沼の主
重い気配は、進むごとにはっきりとした輪郭を帯びていった。
水位は膝から腰、腰から胸元近くまで達し、四人の動きは、否応なく鈍くなっていく。視界を遮る濁った水面の下に、何が潜んでいるのか、もはや誰にも見通せなかった。
水音一つにも神経を尖らせながら、四人は無言のまま、慎重に歩を進めていった。
*
しばらく進むと、行く手にわずかな変化が見えた。
水嵩が徐々に浅くなり、視界の先に、乾いた地面らしきものが覗いている。
「あそこ、この階層の端かもしれません」
フィーナが、そう言って指を差した。
沼を抜けた先、やや開けた場所――そこまで辿り着ければ、ひとまず足場の悪さからは解放される。四人の間に、わずかな安堵が広がった。
「もう少しだな」
リオネルの言葉に、三人が頷く。
その開けた場所へ差し掛かったところで、マルタが足を止めた。
「念のため、加護をかけておきます」
両手を掲げ、四人の身体を淡い光が包む。力、速さ、身のこなし――これまでの遠征で幾度となく重ねてきた、慣れた所作だった。
「終わりました」
*
その時水面が、轟音と共に爆ぜた。
「――!」
誰かが声を上げる間もなかった。
巨大な顎が、水しぶきを撒き散らしながら、隊列の先頭にいたカイルのすぐ側から飛び出してくる。ポンド・クロコダイル――これまでのフロッグとは、比較にならない巨体だった。
これまで、フィーナやカイルの察知能力によって、常に事前の備えができていた。それが、今回は初めて間に合わなかった。
「くっ――!」
辛うじて身をかわしたカイルの目の前を、鋭い牙の並んだ顎が、空を切って通り過ぎる。
これまでとは、格が違う。誰もが、体感でそれを悟った。
「射て!」
リオネルの声に、体勢を立て直したカイルが、即座に矢を放つ。
矢は、確かにクロコダイルの巨体へ突き刺さった。だが――
「効いてない……!」
鱗に覆われた分厚い皮膚が、矢を弾き返す。あるいは、浅く刺さったまま、大した痛痒も与えていないようだった。
「なら、私が!」
マルタが踏み込み、メイスを振るう。だが、渾身の一撃も、硬い表皮の上を滑るように弾かれ、まともに衝撃を通せなかった。
「弾かれる……!」
これまで積み重ねてきた戦い方の、そのほとんどが通用しない。四人の間に、明確な焦りが広がった。
クロコダイルは、その巨体からは考えられない速さで、再び顎を大きく開いて突進してくる。
「散れ!」
リオネルの叫びに、四人はとっさに左右へ跳び、直撃だけは免れた。
*
息を切らしながら、フィーナは必死に頭を巡らせていた。
弓も、メイスも、通らない。ならば、どうする。
ふと、脳裏に、学校の授業で聞いた一節が蘇った。
――水辺に棲む魔物の多くは、体温を保つ機能に乏しく、火の熱には人一倍弱い傾向がある。
「これ、なら……!」
フィーナは、即座に両手を掲げ、火精霊へ呼びかけた。
「お願いします、力を貸してください!」
手のひらに、赤い光が凝縮していく。
「くらえ!」
放たれた火球が、クロコダイルの横腹に直撃した。
「ぐるるるぁっ!」
これまで一切怯む素振りを見せなかった巨体が、初めて、明確に体を仰け反らせた。
「今です!」
フィーナの叫びに、マルタが即座に反応する。
「はああっ!」
加護で強化された全身の力を込め、マルタは怯んだ隙にメイスを巨体の下へ差し込んだ。
「――くっ、重い……!」
歯を食いしばりながら、力任せに梃子の要領でメイスを跳ね上げる。
衝撃と共に、クロコダイルの巨体が、ゆっくりと横転していく。
その腹が、無防備に晒された。
「カイル、リオネル様!」
マルタの声に、二人は即座に動いた。
「行くぞ!」
「はい!」
リオネルのレイピアと、カイルの短剣が、同時に露出した腹部へ深々と突き刺さる。
クロコダイルは、断末魔の唸りを上げながら、大きく身をよじった。だが、それも長くは続かなかった。
やがて、巨体の動きが完全に止まる。
沼に、再び静寂が戻った。
*
「……終わった、のか」
カイルが、荒い息のまま、崩れ落ちたクロコダイルを見下ろした。
「フィーナのおかげだ」
リオネルが、剣を鞘に収めながら言った。
「学校の授業、ちゃんと聞いておいてよかったです……」
フィーナは、まだ震える手を握りしめながら、安堵の息を吐いた。
「にしても、初手をあれだけ完璧に不意打ちされたのは、初めてですね」
マルタが、静かに振り返った。
「油断していたわけじゃない。それでも、気づけなかった」
リオネルは、剣を鞘に収めながら言った。
「これまでとは、明らかに格が違う相手だったということだろう」
*
クロコダイルを退けたところで、四人はその場に腰を下ろし、しばらく休息を取った。
沼地特有の湿った空気の中、それぞれが道具を確認し、消耗を確かめ合う。
「水、飲んでおけ」
リオネルが、革袋を回しながら言った。動き通しで気づかなかったが、喉はすっかり渇いていた。
カイルが一口含み、フィーナ、マルタへと順に手渡していく。冷たい水が喉を通ると、強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「魔力、大丈夫か」
「まだ、少し残っています」
フィーナが答える。
「加護も、あと一度か二度なら」
マルタも、腕輪に触れながら頷いた。
「この先、何が待っているか分からない。少しでも不安があるなら、ポーションを飲んでおいてくれ」
リオネルの言葉に、フィーナとマルタは、それぞれ荷物から魔力回復のポーションを取り出した。
「もったいない気もしますけど……」
「今、出し惜しんで、いざという時に足りない方が困る」
リオネルの言葉に、フィーナは頷き、瓶の中身を一息に飲み干した。マルタも、同じように口をつける。
「これで、万全です」
「加護も、しっかりかけられます」
二人の表情に、確かな落ち着きが戻った。
「この階層は、ひとまず片付いたと見ていいだろう」
リオネルは、周囲を見渡しながら言った。
「奥に、まだ道が続いている。次に進む前に、ここで整えておこう」
誰も異を唱えず、しばしの静寂の中、四人は英気を養った。




