帳簿と地図
執務室の机の上には、地図が広げられていた。
その上に、何冊もの帳簿が開かれたまま重なっている。
リオネルは羽根ペンの尻で地図の一点を叩きながら、
帳簿の数字を目で追っていた。
「また帳簿と地図とにらめっこですか」
扉を開けたカイルが、
呆れたような面白がっているような声をかけてきた。
「領主の仕事だ」
「猪一匹の時も、川の氾濫の時も、結局最後はこれですもんね」
カイルは机の脇に立ち、覗き込むように地図を見た。
村の名前の横に小さな文字でいくつもの数字が書き込まれている。
収穫高。納税額。被害報告の件数。
「相変わらず、几帳面ですね」
「几帳面というより、こうしないと分からないだけだ」
リオネルは帳簿のページをめくり、また地図に目を落とした。
着任から数か月。
巡回にはまだ本格的に出ていない。
まずは書面で全体を把握してから、
というのがリオネルのやり方だった。
村ごとの帳簿を、地図上の対応する位置に書き写していく。
この地道な作業を、リオネルは苦にしなかった。
むしろ、数字を地図に落とし込んでいく過程そのものに、
何かが見えてくる予感があった。
エリオット担当の村々の数字を書き込み終えたところで、
リオネルは羽根ペンを止めた。
豊作の年もあれば、不作の年もある。
被害報告の件数も、村によってまちまちだ。
ある村は毎年のように魔物の目撃を報告し、
別の村はほとんど何も書かれていない。
ばらつきがある。
だが、それ自体はおかしなことではない。
土地の条件も、村人の気質も、村ごとに違うのだから。
問題は、次だった。
ゴルド担当の村々の数字を書き込んでいく。
一つ、また一つと、地図の上に数字が並んでいく。
書き終えたところで、
リオネルはしばらく地図を見下ろしたまま、動かなかった。
「どうしました?」
カイルが顔を覗き込む。
「……揃いすぎている」
「揃いすぎ?」
「収穫高も、納税額も、被害報告の件数も。
年による変動が、ほとんどない。
まるで、毎年同じ数字を書き写しているみたいだ」
カイルは地図に目を落とし、
しばらく眺めてから片方の眉を上げた。
「言われてみれば……確かに、綺麗すぎますね」
「豊作の年と不作の年で、
これほど差が出ないというのは、逆に不自然だ」
リオネルは羽根ペンの先で、地図上の一点を示した。
「特に、ここだ」
示されたのは、川を挟んで隣り合う二つの村だった。
片方はエリオット担当。もう片方はゴルド担当。
「同じ川から水を引いて、
土壌もほとんど変わらないはずの土地だ。
距離も、目と鼻の先と言っていい」
リオネルはエリオット側の村の数字を指でなぞった。
「こちらは、年によって収穫高が三割近く変動している。
魔物の被害報告も、多い年は十件を超える」
次にゴルド側の村の数字へ指を移す。
「こちらは、毎年ほとんど変わらない。
被害報告は、この五年で二件だけだ」
「同じ川のはずなのに、ですか」
「地形が違うなら分かる。
だが、地図を見る限り、
この二つの村の条件はほとんど変わらない」
カイルは腕を組み、地図とリオネルの顔を交互に見た。
「代官の力量差、ってやつじゃないんですか。
エリオットさんはまだ若いし」
「力量差なら、報告の精度に差が出るのは分かる。
だが、これは精度の話じゃない。
実態そのものが違いすぎる」
リオネルは他の村々の数字にも目を通していった。
見ていくうちに、傾向がはっきりしてくる。
エリオット担当の村は、総じて数字にばらつきがある。
豊かな年もあれば、厳しい年もある。
魔物の被害も、村によって差はあるが、
それなりの件数が報告されている。
ゴルド担当の村は、総じて数字が揃っている。
悪くはない。むしろ、どこも安定して豊かに見える。
だが、あまりに安定しすぎていた。
「ばらつきがあるほうが、自然なんですか」
「土地というのは、そういうものだ。
天候も、川の水量も、年によって変わる。
それに応じて収穫も変わり、魔物の動きも変わる。
まったく変動がないというのは……」
リオネルは言葉を切り、地図を見下ろした。
「誰かが、数字を揃えているということだ」
昼過ぎ、報告のために執務室を訪れたゴルドに、
リオネルは帳簿を示した。
「この数字は、実際に現地で確認したものか」
「もちろんでございます」
ゴルドは即座に答えた。声に淀みはない。
「長年、この地を預かっておりますので。
各村の状況は、逐一把握しております」
「では、この五年間、ほとんど数字が変わらないのは」
「治めが行き届いている証と、お考えいただければ」
柔らかな物言いだったが、
それ以上の説明を続ける気配はなかった。
リオネルはしばらくゴルドの顔を見た。
表情に、動揺らしきものは見当たらない。
「一度、自分の目で見ておきたい。
明日から、領内を巡ろうと思う」
「そこまでされずとも……」
ゴルドがわずかに眉を寄せる。
「帳簿にある通りでございます。
着任早々、そこまでお手を煩わせずとも」
「いや、確かめておきたい」
リオネルは重ねて言った。
それ以上、ゴルドは止めなかった。
「かしこまりました。手配いたします」
一礼して下がっていくゴルドの背中を、
リオネルはしばらく見送った。
その日の夕食の席で、
カイル、フィーナ、マルタと軽く近況を話す時間があった。
「そういえば、最近、
痕跡の読み方が変わってきた気がするんですよね」
カイルがパンをちぎりながら言った。
「前は、そこに何がいたか、
くらいしか分からなかったんですけど。
今は、その跡が新しいか古いかで、
だいたい今どのあたりにいるか、
見当がつくようになってきました」
「それは大きいな」
「まあ、まだ勘みたいなものですけどね」
フィーナも小さく手を挙げた。
「わたしも、なんだか変わってきました。
前は、自然の声が聞こえるだけだったんですけど。
最近は、こっちの頼み事も、
ちゃんと届くようになった気がします」
「届く?」
「はい。『あっちを見てほしい』とお願いすると、
ちゃんと応えてくれるというか……
森でも、川でも、風でも」
フィーナは照れたように笑った。
マルタが、静かにカップを置いた。
「私は、礼拝所のことですが。
最近、町の方がふらりと相談に来てくださるようになりました。
家族のこと、村の揉め事、些細な悩みごとまで」
「治せない、と言っていたのが、嘘のようだな」
リオネルが言うと、マルタは少し目を伏せた。
「治すことはできませんが……
話を聞くことは、できるようになってきました」
それぞれの成長を耳にしながら、
リオネルは自分の手元にある地図を思い浮かべた。
地図もまた、少しずつ真実を語り始めている。
夕食のあと、リオネルは再び執務室に戻り、地図を広げた。
昼間書き込んだ数字を、あらためて見直す。
隣り合う二つの村。片方はばらつき、片方は均一。
その境界線を、羽根ペンの先でなぞった。
「明日から、ここを歩く」
独り言のように呟いた声に、扉の外からカイルの声が応えた。
「準備、しておきますね」
「ああ」
リオネルは地図を丸め、立てかけた。
帳簿の上では見えなかったものが、
地図の上には既にうっすらと輪郭を見せ始めていた。




