ、矢を射かけられ、石を投げられ、名前を奪われた。
王子ではなく。弟ではなく。人間ではなく。
ただ、魔族と呼ばれた。
それでも彼は、最後に一度だけ振り返った。
遠ざかる城を見て、かすれた声で呟いた。
「……私は、どうすればよかったんだ」
誰も答えなかった。
もちろん、私も答えられなかった。
***
次の記憶では、彼はひとりではなかった。
荒れ果てた谷の奥。
黒い岩山に囲まれた土地に、見慣れない者たちが集まっていた。
角のある者。
翼のある者。
爪の鋭い者。
肌の色が人間と違う者。
魔族だった。
魔族たちは彼を見ると、ひざまずく。
「魔王様」
魔族たちは人間に追われ、家族に捨てられ、行き場をなくした者たちだった。
その中で、彼だけが圧倒的に強かった。
だから皆、彼にすがった。
王になってください。
我らを守ってください。
人間に奪われたものを取り返してください。
そんな声が、彼の周りに積もっていく。
けれど彼の瞳は、いつもどこか遠くを見ていた。
「まだ見つからないのか」
低い声が響く。
ひざまずいた魔族が、びくりと肩を震わせた。
「ひっ……! 申し訳ありません!」
「街も村も探したのだろう」
「はい! ですが、そのような女はどこにも……」
「どこにも、ではない」
彼の声が冷たくなる。
「いる。必ず会いに来ると言った。私はこの目で見た。声を聞いた。手に触れた。あの夜景を、ともに見た」
胸の奥が痛んだ。
あの日のことだ。
私が過去で彼と見た、山の上からの景色。
彼にとって、それは今も消えていない。
「まだ足りない」
彼は呟く。
「もっと探させろ。もっと魔族を集める。もっと領土を広げる。そうすれば、きっと――」
***
次の場面で、私は思わず息を呑んだ。
彼の隣に、ひとりの女性がいた。
(……私に、よく似ている)
けれど、私ではない。
彼女は豪奢な屋敷の一室にいた。
窓には厚いカーテンが引かれ、扉には鍵がかかっている。
その部屋は、私が魔王城で過ごした部屋に、どこか似ていた。
チェス盤。焼き菓子を載せた皿。 古びた絵本。 棚に置かれた玩具。
彼がやっていたことは、あの頃と変わらない。
あの日々の再現だった。
だけど、顔は似ていても、中身は他人だ。
彼女が駒を動かす。
「魔王様、これでよろしいでしょうか」
彼の表情が歪んだ。
「違う」
「え……?」
「あいつは、そんなふうに私の顔色をうかがわない」
彼女の指が震える。
「も、申し訳ございません」
「謝るな」
低い声だった。
「謝るな! あいつは、すぐ謝る女ではなく、もっと無礼だった!」
彼は、乱暴にチェス盤を払いのけた。
駒が床に散らばる。
「申し訳ございません! 魔王様、お許しを……!」
彼女が床に伏せる。
彼は頭を抱えた。
怒っているようで、泣いているようだった。
「私はただ……」
その声は、ひどく小さかった。
「ただ、お前とあの時間をまた過ごしたいだけなのだ」
彼は誰に言っているのだろう。
目の前の彼女にではない。
たぶん、記憶の中の私に言っていた。
「なのに、なぜ叶わない。なぜ、私の前に現れない。なぜ、なぜ……!」
「魔王様……お許しを、お許しを……」
そこから先は、見ていられなかった。
彼は私に似た女性を探した。
見つけては連れてきた。
あの日々を再現しようとして、何度も失敗した。
そのたびに、壊れていった。
違う。
違う。
お前ではない。
どこにもいない。
彼の声が、記憶の中で何度も響く。
私は耳を塞ぎたかった。
けれど、塞げなかった。
***
それから、長い長い時間が流れた。
彼は人間との戦争を繰り返した。
魔族のために。
迫害された者たちのために。
人間に奪われた土地を取り戻すために。
そう呼べば、きっと大義になるのだろう。
けれど、私にはわかってしまった。
彼はずっと、探していた。
戦争に勝つたび、魔族たちは歓声を上げる。
「魔王様!」
「我らの王!」
「魔族に栄光を!」
その声の中心で、彼は玉座に座っていた。
黒髪は長く伸び、金色の瞳は冷たく光っている。
誰もが恐れる魔王の姿だった。
けれど。
「なぜ、どこにもいない」
誰にも聞こえない声で、彼は呟いた。
「ここまで来ても、まだ……」
血に濡れた手を見下ろす。
国を滅ぼしても。
街を焼いても。
人間を屈服させても。
魔族に王と呼ばれても。
私だけが見つからない。
「……どこにいる」
彼の頬を、涙が伝った。
あの魔王が。
私を拉致して、閉じ込めて、笑って、怒って、恐ろしく冷たい瞳で人を見下ろしたあの魔王が。
ひとりで泣いていた。
私は、彼の涙を止めることができなかった。
ただ見ていた。
長い長い時間、彼が壊れていくのを。
そして、記憶は少しずつ、私が知っている時代へ近づいていく。
***
「例の女を見つけました、魔王様」
暗い玉座の間に、魔族の声が響いた。
彼は玉座に座っていた。
頬杖をつき、退屈そうに目を伏せている。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、金色の瞳が開いた。
「そうか」
声は静かだった。
「よくやった」
報告した魔族は、ほっとしたように頭を下げる。
「それで、いかがいたしましょうか」
彼はしばらく答えなかった。
沈黙が落ちる。
「決まっているだろう」
彼は立ち上がる。
その口元に、笑みが浮かんでいた。
けれど、それは少しも嬉しそうではなかった。
「二度と私の前に現れないよう、殺すのだ」
心臓が止まりそうになった。
「私の人生を狂わせたあの女を、この手で殺してやる」
違う。
そう叫びたかった。
私はあなたを狂わせたかったわけじゃない。
置いていきたかったわけじゃない。
でも、声は届かない。
彼は玉座の間を出ていく。
黒い外套が揺れる。
長い黒髪が、闇に溶ける。
金色の瞳だけが、憎しみのように、悲しみのように光っていた。
そして、時間は進む。
あの夜へ。
私が初めて、彼と出会った夜へ。




