森の声
ワイルドボアが体勢を立て直し、
再びリオネルへ向かって踏み出そうとした、
その時だった。
馬車の中から、か細い声が聞こえた気がした。
何を言っているのかまでは分からない。
だが、次の瞬間、地面が動いた。
街道脇の草が、まるで意志を持ったように一斉に伸び上がる。
絡みつく蔓が、ワイルドボアの四肢に巻きついた。
「――ッ、グ、ガアッ」
巨体が体勢を崩し、突進の勢いが止まる。
その隙を、カイルが見逃すはずもなかった。
「もらった」
三の矢が放たれる。
狙いは首筋、先ほどより高く、正確な位置。
矢は深く突き刺さり、
ワイルドボアが苦悶の声を上げてのけぞった。
リオネルは、しびれの残る腕に力を込め直した。
足場を踏みしめ、体勢を低くする。
ひるんだ今しかない。
踏み込んだ勢いのまま、剣を横に薙いだ。
手応えがあった。
巨体が、ゆっくりと地に沈んでいく。
蔓に絡めとられたまま、ワイルドボアは動かなくなった。
*
「……終わった、か」
カイルが息を吐きながら弓を下げた。
リオネルも剣を鞘へ収め、周囲を見回す。
横倒しになりかけていた馬車は、
なんとか持ちこたえていた。
御者が青ざめた顔で座り込んでいる。
「大丈夫か」
「は、はい……なんとか」
その時馬車の扉が内側から押し開けられる。
中から降りてきたのは、若い女だった。
旅装束に、背中まで届く長い髪。
手には、まだ何かを握りしめている。
「よかったぁ……助けられた……」
声を震わせながら、その場にへたり込みそうになる。
リオネルは剣を完全に鞘へ収めてから彼女に近づいた。
「怪我は」
「あ、ないです。大丈夫、です」
女はまだ動揺した様子だったが、
リオネルの姿を見て、少し落ち着きを取り戻したようだった。
「今のは、何という魔法だ?」
リオネルが尋ねると、女は目を瞬かせた。
「分かりません」
「分からない?」
「魔法陣も描いてません。古代語も唱えてません。
だから、魔法じゃないはずなんです」
女はまだ地面に絡みついている草を見た。
「でも、森がざわざわしていて……
助けてあげられそうな気がしたから」
「それで?」
「木や草に助けてあげて、って言いました。
それだけです」
リオネルはしばらく黙って、
絡みついたままの蔓を見つめた。
魔法陣もなく、詠唱もない。
それでいて、確かに現象は起きている。
彼女が知る術式のどれにも当てはまらないというのは、
本人にとっても不可解なことのようだった。
「申し遅れました。フィーナ・エルセです」
フィーナは居住まいを正し、頭を下げた。
「王都の魔法学校から、グレイン領へ派遣されてきました」
「魔法学校から、こんな辺境へ?」
カイルが横から口を挟む。
フィーナは少し気まずそうに視線を落とした。
「学校では、魔法陣がうまく描けなくて……
古代語の詠唱も、何度も失敗して。
このままだと、退学になるところだったんです」
「それで」
「実務経験を積んでこい、と言われました……
放校にならずに奉公先が見つかってラッキーでした。」
左遷をあっけらかんと語る口調に、
カイルとリオネルは、思わず顔を見合わせた。
「派遣先は」
「グレイン領ペルネの領主館です。
推薦状も持っています」
その言葉に、リオネルは束の間、言葉を選んだ。
「――私が、その領主だ。リオネル・アーヴェント」
フィーナが固まった。
「え」
「先日着任したばかりだ。
まだ館の名簿も、すべて把握しきれていないが」
「え、え……」
フィーナは自分が助けた相手を、改めてまじまじと見つめた。
「わたし、領主様の手助けができたんですね。
着任前に。やっぱりラッキーですね!」
「そういうことになるな」
「着任早々、妙な人材ばかり集まりますね」
カイルが弓を担ぎ直しながら、面白そうに言った。
「マッパー、ハンター、それから正体不明の魔法使い」
「魔法使いって……さっきのはなんだろう?」
フィーナが慌てて何か言おうとするのを、
リオネルは手で制した。
「今のは、魔法ではないかもしれない。
だが、確かに何かが起きた。
それは軽く扱っていい話じゃない」
地面に残る蔓の跡を見つめながら、リオネルは続けた。
「詳しい事情と、その力について、
館で改めて聞かせてもらいたい」
「は、はい……」
フィーナは戸惑いながらも頷いた。
御者に馬車の様子を確認させ、
しばらく休ませてから出立させる手はずを整える。
三人は並んで、ベルネへの道を戻り始めた。
街道の向こうに、館の屋根が小さく見えている。
「地図には、今日のことも書き足しておかないとな」
リオネルが呟くと、カイルが小さく笑った。
「本当に、忙しい領地ですね」




