第22話 虎狼狸の夜 後段
虎狼狸に罹り、生死の狭間に漂う河津の耳に、ひひひと笑う鬼女の声が響きました。此処はもう彼の世なのでしょうか。
もし、彼の世であるならば、天国ではない、地獄でなければならぬ。そう思うのに、なぜ、背中に負うた沙希までが此処にいるのか。
あっしが、引き摺り込んじまったのか。
ぼうっとなって、すまねぇ、沙希、とつぶやいた口中に、冷たく鮮烈な水が注がれたのです。むろん、此処は地獄ではなく、さりとて天国でもなし。限りなく地獄に近い常世であり、鬼女の声と聞こえしは、まだ健脚の頃の白里様の声でありました。
「ひひひ、わしの霊水を求めて、此処までよく辿り着いた。その褒美じゃ。どれ、背中の娘にも飲ませてやろうかい」
ぐっと宙へ突き出した手を開き、ひらひらと振ってみせます。乾いて皺の寄った手のひらには何も持っておりません。舞うように動き始めたその手を、鳥目が掴みました。
「いけません、白里様。昼間にも多くの霊水を頂いております。斯様に続けての招致、御身体に障りますれば」
「鳥目、手を離すが良い」
「ですが……」
「わしは離せと言うたぞ」
「……はい」
鳥目が手を離し、そばに控えると、白里様が右手を宙に舞わせます。下ろした手のひらには、先程と同じ、透き通った水が溜まっておりました。月の影を受けて、青く光を発しています。とろりと甘露のような。
鳥目らに命じて沙希を背中から下ろさせると、手のひらに乗ったそれを優しく口に含ませます。問いかけるように見守る河津に向かって、ひひひと笑い、
「これはな、わしの命の水よ。若さと活力を溶け込ませた水じゃ。おや、あまり信じておらぬような顔じゃないか。良くないねぇ。信じてこその霊験だぞえ。
嘘だと思うか? いや、本当さ。わしはのう、本来は和主とさほど変わらぬ若い身空さ。それがほれ、こんなしわくちゃよ。ひひ。
さあ、眠れ、眠れ、眠るが良い。目覚めた時には、あるいは目覚めぬ時には、すべてが終わっていようからに」
さて、こうして霊水を飲み、危うく命を救われた河津と沙希で御座います。それが本当に霊水によるものかどうか、それはわかりませぬ。しかし、どちらであったとしても、白里様が二人の恩人であることに変わりはない。
沙希と河津とが如何なる関係かは兎も角、河津の沙希への思いと白里様への強烈な忠心が垣間見れもしましょうか。
そろそろ河津の語りも終わりに近付いている様子。今一度、現在の草庵へと目を転じてみることと致します。
秋空の下、壊れた草庵の壁に手をかけながらドスを弄んでの昔語り。河津の喋りは決して快いものではなかったようです。自分も周りも、おとして、おとして、おとしめるような。
「こうして、あっしは生き延びやした。地獄行きまでの腐れた此の世に戻ってしまいやしたね。へえ、そりゃもう感謝、感謝ですな。
白里様にあっては、あっしと沙希との大恩人。くだらぬ憂き世の過酷な旅路へ、死ぬべき二人を引き戻してくれやした。時には、なんてことをしやがると、そう思わないでもありやせんがね。沙希の奴は育ちもせず、水揚げもできねぇ。失せろと言っても失せず、纏わり付いてきやがる。あっしに惚れてでもいるのか。へへっ、困ったもんでさ」
へへっ、と笑う顔は憎らしく、不快を感じずにはいられません。と、身動きひとつせずにいた熊が、じりじりと片手を持ち上げ、畳を叩くように落としました。どうやら、蛙を呼んでいるようで。
「どうした、熊?」
傍らに寝かされている蛙が、顔だけをそちらに向けました。声に出ぬままに口を開いて、ぱくぱくと熊が何事か告げます。その間に、では白里様の御様子を窺いやしょうかと脇を抜けようとした河津を、蛙が呼び止めました。
「河津、河津、ちょっと来い。話がある」
「なんだ蛙よ。そこで言えや」
「いいから来い。内密な話だ」
仰向けに寝たままの蛙に、気が進まぬように顔を近付けた河津ですが、その顔に、べっと唾を吐かれました。
「あたしは河津が嫌いだ。いつも面白くなさそうな顔をしやがってよう。不幸の生まれとでも思ってるんだろう。違うというなら、こんな蛙面に生まれてみりゃあ良かったんだ。
へへへ、河津そっくりの憎らしい顔に唾を吐くのは楽しくてならんぜ。河津は忘八のくそやろうだが、沙希のことだけは別だ。あいつが沙希をおとしめるようなことを言うはずがねぇ。……手前、原田だろ?」
答えは、だんっ、振り下ろしたドスの一撃でした。魚の首を落とすように、蛙の首を切り落としたのです。転がった蛙面は、にやりと笑ったままで楽しげでした。
一瞬の出来事で、状況を理解するまで誰も動けずにおりました。その隙に、見えた者には見えたのですが、首を無くした蛙の体から、一匹の醜悪な姿をした小さなカエルが這い出していたのです。それを素早く手にして、河津か原田か、その男がごくりと飲み込みました。
さらに隣で寝かされている熊の首を切り落とそうとした時、男の体がふわりと宙に浮かび、草庵の外へ放り出されました。
くるくると受身を取って立ち上がった男を睨み付けるのは、これもまた河津でした。そばに沙希が付いており、こちらが本物に相違ありません。投げられた方の河津が自分の顔をひと撫で。現れたのは美貌の青年、原田の顔です。
「わはは、お喋りが過ぎたな。そうさ、あたしが夜嵐の原田よ。虎狼狸の夜だったか、手前と沙希の話、馬鹿さ加減が面白くってな」
「そうかい、あんさんが夜嵐の原田か。あっしのことはいい。人にどう言われても仕方のないくだらぬ男だ。……だが、沙希のことまで、勝手なことをほざくんじゃねぇ!」
表情の乏しいまま、河津が吼えます。冷静な目の奥に、不動明王もかくやの抑えきれぬ怒りが浮かんでおりました。




