第三階層:沼地
二階層の奥、下へ続く階段を降りたところで、四人は思わず足を止めた。
「――うわ」
カイルが、小さく声を漏らす。
これまでの、石造りの通路や整然とした広間とは、まるで違う光景が広がっていた。
足元は、ぬかるんだ泥に覆われている。周囲には、濁った水を湛えた沼が幾つも広がり、絡み合った木の根や、湿った空気の匂いが立ち込めていた。頭上を覆う何かの蔓が、天井代わりに垂れ下がり、その隙間から、かすかな緑がかった光が差し込んでいる。地下の空間とは思えないほど、生々しい気配に満ちていた。
「階層が変わっただけで、こんなに違うんですね」
マルタも、驚いたように周囲を見回した。
「ダンジョンって、こういうものなんですか」
「これまで見てきたダンジョンでも、階層ごとに雰囲気が違っていた」
リオネルは、記憶を辿りながら答えた。石造りの通路から、豪華な広間、そしてこの沼地――どれも、地続きとは思えないほどの落差がある。
「だが、これほど極端な変化は、初めてだな」
石畳から、一足飛びに沼地。まるで、別の場所に転移したかのような変わりようだった。誰かが、意図的に環境そのものを作り変えているとしか思えない。
「本にも、そう書いてありました」
フィーナが、思い出したように口を挟んだ。
「階層ごとに環境が変わること自体は、珍しくないみたいなんです。でも……ここまではっきり違うのは、かなり珍しいって」
「珍しい、というと」
「自然にできたダンジョンなら、隣り合う階層は、もう少し系統が似るはずなんです。土の階層の隣は、土か岩。水気のある階層の隣なら、もう少し湿った感じの場所、というふうに」
フィーナは、周囲の沼地を見渡しながら続けた。
「石造りの階層から、いきなりこんな沼に変わるのは……自然にできたものだとしたら、ちょっと考えにくいと思います」
その説明に、リオネルは頷いた。
「やはり、人の手が入っている、ということか」
「たぶん」
*
足を踏み出すと、すぐに、これまでの立ち回りが通用しないことを思い知らされた。
「うわ、沈む……」
カイルが、片足をぬかるみに取られ、慌ててバランスを立て直す。
「歩き方、変えないとだめですね」
「加護で、足元を軽くできないか」
リオネルの問いに、マルタは少し考えてから頷いた。
「試してみます」
マルタが、四人の足元に向けて加護をかけ直す。わずかに身体が軽くなった感覚に、カイルが「おお」と声を上げた。
「これなら、多少はましです」
試しに何歩か進んでみると、確かに足の取られ方が和らいでいる。それでも、これまでの石畳のようにはいかず、一歩ごとに慎重さが求められた。
しばらく進んだところで、リオネルはフィーナに声をかけた。
「浅瀬を、確かめられるか」
「はい」
フィーナは、目の前の沼に手をかざし、水精霊に語りかけた。
しばらくして、目を開ける。
「この辺りは、そう深くないみたいです。向こうの方は、もっと深くなってます」
フィーナの案内に従い、四人は比較的浅い場所を選びながら、慎重に進んでいった。時折、フィーナが立ち止まっては、その都度、次に進むべき方角を確かめる。地図を頼りに進む陸上の探索とは、また違う勘所が求められる道行きだった。
さらに奥へ進んだところで、リオネルは再びフィーナに問いかけた。
「この先は、どうだ」
フィーナは、しばらく水面に意識を集中させていたが、やがて表情を強張らせた。
「……かなり奥に、何かいます。複数、感じます」
「敵か」
「たぶん」
その報告に、四人は警戒を強め、歩みを一層慎重なものに変えた。水音一つにも神経を尖らせながら、じりじりと沼の奥へ足を進めていく。
しばらく進んだところで、水面が不自然に揺れた。
「来ます!」
カイルの声とほぼ同時に、水中から巨大な影が飛び出した。
ジャイアントフロッグだった。ぬめった巨体が、大きく口を開けて襲いかかってくる。
だが、カイルとフィーナの察知能力のおかげで、飛び出す直前の兆候は、既に読めていた。
「今!」
カイルの矢が、跳躍の途中でその巨体を射抜く。勢いを削がれたフロッグへ、隊列の前方にいたマルタが、真っ先にとどめを刺した。
別の一体が、今度は隊列の後方から迫る。
「後ろです!」
フィーナの声に、最後尾のリオネルが即座に振り向き、レイピアでその巨体を斬り伏せた。
「思ったより、危なくないですね」
カイルが、警戒を解かずに呟いた。
「気配で分かる分、奇襲にはならない」
リオネルも、頷きながら答えた。
本来なら、待ち伏せこそが最大の脅威となる相手だ。だが、事前に動きが読めていれば、これほど御しやすい敵もない。群れで押し寄せてくることもなく、前後から一体ずつ現れるフロッグを、マルタとリオネルがそれぞれの持ち場で危なげなく退けていった。
「三体目です」
カイルが、矢筒の残りを確かめながら呟く。
「まだ、余裕はあるな」
リオネルの言葉に、三人が頷いた。
何度かの遭遇を乗り越えながら、四人は沼のさらに奥へと進んでいった。
次第に、水位が深くなっていく。膝、腰と、水嵩が増すにつれ、足取りも重くなっていった。視界も悪くなり、濁った水面の下は、もはや何も見通せない。
「フィーナ、この先は」
リオネルの問いに、フィーナは水面へ意識を集中させた。
だが、しばらくして、これまでとは違う、緊張した面持ちで顔を上げた。
「……何か、いますけど。今までのフロッグとは、違う感じです」
「違う、というと」
「もっと、大きくて……重い気配、というか」
フィーナの声には、明らかな警戒が滲んでいた。
カイルも、同じ気配を察したのか、無言のまま弓を握り直す。
「俺も、なんとなく分かります。今までのとは、桁が違う感じの」
濁った沼の奥、視界の届かない先に、何かが潜んでいる。
その気配だけで、これまでとは格の違う何かがいることを、四人は確信していた。
「油断するな」
リオネルの言葉に、三人は頷き、慎重に、その気配の方角へと歩を進めていった。




