第8話 私のサロン
十月に入ると、朝の空気ははっきりと変わった。
サロンへ向かう道の風は少し冷たく、開店前に窓を開けると、夏の終わりにはなかった乾いた匂いが入り込んでくる。
店の中の光も、どこか澄んで見えた。
未沙のロンドン行きが決まってから、店の中では少しずつ引き継ぎが始まっていた。
表立って何かが大きく変わるわけではない。
けれど、予約の組み方、スタッフへの共有、細かな判断の置き方。
今まで未沙が自然に引き受けていたものが、少しずつ美咲の前に置かれるようになっていた。
最初のうちは、そのたびに胸の奥がざわついた。
任されることはうれしい。
信頼されているのだとも思う。
でも同時に、それは責任を引き受けることでもあった。
自分の判断で決めるということは、うまくいったときだけではなく、もし何かがずれたときにも、自分で受け止めるということだ。
その重さに、美咲はまだ慣れていなかった。
ある朝、開店前のミーティングで、佐倉が少し困ったような顔をした。
「来週の金曜なんですけど」
「うん」
「午後の予約、ちょっと詰まりすぎてるかもしれません」
差し出された予約表を見て、美咲は眉を寄せた。
確かに、人気の高い時間帯に指名予約が重なっていた。
しかもその日は、機械のメンテナンス予定が入っていて、一部の施術室がいつも通りには使えない。
このままでも回せないことはない。
けれど、少しでも押せば、後ろの予約に影響が出る。
スタッフの動きにも無理が出るだろう。
「未沙さんなら、どうしますかね」
佐倉がそう言ってから、はっとしたように口をつぐんだ。
悪気がないのはわかっていた。
ただ、その名前が出るだけで、美咲の胸の奥にはまだ小さな緊張が走る。
予約表を見つめながら、美咲は考えた。
未沙ならどうするか。
その問いは、もう反射のように浮かぶ。
けれど次の瞬間、美咲は静かに息をついた。
違う。
今、考えるべきなのはそこじゃない。
未沙のやり方を知ることは大事だ。
でも、同じようにやることだけが正解ではない。
今この場で、今日のスタッフの動きと、お客様の流れと、この店の空気を見て決めるのは、自分だ。
「……少し組み直そうか」
美咲は予約表に指を置いた。
「この時間の新規の枠、一つ閉じよう」
「えっ」
「その代わり、既存のお客様の施術時間に余裕を持たせたい」
佐倉が目を丸くする。
「でも、売上は……」
「少し落ちると思う」
美咲はうなずいた。
「でも、無理に詰めて全体が雑になるほうが嫌だなって思う」
「……」
「来てくださった人に、ちゃんと落ち着いて過ごしてもらいたいし、スタッフも焦ったまま回したくない」
言いながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
怖くないわけではない。
売上のことが頭をよぎらないわけでもない。
でも、それ以上に守りたいものが、はっきり見えていた。
佐倉は少し考えてから、ゆっくりうなずいた。
「わかりました」
「ごめんね、調整お願いしてもいい?」
「はい。やってみます」
その日の午後、美咲は未沙にその判断を伝えた。
未沙は予約表を見て、少しだけ目を細める。
「新規枠、閉じたんだ」
「はい」
「理由は?」
「詰めすぎると、たぶん全体が慌ただしくなるので」
美咲は言葉を選びながら続けた。
「売上だけ見たら、入れたほうがいいのかもしれないですけど……でも、この店って、そういう回し方じゃない気がして」
未沙は黙って聞いていた。
その沈黙に、美咲は少しだけ緊張する。
「うん」
やがて未沙は小さくうなずいた。
「いいと思う」
その一言に、美咲は思わず顔を上げた。
「ほんとですか」
「うん」
未沙は予約表を閉じる。
「売上を取る判断ももちろんあるけど、空気を守る判断もあるから」
「……はい」
「美咲ちゃんは、そっちを選んだんだね」
その言い方に、責める響きはなかった。
ただ、選んだことそのものを受け止めてくれているようだった。
来週の金曜日は、結果として静かにうまく回った。
予約の数だけ見れば、いつもより少し余裕があった。
けれどそのぶん、スタッフの動きには無理がなく、お客様を待たせる時間もほとんど出なかった。
施術後の空気も慌ただしくならず、店全体が落ち着いていた。
会計のとき、長く通っているお客様がふと笑って言った。
「今日、なんだかいつもよりゆっくりできた気がします」
「ありがとうございます」
「こういう感じ、好きです」
