4.過酷な練習
翌朝、珪己は祥歌にこの一件を報告した。
「……というわけで事後承諾になってしまいますが、調印式の後の宴では私は奏者として参加させてください。調印式のほうでは礼部のお手伝いができるとは思いますが……」
勝手なことを、と怒られるかとびくびくしていた珪己に、しかし祥歌はにっこりと笑った。
「ええ、いいですよ。調印式のほうは心配なさらず宴のほうに専念してください」
あっさりと承認され、拍子抜けした珪己は思わず確認したが、祥歌は再度『是』と答えた。そして、
「宿題の答えとしては最適です。よろしい」
と言われ、そこでようやく珪己は昨日の祥歌の問いを思い出したのである。すっかり失念していた。
というわけで、珪己は即日これまでの通常任務から解放され、その足で鏡楼へと入った。元々、不要書類の廃棄はその他官吏補によって持ち回りで分担されていたことであったし、宅配業務は温忠の腕が完治したため、珪己一人で実施し続ける意味はもはやなかったのである。
そして心の準備もないままに、龍顕指導の元、過酷な練習が即日始まった。すでに調印式まであと三日、その土壇場で急きょ追加された二曲に対応するためには、文字通り過酷な鍛練なしでは間に合うはずもない。しかも珪己は追加された二曲だけでなく、予定されていた五曲と合わせて計七曲に取り組まなくてはならないのだ。
どの曲も初見ではなかったことは、珪己をひとまず安堵させた。そうして奏でられた珪己の琵琶は、思わず他の奏者が口笛を吹きたくなるくらいの出来であった。さすがは龍顕による指導を八年間受けてきただけのことはある。かつ楽院長である龍顕直々の勧誘を受けるだけのこともある。
が、いかんせん、このところの練習量が少なかった。七曲をほとんど休みなく、しかも『音楽となる』ように弾き続けることは、人前の演奏経験のない珪己には相当な負担となった。
「最後まで集中するのだ!」
「一瞬でも『音楽である』ことを忘れてはならない!」
心が緩みそうになるたびに、指の動きが乱れるたびに、耳ざとく龍顕の怒声が飛ぶ。実は龍顕、その名に龍の字があるとおり、これでもれっきとした雅な皇族の一員であるのだが、ひとたび指導の段になると鬼の形相に変貌する。彼の指導に最後までついていける豪胆な者でないと、この宮城に招へいされる上席楽士にはなれないのだ。
「いつまでも主張する音を出すでない! 今は笙を引き立てる場だ!」
独奏の経験しかない珪己には、このように大勢の楽士、それに歌い手や踊り手に合わせて弾くことは初めてのことだった。しかし大事な宴の場であるのだからうまく弾きたいという思いは少女の胸に当然あって、けれどもそれだけでは音が出過ぎてしまい……。もちろん音量のことだけではない。存在感の問題だ。
龍顕いわく――。
あくまで裏方に徹するべき音を出せ。しかし音楽であることを忘れるな。そして賓客を迎えるにふさわしい品質の音を出せ。しかし出すべきところでは最前線に出てこい。だが他の琵琶奏者との協調を忘れるな。
とにかく要求が尽きないのである。
(難しい、難しいよ……!)
やっぱり私は楽士になんてなれない、と改めて思う。しかし一度引き受けたことを断るような性格ではない。であるから、珪己はこの日、練習初日だというのに心身共に最後の一滴まで振り絞って龍顕の指導の元弾き続けたのである。
*
練習は日が暮れても続けられた。
そして、今。合同練習は終わり、灯明皿の上で燃える芯が放つ淡い光の中で皆が黙々と自主練習に取り組んでいる。それでも周囲が暗くなるのに比例して、一人、また一人と帰宅の途についていった。
そんな中、珪己は休むことなく弾き続けていた。そしてとうとう最後の一人となった珪己を、龍顕が腕を組んで見つめている。
今、珪己が弾いている曲は『星霊伝』だ。この曲はしっとりと落ち着いた雰囲気の曲で、楽士になれる程の腕の持ち主にとってはさほど難しくはない。しかし演奏時間が非常に長い。ほぼ四半刻に渡る長い時間を、同じ速さ、同じ調子を維持したまま弾き続ける必要がある。それが珪己にとっては非常に難しいのだ。
珪己の奏法には、前へ前へと進み出て自己を主張するような性質がみられる。それは珪己本人も自覚している。しかし、今までそれで何ら問題はなかった。なぜなら、珪己にとって琵琶を弾くこととは己の内面と対話するための手段だったからだ。語ることに飽きれば、または語り終えたら、珪己はいつでも自分の判断で奏でる手を止めてきた。それを龍顕もゆるしてきた。
しかし人前で『星霊伝』を弾くとなると、奏者はその欲求を最後まで抑えこまなくてはならない。それにこの曲は歓談の時間に弾くという。であれば絶対に奏者の音は前に出てはいけない。語りたくなったから、と心のおもむくままに飛び出すことはゆるされないし、疲れたからと手を休めることもゆるされない。
絶対に駄目だ、と言われると、どうにも指がむずかゆくなってきて、珪己は何度も演奏の途中でつまづいた。それがゆるせなくて、指が止まるたびに最初から弾きなおした。今、珪己の顔は必死の形相で、額からは幾筋も汗が流れていた。それはもはやこの曲を奏でるべき楽士の表情からはほど遠いものだった。
と、龍顕が口を開いた。
「この曲ばかりに構っている時間はないぞ」
「……はい。分かっています」
珪己は乱暴な所作で額の汗をぬぐった。
その様子を見た龍顕が、そばにあった琵琶を手に取り構えた。
「よいか。私の弾き方を真似るのだ」
そう告げるや、ぽろんと軽くかき鳴らし、続けて軽やかに『星雲伝』を奏で始めた。指が弦の上を舞うかのように動き、音が紡ぎだされていく。それはまさに龍顕が要求していたとおりの音であった。小さな星々が龍顕の手によって生み出され、夜の空に溶けていく。控えめに、けれど心地よい音にあたりが包まれていく。
「頭ではない。心に刻むのだ」
弾きながら龍顕が言った。
「心に刻まれた音で指を動かすのだ」




