豊かさの偏り
夜明け前、館の前庭には四頭の馬が並んでいた。
リオネルが手綱を確かめていると、カイルが欠伸を噛み殺しながら歩いてきた。
「今日は、どっちから回るんですか」
「ゴルドの村からだ」
リオネルは地図を広げ、川を挟んだ二つの村を指した。
「隣同士なのに、これほど数字が違う理由を、この目で確かめる」
「楽しみですね」
カイルは軽い調子で言ったが、その目はいつもより少し鋭かった。
フィーナとマルタも支度を終え、四人は朝靄の残る街道を進み始めた。
*
半刻ほど馬を進めると、ゴルド担当の村が見えてきた。
最初に目に入ったのは、道の様子だった。
轍はきれいに均され、両脇には水はけのための溝がしっかりと切られている。街道から村へ入る道すら、これほど手入れが行き届いているとは思わなかった。
村に近づくにつれ、家々の造りの良さが分かってくる。屋根は新しく葺き替えられ、垣根も歪みなく整えられている。納屋の壁板一枚とっても、傷みが少ない。
村の中央には小さな市場があった。
露店には野菜や乾物、布地までが並び、品数も豊富だった。値札を見る限り、値も安定している。
「賑やかですね」
フィーナが目を輝かせながら言った。
道行く村人たちの身なりも小綺麗で、表情には余裕が見える。子供たちが笑い声をあげながら通りを駆けていった。
リオネルは黙って周囲を見回した。
悪い光景ではない。むしろ、領主として喜ぶべき光景のはずだった。
だが、素直に喜べない自分がいた。
*
村長格の老人が、四人を出迎えた。恰幅の良い、身なりの整った男だった。
「領主様自ら、このような村までお越しいただけるとは」
「暮らし向きが良いようだな」
リオネルが言うと、老人は胸を張った。
「はい、おかげさまで。代官様がよくしてくださいますので」
「具体的には、どのような支援を」
リオネルが尋ねると、老人の表情がわずかに揺れた。
「それは……その、色々と、と申しますか」
「色々、というと」
「いや、細かいことまでは、私も……」
老人は視線を泳がせ、話をはぐらかすように咳払いをした。
「まあ、とにかく、この村は恵まれております。それだけは確かでございまして」
それ以上、突っ込んだ話は出てこなかった。
村を歩きながら、リオネルは何度か村人に声をかけようとした。
だが、いずれも同じような反応だった。
遠目には笑顔で立ち話をしている村人たちも、リオネルたちが近づくと、ふっと会話をやめる。
代官の話題を出すと、途端に大人しくなり、当たり障りのない相槌だけを返してくる。
「なんか」
人気のない路地に入ったところで、カイルが小声で言った。
「みんな、用意された台詞を喋ってるみたいですね」
「私もそう感じた」
リオネルは短く答えた。
フィーナだけは、まだ無邪気に周囲を見回していた。
「みんな、楽しそうですね」
「……そうだな」
リオネルは曖昧に頷いた。
マルタが、少し離れた場所からこちらへ戻ってきた。
「リオネル様。この村の方々ですが」
「何か感じるか」
「笑っておられますが、どこか……身構えているような。踏み込まれたくない何かを、抱えているような感覚があります」
その言葉に、リオネルは村長との会話を思い返した。
豊かさの理由を語ろうとして、途中で言葉を止めた、あの表情。
*
村を出て、川沿いの道を進む。
地形はほとんど変わらない。同じ川、同じ土壌、同じ緩やかな傾斜。
リオネルは地図と見比べながら、そのことを改めて確かめた。
半刻も歩かないうちに、エリオット担当の村が見えてきた。
最初に目に入ったのは、傷んだ屋根だった。
葺き替えられないまま放置され、隙間から藁がのぞいている家がいくつもある。垣根は倒れかけ、修理された跡すらない。
市場と呼べるものはほとんどなかった。道端に筵を広げ、わずかな野菜を並べている老婆が一人いるだけだった。
