第21話 虎狼狸の夜 中段
蒸し暑い夏の夜のこと。
しんしんと月の降る中、心水教の赤い門扉を叩くのは背中に十ばかりの幼な子を背負った着流し姿の男。河津であります。
両側に延びる木塀に沿って、死んでいるのか生きているのか、痩せ衰えた人々が倒れ込んでいます。幾人かは顔をあげ、深夜に喚いて喚いてする河津を無気力に眺めておりました。
中からの返事とてありませんが、執拗に門扉を叩き、開けよ開けよと五月蝿く喚く声に、腹を立てたような応えがありました。
むろん、中へ入れと言うような歓迎の言葉であるわけもなく。鳥目の語った通り、虎狼狸を門内に入れるわけにはいかぬ。仕方ないのだ、わかってくれと。
それを聞いた河津の喚きが止まりました。
門扉を叩く手も止まり、代わりに、喚きに隠されていた周囲の呻き声や背に負うた沙希の苦しい息遣いが耳に当たります。
静かになったことで、諦めたと認めたか、門内の気配も薄まり、塀際で顔をあげて見ていた連中も元の死人へと戻りました。しかし、夜天を突く叫び声が、
手前ら!
と、門内はもちろん、門外の死人どもの目を一斉に醒まさせるような腹の底からの声です。月を叩き割るのではないか、そう思えるほどの怒りと悲しみを秘めたものでした。
叫んだ河津の身の内では、ぐるぐるぐるぐると名状し難い塊が出口を求めて這いずり回っているのです。
仕方ない。
それは、これまでも散々聞いてきた言葉、繰り返し吐いてきた言葉です。怒りは自分自身に向けたもの、悲しみもまた自分自身への怒り。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、ふらつく頭で必死に考えます。この時、河津もまた、虎狼狸にかかっていたのですから。
仕方ない仕方ない仕方ない。
沙希が死んでも仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない。思い通りにゃならねぇ、ままならねぇ。それが世の中。そいつを受け入れてやってかなきゃなんねぇんだ。だから、沙希が死んでも仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない?
違う!
死なせねぇ。あっしが! 死なせねぇ。かけらでも望みがあるなら、沙希を救うためなら、あっしは人を辞める。
ほかの誰を巻き込もうが知ったことか。奪われた、奪われてきた、奪われ続けてきた。少しくらい奪ったっていいじゃねぇか。たまには奪わせてくれよ!
押さえた口元から吐瀉物が漏れました。その手が痙攣し始めておりますが、手が揺れているのか目が霞んでいるのか、それすらもわからなかったと言います。
河津も激しい嘔吐と水下痢に襲われていたのです。手の震えが足に響き、開かぬ扉にもたれかかるように、ずるずると倒れ込みました。
自らの汚物にまみれながら、唯一、体に感じるのは背中の沙希の重みです。その感触が、薄れる意識を繋ぎとめました。
冷たい地面に額をつけて、土下座でもするように体を丸めている河津の手が緩慢に動き、懐から何かを取り出しました。
白い狐面です。
この面をつける時、河津の心中には華やかな狐舞と大門、新吉原を囲う御歯黒溝の濁った泥水が浮かび上がるのでした。
いまは外から中へ向かうのを赤い木塀が阻んでいる。それをそうとして睨み付けると、狐面の河津がすっくと立ち上がりました。
背中で沙希の荒い息遣いが聞こえます。
嘔吐し、水下痢を垂れ流す沙希を背中に縛り付けた狐は、たんっ、地面を蹴って高い木塀を一飛びに乗り越え門内に入りました。
足が着くやいなや、その侵入を告げる呼子が鳴り響き、敷地内に控えていた門番あるいは夜警の連中が殺到して来るのです。
万病に効くという心水教の霊水を求めて押し入る賊も多かったらしく、詰めていた連中も手馴れたもの。河津を捕らえて押さえつけると門外へ叩き出しました。
