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3.楽院長・趙龍顕

 鏡楼に着いた頃にはもう息は完全にあがっており、珪己は肩で息をしなくてはならないほどだった。


 赤味がかった陽光を受けて二対の楼閣が強く照り輝いている。磨きぬかれた瑠璃瓦はこの国の繁栄のさまを見せつけるかのようで、荒ぶる呼吸をなだめつつ、珪己はまぶしさに目を細めた。


 この二対の楼閣は国の権威を他者に知らしめるために存在するものだった。鏡楼は国内外の賓客を招く際に使われる社交場であり、もう一方の慶楼は主に祭事を執り行う場だ。


 さっそく足を踏み入れた鏡楼は、昇龍殿一多忙と言われる吏部以上に殺伐とした空気を漂わせていた。ここ鏡楼に勤める者は直近に迫った調印式への対応に追われ、今が一番忙しい時期なのだ。


 それでも受付らしい人物を捕まえて文を手渡した珪己だったが、文を読むその男の疲れ切った顔に気づいてしまい、つい「何かお手伝いしましょうか」と尋ねていた。するとその男、目の前に示された救いには藁でもすがりたい心情だったらしく、「この文は二階へ持っていってくれないか」と珪己に文箱を渡してきた。椿の間、という部屋があるらしい。部屋の扉の意匠がその名のとおり椿であるから行けば分かるとのことだ。それだけ言うと、その男はせわしげに去っていった。



 *



 そして珪己は鏡楼の中を突き進んでいく。


 なぜここまで予定外のことに振り回されているのだろうか……不思議だ。


(こうやって鏡楼内を実際に見て歩いた経験はきっと調印式での仕事に生かせるはず。きっと、うん……きっと)


 そう思うことにする。

 まだ調印式での役割は決まってはいないが、知って損はない……はずだ。


 とはいえもう本当に猶予はない。

 馬侍郎に責められる様を想像してしまい、珪己の背筋に寒気がした。


 空耳が聞こえる気がする。


『残業した? なぜです? きちんと説明なさい……!』


 珪己は誰も見ていないことをいいことに裳裾をつまみ上げると、足首を見せながら階段を一段飛ばしで駆けあがった。空想の中だけではなく、本当にこの上司は怖いのだ。


 二階に上がると、廊下の突き当たりに目的の扉を容易に発見することができた。奥に向かって廊下を早足で進みながら、その右手には艶やかな牡丹が彫りこまれた扉がいくつもあることにも気づく。途中、一際大きく豪奢な扉もあった。


(どうして牡丹の扉だけがこんなにたくさんあるんだろう……?)


 この疑問はすぐに解けた。ちょうど珪己が通り過ぎたとき、そばにある一つの扉が開き人が出ていったのだが、その扉の隙間から見えた光景に「ああ」と思わず納得した。おそらくこの牡丹の間こそが調印式で用いられる大広間なのだ。


 最奥にたどり着くと、椿が彫られた扉の向こうからかすかに楽器を奏でる音色が漏れ聴こえた。


(……もしかしてここは)


 椿が彫られたその扉を静かに開くと――そこには思ったとおりの光景があった。


 部屋の中央には車座になって床に座り込み二胡を弾く者達がいる。そのそばには琵琶の弦を調整する者がいる。他にも笙を手入れする者、琴を弾く者、楽器だけではなく歌う者、踊る者までいる。部屋の隅には踊り手が身に着けるのであろう、煌びやかな小道具が並べられている。


 ――そう、ここは芸事に関わる者たちの部屋だったのである。


「あの。すみません」


 笛を手にした一人が近くを通りかかったので、呼び止め、文箱を手渡すと、その奏者は文を取り出しざっと読むや、とある一方に向かって大声でどなった。


「院長、吏部からの文です! 踊り手を増やすようにとのことです!」


 いたるところで多種多様な音が発生するこの部屋では、このくらい大きな声を出さないと声が届かないのだ。


 すると、向こうで数人と議論していた壮年の男が振り向いた。

 その顔は珪己がよく見知っている人物だった。


 だから思わず珪己も声をあげていた。


「院長!」


 院長と呼ばれたその男――ちょう龍顕りゅうけんは、官吏補の少女が発した声とその喜色を浮かべた顔に目を向け、見る間に破顔した。


「おお! 楊珪己ではないか!」


 龍顕は年齢以上に素早い身のこなしで密集した人々の間をすり抜けて珪己のほうへとやってきた。そして笑みを浮かべたまま無言で両手を広げた。珪己はその開かれた胸にためらうことなく思いきり飛び込んだ。龍顕のほうもそれが自然なことのように、身を寄せてきた珪己を両腕でかき抱いた。


