2.冷酷非道な依頼
すごすごと自身の机に戻った珪己に、書きかけの書類から顔をあげた温忠が筆先をぴっと向けてきた。
「あ。その顔はやられたみたいだね」
登城初日に珪己が祥歌に酒楼へ連行された時と同じような、傍観して楽しむ類の笑顔を浮かべている。
「はい……やられました」
珪己は椅子に座ると、温忠との間にある自分の机に突っ伏した。
「宿題を出されてしまいました。困ったな、どうしよう……」
「そんなに難しい宿題だったの?」
「はい。しかも回答期限は明日の朝なんです! もう絶対に無理です!」
「まあまあ、今そのことで悩んでも仕方ないから。今日もさっさと仕事をしてしまおうね」
軽く流され、珪己は顔をあげて温忠をにらんだ。
「もう! 温忠さんって冷たいんですね」
「そうだよ、僕って意外と冷たいんだよ。で、珪己はまだ吏部への宅配は残っている?」
「いいえ? 今日はあとは武殿のほうに二回行けば任務終了です。宅配は昇龍殿から始めて枢密院は最後って決めているじゃないですか。今はもう夕刻ですよ」
やだなあ、とへらりと笑った珪己に温忠は相好を崩さず、「じゃあこれよろしく」と一つの文箱を指し示した。聞けば吏部へ届ける物だという。しかも今日中に。
「……ひ、ひどい! 温忠さんって本当に冷酷非道です!」
吏部とは文官の人事を司る部であり、その居室は昇龍殿の中でも奥の方にある。ちなみにここ礼部は昇龍殿の正門側にあり、つまりこの二つの部は正反対に位置する。そのため、同じ殿とはいえ、その距離はいい運動になる程度に遠いのだ。
珪己が顔を真っ赤にして怒るのを、温忠が意味ありげにわざとらしく笑ってみせた。
「だから言っただろう。僕は冷たい人間だって」
こうなったらもはや何を言っても無駄だ。それほどつきあいは長くはないが、珪己はこの同僚のことがだいたいは分かるようになっていた。なので勢いよく立ち上がった。
「……今すぐ仕事に戻ります!」
「はいよろしく」
ふふっと笑った温忠を軽く一瞥し、珪己は腕まくりをして気合いを入れた。
「おしっ! やるぞー!」
ただし腹の底から声を出してしまい、またそばを通りかかった老官吏を驚かせてしまったが。
*
さて、ほとんど走るように駆け、まずは予定どおり武殿を攻略しに行ったところで、あまりの息の荒さに今度は対応者にぎょっとされた。
「どうしたんですか? そんなに急いで、それに息も絶え絶えで」
「お、お気になさらず……。それよりも、これが今日の分、です……」
どさりとおかれた量は通常の倍。ちなみに珪己は普段から常人の倍近い量を一度に運んでいる。細腕の少女にしては、と常日頃から感嘆されていたのに、今日はさらにその倍だから、さすがに対応者も驚きを隠せなかったというわけだ。
しかし珪己には休むことはゆるされていない。武殿にて受け取った荷物――当然これも通常の倍近い量――を礼部に運び入れ、その足で昇龍殿内の吏部へと向かった。
そう、急がなくては勤務時間内に仕事を終えることができない。普通の官吏であれば残業をしてもいいのだろうが、礼部は時間管理に非常にうるさいのだ。そのため、礼部ではよほどのことがないかぎり残業が一切禁止されている。それに定刻終了後すぐに正門へ行かなくては仁威を待たせてしまうことになる。
珪己は吏部の官吏に文箱を渡しながら、温忠からの指示どおり、急ぎなためこの場での開封を願った。その官吏は「はいはい」と、いかにも面倒くさそうに箱を開けて文に目をとおし、そして本当に面倒くさそうに大きく嘆息した。
「うわ、今からこれを持っていけっていうのか。まったく礼部のやつらはふざけているな」
聞き捨てならない台詞にむっとした珪己ではあったが、なんとか胸の奥で怒りを押し殺す。その官吏は文箱からもう一通の文を取り出し軽く目を通すと、手元にあった印をその文の隅に無造作に押し、口元をひくつかせている珪己に「はい」と突き出した。
「ついでにこれ、宅配頼んでいい?」
(ついでってなんだ、ついでって……!)
作り物の笑顔が崩れかけたが、気力でなんとか修復した。
「どちらへ持っていけば?」
「鏡楼」
「……鏡楼って」
思わずその名を問うように口に出してはいるが、珪己は知っていた。鏡楼とは正門から入ってすぐのところにそびえ立つ二対の楼閣の一つであることを。よってこの発言は無知によるものではない。珪己が言いたいのはその発言の非常識さだ。つまりこの目の前の官吏は、今いる吏部から礼部を超えて、さらに遠くへと文を運べ、そう珪己に言っているのである。
「いいじゃないか、礼部からなら近いだろ。俺達はまだ仕事があるからそっちで運んでおいてよ」
「で、でも」
「礼部はもう四半刻もすれば仕事が終わるんだろう? 俺達より暇なんだからやってくれよ。それにこれは礼部のせいで生じた余分な仕事だ。だったら同じ礼部の君が尻ぬぐいするべきだと思うね」
自分の発言に一点の曇りもないと信じて疑わないその官吏を内心では罵りつつ――珪己は無言で、だがにこやかにその文を受け取った。




