谷の底の敵(前篇)
布陣が整うと、リオネルは静かに合図を出した。
「始めるぞ」
その一言に、四十人あまりの気配が、一斉に張り詰めた。武器を握る手に、無言のまま力がこもる。
マルタが、一歩前へ出た。
「加護を」
両手を掲げると、淡い光が、隊列全体を包み込んでいく。
これまでとは、明らかに規模が違った。四人だけの遠征では感じたことのない、途方もない範囲の輝きだった。光は、一人一人の肌の上を撫でるように広がり、じんわりとした熱と共に染み込んでいく。
「これが……一人で?」
剣士陣の一人が、思わず声を漏らす。
「馬鹿な、こんな人数に一斉にって……」
驚きのざわめきが広がる中、マルタ本人は、涼しい顔でそれを見届けていた。手首の腕輪が、淡く発光を続けている。倉庫の奥で埃をかぶっていた神具が、今、確かにその役目を果たしていた。
「終わりました。皆さん、力の入り具合を確かめてみてください」
その言葉に、狩人の一人が試しに矢を引き絞ると、いつもより明らかに軽い手応えに、目を丸くした。
*
「フィーナ、頼む」
リオネルの声に、フィーナが両手を地面へ向けた。
「お願い」
地響きと共に、土の壁が谷の入り口に立ち上がっていく。人の背丈の倍近い高さまで、瞬く間に盛り上がった土壁は、オークたちの視界を遮り、こちらの動きを隠すには十分だった。息一つ乱すことなく、フィーナはその場に立っていた。
「カイル、狩人陣!」
「はい!」
カイルが真っ先に矢をつがえ、壁の裂け目から狙いをつける。他の狩人たちも、それに続いた。
次々と放たれる矢が、壁の向こうの群れへ突き刺さる。悲鳴と怒声が谷にこだまし、それまで静かに佇んでいたオークたちが、ようやくこちらの存在に気づいたように暴れ始めた。
だが、統率された反撃ではない。壁に阻まれ、思うように迫れないオークたちは、苛立たしげに、壁の両脇へと回り込もうとし始めた。
「来るぞ、抑えろ!」
剣士陣が、左右に展開して立ちはだかる。盾を構え、押し寄せる巨体を正面から受け止める。
「押されるな、踏ん張れ!」
悲鳴のような怒号が飛び交う中、それでも隊列は崩れなかった。腕を突き上げられ、後方へよろめく者もいたが、すぐさま隣の者が肩を支え、隙間を埋める。ここまでの数日で積み上げてきた連携が、確かな支えになっていた。
*
矢の雨と、押し寄せるオークたち。膠着状態が、しばらく続いた。
汗と土埃、獣の唸り声が、谷全体に満ちていく。
「フィーナ、いけるか」
リオネルが、声を張った。
フィーナは、まだ落ち着いた様子で、風の流れに意識を集中させていた。谷を吹き抜ける強い風が、まるで手招きするように、彼女の周囲でうねっている。
初めて試す力だった。本当に発動するのか、期待通りの威力になるのか――不安がないと言えば、嘘になる。
それでも、今引かなければ、この一週間の学びは、ただの知識のままで終わってしまう。
「――お願いします」
両手を大きく広げると、周囲の空気が一変した。
渦を巻いた風が、見えない刃となって群れの中心へと殺到する。
絶叫が、いくつも重なった。壁際で怯んでいたオークたちが、一斉に体勢を崩す。皮膚を裂かれ、うずくまる個体、体勢を保てず倒れ込む個体――谷全体に、動揺が広がっていく。
放った直後、フィーナは小さく息を弾ませた。
これまでの精霊への頼み方とは、明らかに違う消費だった。初めて使う力の重さを、身体の芯で感じている。それでも、まだ立っていられないほどではない。
「大丈夫か」
「はい……ちょっと、疲れましたけど。まだ、動けます」
フィーナは、そう答えながら、しっかりと自分の足で踏ん張っていた。
「効いてる……!」
カイルが、思わず声を上げた。
「今だ!」
リオネルが、叫んだ。
温存していた五人――マルタと、選び抜かれた狩人・剣士たちが、一斉に身構える。
「マルタ、重ねがけを!」
「はい!」
マルタが、五人だけに向けて、さらに強い光を放つ。力と速さが、これまでとは比較にならないほど研ぎ澄まされていくのが、傍で見ていても分かった。選ばれた者たちの表情に、緊張と共に、確かな高揚が浮かぶ。
*
だが、そこでリオネルは、はっとした。
突入路の正面――フィーナが張った土の壁が、そのまま残っている。
弓撃と防御のために築いた壁が、今度は自分たちの行く手を阻む障害物になっていた。
「フィーナ! 壁を、一部だけ解いてくれ!」
「え、あ……はい!」
まだ息の整わないフィーナが、はっと我に返り、慌てて壁へ手をかざす。
「開いて!」
叫ぶような声と共に、壁の中央に、人が数人通れるだけの裂け目が生まれた。土埃が舞い、視界が一瞬霞む。
全体を崩すほどの力は、まだ残っていなかった。それでも、必要な分だけを正確に切り開く――その細やかな制御に、フィーナ自身、驚くほどの集中力を振り絞っていた。
「行け!」
リオネルの号令と共に、マルタたちが、その裂け目へ向かって一斉に駆け出した。




