神殿にて
王都カレスタの大神殿は、記憶にあるままの姿で、静かに佇んでいた。
石造りの回廊、蝋燭の匂い、ステンドグラスから差し込む淡い光。マルタにとっては、生まれ育った場所と言ってもいい建物だった。
*
礼拝堂の奥、執務室でマルタを迎えたのは、エルンスト神殿長だった。
「マルタ、無事だったか」
その第一声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
立ち上がり、両手でマルタの肩を軽く掴む。
「手紙で、悪代官との一件を聞いた時は、生きた心地がしなかった。まさか、代官の手先が人を丸ごと転移させる魔道具まで使っていたとは」
「ご心配をおかけしました」
マルタは深く頭を下げた。
エルンストは、椅子に座り直すよう促してから、あらためて向き合った。
「詳しく、聞かせてくれるか」
マルタは、これまでの経緯を、順を追って話した。
村々に加護を授け、疲弊した人々を支えたこと。アンデッドの群れと対峙し、メイスを振るって幾体も打ち払ったこと。彷徨う魂を鎮め、この地に留まっていた人魂の因縁を解いたこと。そして今回、ダンジョンの奥で、隠された企みを暴く一助となったこと。
エルンストは、時折目を潤ませながら、その一つ一つに耳を傾けていた。
「治癒魔法が使えないと分かった時、お前がどれほど自分を責めていたか、私は覚えている」
静かな声だった。
「聖職者として、人を治せないことに、ずっと引け目を感じていたな」
「はい」
「それでも、人のために、信仰のために、お前の力を使い続けてきた。それが今、こうして実を結んだと聞いて――正直、安堵している」
その言葉には、フィーナが校長から受けたものとは、少し違う響きがあった。才を喜ぶというより、長らく案じていた者が、ようやく肩の荷を下ろしたような、そんな安堵だった。
「私は……役に立てていたんでしょうか」
マルタが、控えめに尋ねた。
「役に立てていたどころではない。人を助け、悪を暴く一翼を担った。それ以上に、何を望むというのだ」
*
話が一区切りついたところで、マルタは少し迷いながら、もう一つの件を切り出した。
「実は……お聞きしたいことがあります」
「なんだ」
「内務卿様に報告した際、視線が、少し気になりました。話の中身よりも、私たちの様子そのものを、探るように見られていたような」
マルタは、感情を読み取る自らの力を頼りに、その違和感を言葉にしようと試みた。
「まるで、他の情報と、私たちの言うことのどちらが正しいか、見極めようとしているような……そんな気配でした。うまく言えないんですが」
エルンストは、腕を組み、しばらく黙り込んだ。
「お前がそう感じたなら、おそらく間違いではないだろう。人の気配を読む力は、伊達ではない」
「宮廷では、よくあることなんでしょうか」
「無いとは言えん。ただの査定であれば、そこまで探るような目にはならないはずだ」
その言葉に、マルタの中の違和感が、少しだけ輪郭を持った。
「もし、何か掴めることがあれば、教えていただけますか」
「もちろんだ。神殿には神殿なりの繋がりがある。気にかけておこう」
*
もう一つ、マルタには伝えておきたいことがあった。
「それから、禁忌キノコのことです」
「――ああ、手紙にもあったな」
「王都には、幸いまだ入ってきていないようです。ですが、私たちの領地では、確かに問題になり始めていました」
マルタは、密売の経緯と、それに悪代官が加担していたことを、あらためて簡潔に伝えた。
「辺境の方から、ゆっくりと広がってきているのかもしれません。もし、王都でも似たような噂を耳にすることがあれば……」
「分かった。神殿を通じて集まる話は、思いのほか多い。何か聞けば、すぐに知らせよう」
エルンストは、真剣な面持ちで頷いた。
「気が立っている土地から、こうした話が広がるのは、珍しいことではない。お前たちが早くに気づけたのは、幸いだったと言うべきだろう」
「ありがとうございます」
マルタは、肩の力が少し抜けるのを感じた。
*
「一つ、お前に授けたいものがある」
話が落ち着いたところで、エルンストは静かに立ち上がった。
執務室の奥、施錠された棚から、古びた木箱を取り出す。
中には、簡素な意匠の腕輪が納められていた。
「これは、加護の効果を高める神具だ」
「加護を……」
「神殿に伝わる神具の多くは、治癒の効果を高めるものばかりだ。誰もが、傷を癒す力を求める。だからこそ、加護そのものを高める神具は、長らく倉庫の奥で埃をかぶっていた」
エルンストは、腕輪をマルタの前に差し出した。
「だが、お前になら、これがふさわしい」
マルタは、その腕輪を、しばらくの間、じっと見つめていた。
「これは、聖職者として一人前と認められた者にだけ授けられるものだ」
「私が……一人前、ですか」
「ああ。長年、聖職者として何が『一人前』かを、私自身も見誤っていたのかもしれん」
エルンストは、静かに笑った。
「治せることだけが、聖職者の価値ではない。守り、支え、鎮める力もまた、同じだけ尊いのだと、お前が教えてくれた」
マルタは、震える手で腕輪を受け取った。
「ありがとう、ございます」
声が、わずかに掠れた。
*
執務室を出て、回廊を歩きながら、マルタは手首に嵌めた腕輪に、そっと触れた。
治癒魔法が使えないと知った日、自分には価値がないと思い込んでいた時期があった。それでも、諦めずに続けてきたことが、こうして形になって返ってくるとは、想像もしていなかった。
礼拝堂の窓から差し込む光が、腕輪に反射して、小さく煌めいた。
内務卿の視線のこと、禁忌キノコの噂のこと――どちらも、まだ確かなことは分からない。だが、神殿という場所に、耳を傾けてくれる相手がいることは、心強かった。
王都に留まる一週間、マルタは久しぶりに、神殿の奉仕を手伝いながら過ごすことにした。
城からの呼び出しを、静かに待つ日々が始まった。