「久しぶりだな」


 龍顕の低くよく通る声が、胸板を通して珪己の体に心地よく響いた。


「はい、院長。お久しぶりです」

「ほら。ちゃんと顔を見せなさい」


 言われたとおりに顔を上げて見せると、龍顕がおかしそうに笑った。


「ああ、しばらく楽院に来ないと思ったらそなたは官吏補になっていたのだな」

「ふふ、そうです。どうです、似合いますか?」

「いいや、似合わない。そなたには白のほうが似合うな」

「もう、またですか」

「またではない。いつまでも言わせてもらうぞ」


 白とは楽士が身に着ける衣裳の色である。


 珪己は亡き母から琵琶を習っていた。そして事変の後は龍顕による教授が続けられていた。そのため、この初春に女官として宮城に入るまで、珪己は定期的に楽院に通っていたのである。


 龍顕は珪己の琵琶の腕を買っている。だからことあるごとに珪己に楽士にならないか、琵琶奏者にならないかと勧誘をしていて、今ではそれが挨拶代わりになっていた。


 しかし珪己はこの誘いを断り続けている。珪己にとって、琵琶を奏でることは生活の糧を得ることに結びつかないのだ。弾きたいと思うときにしか弾きたくないのである。しかし仕事となれば、望まれればいつでも弾かなくてはいけなくなる。珪己には心を殺して琵琶を奏でるような一生を送る自信がなかった。……そう、琵琶には死に別れた母の思い出が色濃く残っているから。


 龍顕は目を細め、無言で珪己の頭に手を載せた。そして自身を呼びつけた笛の奏者のほうを向いた。


「で、なんだと?」

「はい、踊り手をあと五人追加するようにとの命です。しかも宴の構成を見直したそうで、二曲追加してほしいそうです。曲も指定されています。『黒蝶』と『大悠記』です」

「なんだと? これまた面倒な曲を選んできたものだな」


『黒蝶』はその名の通り、優美な蝶を模した舞踏曲である。踊り手が数多くいることで見栄えする振付なため、礼部は踊り手の追加要請を吏部に依頼したというわけだ。対する『大悠記』のほうは演奏のみ。しかしこの二曲の共通点――それは琵琶奏者に求められる技術が非常に高いことにある。


 龍崇があご髭をなでながら遠い目をしてつぶやいた。


「まったく……すうのやつは相変わらずだな」

「え?」

「いや。なんでもない」


 その時、龍顕はまだ腕の中にいる珪己と目が合った。


「おお、そうだ。ちょうどここに逸材が!」

「はい?」


 龍顕が珪己の肩をがしっとつかんだ。


「珪己。そなたも奏者として参加しなさい」

「……はいい? またそうやって……」


 いつものごとく断ろうとする珪己の口を龍顕が片手で制した。


「いや、今回は本当に困っているのだ。実は今、琵琶の筆頭奏者が不在でな。まったく、商売道具の指に傷をつけるなんて馬鹿なやつだが……まあとにかく、この二曲をやるとなると今いる奏者だけでは『音楽として』不足することは明白でな」


 珪己が母から習った奏法の基礎には、その後、龍顕によって応用と彩りが与えられた。そして近頃では龍顕の指導はさらに進み、珪己にこう命じることが多くなっていた。音楽を奏でろ、と。その時その場で必要な音を出せ、と。


 龍顕は『音楽』を作ることに口うるさく、かつ誠実である。だから龍顕が今そう判断したうえで珪己の参加を要請するということは、それはもう本心からの言葉なのだ。


 珪己は師の瞳の色から意志を確信すると、小さくため息をつきながらもうなずいた。

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