とはならず。虎狼狸に憑かれ、動けぬはずの河津でしたが、ひとり、ふたり、さんにん、よにん、次々と襲い来る連中を投げ飛ばし、払い飛ばし、蹴り飛ばし、さらに敷地の奥へと走り込んで行ったとか。
求める物は、その霊水です。
どこだ、どこだ、どこだ。霊水はどこだと手当たり次第に、脅して殴って締めて掴んで回るのです。立ちはだかる者は、老若男女、委細構わず叩きのめして投げ飛ばして疾風の如く。あるいは、消える炎の最後の足掻きか。
竹林の奥にある草庵手前で、道を遮った蛙を放り投げ、熊の巨体を絞め落とした。
だが、締め落とす間際に拳を喰らい、ふらついたところを鳥目と赤黒に突かれ、ようやく足が止まったのです。沙希を庇おうと身をよじった河津の額に鳥目の羽矢が突き刺さり、その面を割りました。さらに両足を赤黒に噛み砕かれて動けなくなった。そこでようやく。
前のめりに倒れ込んだ河津の口から、嘔吐とともに小さなつぶやきが聞こえます。
「頼む、霊水をくれ。助けてやってくれ。頼む、頼む、頼む。一杯だけでいい。沙希に、背中の子に飲ませてやってくれ」
その懇願への答えは、河津の頭を踏み付ける足でした。呻きながら起き上がった蛙が、ぐりぐりと尊大に足を乗せていたのです。
「助けてくれだと? 手前が何をしたかわかってんのか。門内に虎狼狸を持ち込みやがって。
ゲロを吐いてクソを垂れて、散々暴れまわってよう。中で虎狼狸が出たらどうしてくれるんだ。背中の餓鬼もぴくぴく痙攣してやがるし、どのみち助からねぇよ。文字通りのくそったれが。ひと思いに殺してやる」
河津の頭を蹴り飛ばすと、身振りで赤黒を呼びました。それぞれが大口を開けて河津と沙希の喉元に噛み付こうとします。それを、いつの間にか正気づいていた熊が遮り、
「だめだ、たべては、だめだ」
と辿々しく告げ、赤黒の首根を押さえつけました。これには蛙も驚くばかり。この時まで熊が言葉を発せられるとは知らなかったのです。
その様子を見ていた鳥目が口を開きました。当時も変わらず袿を頭から被り、その表情とてわかりませんが。
「赤黒、やめな。熊もだ」
冷たい響きのある声で命じます。自由になった赤黒が不満そうに唸りながら戻ってくるのを待つのでした。
「まずは虎狼狸を拡がらせぬことが先決だ。火で清めてきな。此奴らのことは白里様に決めてもらう」
「でもよ……」
「でも、なんだ? え、蛙? 文句でもあるのか。おまえの言う通り、こいつも娘もどのみち助からないさ」
袿の向こうの視線が這い蹲る河津と背中の沙希に注がれます。二人ともにぴくぴくと痙攣を繰り返しているのでした。
「男の方も虎狼狸だ。霊水を飲もうが飲むまいが助かるまい。尤も、此奴自身が虎狼狸の化物のようだがな」
蛙と熊とを騒ぎの後始末に向かわせようとしたところ、草庵からひたひたと歩いてくる小さな影がありました。白里様です。
「鳥目、どうした。なんの騒ぎじゃ」
「これは白里様、騒がせました。ただの賊に御座いますれば。霊水を求めて押し入って参りましたが、取り押さえましたゆえ」
「ふむ、虎狼狸か」
「すでに手遅れかと」
「だが、霊水を求めて此処まで辿り着いたのであろう? このわしの耳に騒ぎが届くほどに」
白里様が河津の傍らに膝をつき、手ずから沙希と河津の顔色を見、呼吸を見、頰に触れたのでした。その乾いた手のひらを感じたのか、河津の目が、うっすらと開きます。
「頼む、霊水をくれ。医者も漢方も、何もかも駄目だった。効かなかった。沙希を助けてやってくれ。命でも金でもなんでもやる。あっしをくれてやる。だから……」
「ひひ、言うたな。では、貰いうけよう。その代わり、おまえと背中の子供と、どちらも助けてやろう」
月を背に、右手を宙に舞わせます。すると、下ろした手のひらに透き通った水が溜まっておりました。指の間から零れ落ちることもなく、ゆらゆらと揺れて青く光っていたのです。