村人たちの姿はまばらで、いずれも質素な、着古した服を纏っている。
「お恥ずかしい限りですが」
出迎えたエリオットが、硬い表情でそう言った。
「見ての通りの村です。ここ数年、あまり良い状態とは言えません」
リオネルは村の中を歩いた。
村人たちに声をかけても、返ってくるのは短い言葉だけだった。目を合わせようとしない者も多い。
ある家の前で、井戸端に座っていた女に、被害の様子を尋ねた時だった。
「最近、何か困っていることは」
「――え」
女は肩をびくりと震わせ、慌てて周囲を見回した。
「い、いえ……特には……」
「代官への報告は、きちんとできているか」
その一言に、女の顔から血の気が引いた。
「そ、それは……」
言葉を続けようとした女の手を、隣にいた別の村人がそっと引いた。
二人はそのまま、逃げるように家の中へ入っていった。
エリオットが慌てて間に入る。
「申し訳ございません。皆、あまり、こういったことに慣れておりませんで」
「代官への報告について尋ねただけだ」
「はい……その、あまり、突っ込んだことは、聞かれない方が」
エリオットはそこで言葉を濁し、それ以上は続けなかった。
単なる人見知りや、貧しさゆえの萎縮には見えなかった。
何かを口にすれば、良くないことが起きる。
そう思っているような怯え方だった。
*
村の外れを歩いていたところで、リオネルはふと足を止めた。
道の脇に広がる田畑に、目が留まったのだ。
同じ時季のはずなのに、作物の育ちが心なしか悪い。葉の色も薄く、土もどこか乾いて見える。
隣の畝と比べても、明らかに勢いが弱かった。
「これは……」
リオネルは屈み込み、土に触れた。
乾いている、というほどではない。だが、湿り気が足りていないのは確かだった。
村全体の貧しさゆえに、手入れが行き届いていないだけなのか。
それとも、何か別の理由があるのか。
この時点では、判断がつかなかった。
リオネルは懐から手帳を取り出し、田畑の位置と、目にした様子を短く書き留めた。
「何か気になるんですか」
カイルが覗き込んでくる。
「作物の育ちが良くない。理由は分からない。だが、覚えておく価値はある」
「また地図に書くやつですね」
「ああ」
リオネルは手帳を懐にしまい、先へ進んだ。
その時はまだ、それが村人たちの怯えとどう繋がるのか、リオネル自身にも分かっていなかった。
*
村を歩き終え、四人は少し離れた丘の上で足を止めた。
振り返ると、川を挟んだ二つの村が、同時に見渡せた。
片方は活気があり、豊かに見える。片方は静かで、寂れて見える。
「フィーナ、何か感じるか」
リオネルが尋ねると、フィーナは目を閉じ、しばらく黙っていた。
「……こっちの土地、なんだか元気がないです。うまく言えないんですけど」
「元気がない?」
「はい。理由は、まだ分かりません」
フィーナは困ったように眉を下げた。
リオネルは地図を取り出し、二つの村の位置に、今日見たものを書き加えていった。
豊かさ。だが、その裏にある不自然な口の重さ。
貧しさ。そして、それ以上の、明らかな怯え。
その脇に、小さく書き添える。
――田畑、生育に差あり。要確認。
「あっちの村も、こっちの村も、なんか妙でしたね」
カイルが腕を組みながら言った。
「楽しそうで隠し事。静かで怯えてる。どっちもどっちで、おかしいっすよ」
「同じ領内で、これほど差があるとは」
リオネルは呟いた。
代官の力量差、というだけでは片付けられない。
二つの村を隔てているのは、川一本だけだ。
それなのに、片方は何かを隠し、もう片方は何かに怯えている。
「数字だけでなく、この目で見たものも、描いておかないとな」
リオネルは地図に、もう一本、線を引いた。
夕陽が、川面を赤く染め始めていた。