その言葉は短かったけれど、美咲の胸の奥に静かに残った。
営業後、片づけをしながら佐倉が言う。
「今日、すごくやりやすかったです」
「ほんと?」
「はい。焦らないで動けたので、お客様にもちゃんと目が向けられた気がします」
「そっか」
「最初は、枠を閉じるのもったいないかなって思ったんですけど……でも、終わってみたら、こっちのほうがよかったかもしれないです」
美咲は小さく笑った。
その言葉に、胸の奥のどこかが少しだけほどける。
自分の判断で決めたことが、ちゃんとこの場所に馴染んだ。
大きな成功というほどではないのかもしれない。
でも、確かにひとつ、自分で選んで、自分で支えた感覚があった。
その数日後、美咲はもうひとつ、小さな提案をした。
待合の棚に置いていた季節のお茶を、施術後にも選べるようにしたいとスタッフに話したのだ。
「今まではお待ちいただく間だけでしたけど、終わったあとにも少し余韻があるといいなと思って」
「いいですね」
佐倉がすぐに笑う。
「お客様、喜びそうです」
「そんなに大きなことじゃないんだけどね」
「でも、美咲さんっぽいです」
「え?」
「なんていうか……やわらかいです」
その言葉に、美咲は少し照れたように笑った。
未沙なら、もっと別の整え方をしたかもしれない。
もっと洗練された方法があったかもしれない。
でも、美咲は美咲なりに、この場所に合うものを考えていた。
大きく変えるのではなく、ここに流れている空気を守りながら、少しだけ温度を足していく。
それは派手ではないけれど、確かに自分の選び方だった。
数日後、施術を終えたお客様が、湯気の立つカップを手にしてほっと息をついた。
「こういうの、うれしいですね」
「ありがとうございます」
「帰る前に少し落ち着ける感じがして」
「そう言っていただけてよかったです」
その様子を見ながら、美咲は胸の奥でそっと息をついた。
自分のしたことが、ちゃんと誰かの時間に届いている。
それが、思っていた以上にうれしかった。
未沙のやり方を守ることは、もう美咲の中で土台になっていた。
この店が大切にしてきたもの。
お客様に渡してきた空気。
スタッフが安心して立てる流れ。
それらを壊さないことは、これからもきっと変わらない。
でも、その上に何を重ねていくかは、自分で選んでいいのかもしれない。
守ることと、真似ることは違う。
受け継ぐことと、同じ形でいることも違う。
その違いが、ようやく少しずつわかり始めていた。
営業後、未沙がレジ締めをしながら言った。
「最近、店の空気が少し変わったね」
美咲は顔を上げる。
「変わりましたか?」
「うん」
未沙は小さく笑った。
「悪い意味じゃなくて」
「……どんなふうにですか」
「少しやわらかくなった気がする」
その言葉に、美咲は目を瞬いた。
「美咲ちゃんの空気かもね」
あまりにも自然に言われて、返事がすぐにできなかった。
自分の色、なんて、まだそんなものがあるとは思っていなかった。
未沙の代わりになれるかどうかばかり考えてきたから、自分が何を足しているのかなんて、ちゃんと見たことがなかった。
「そんなの、まだ全然……」
「全然じゃないよ」
未沙はレジを閉めて、美咲を見る。
「もう出てる」
「……」
「守ろうとしてるのは同じでも、出し方は人によって違うから」
その言葉に、美咲は静かに息をのんだ。
守ることの先に、自分のやり方がある。
ただ引き継ぐだけではなく、自分の手で育てていく段階がある。
そのことを、美咲はようやく実感し始めていた。
帰り際、店内を見渡す。
整えられた椅子、静かな照明、棚に並ぶカップ、やわらかく残る香り。
見慣れたはずの景色が、少しだけ違って見えた。
ここは未沙が作ってきた場所だ。
そのことは変わらない。
でも同時に、これから自分が関わっていく場所でもある。
守るだけじゃない。
育てていく。
その感覚が胸の中に落ちたとき、美咲はふと、言葉にしないまま思った。
――私も、このサロンを作っていく一人になっていくのかもしれない。
まだそんなふうに言い切れるほどではない。
けれど、そう願ってもいいくらいには、この場所に自分の手の跡が残り始めていた。
夜の空気は冷たく、けれど澄んでいた。
店の扉を閉めたあと、美咲は小さく息を吐く。
不安がなくなったわけではない。
これから先、迷うこともきっとある。
それでも、自分の判断で選び、自分のやり方で支えたものが、ちゃんと誰かに届くのだと知った。
その確かさは、思っていたよりずっとあたたかかった。




