第9話 旅立ちの前
十二月に入ると、空気はさらに澄み、朝の冷たさが指先に残るようになった。
サロンへ向かう道すがら、美咲はマフラーに顔を少し埋めながら歩く。
歩道の端には落ち葉が寄せられ、吐く息は白くほどけていく。
店の前に立つと、ガラス越しの灯りが冬の朝にやわらかくにじんで見えた。
未沙の出発まで、あと一か月と少しだった。
その事実は、誰かが改めて口にしなくても、店の中のあちこちに静かに滲んでいた。
引き継ぎの確認は以前より細かくなり、予約表の見方ひとつにも、これまでとは違う意識が混じる。
スタッフたちも表向きはいつも通りに働いていたが、ときどきふとした沈黙の中に、言葉にならない落ち着かなさが見えた。
未沙自身は、相変わらず大きく騒がなかった。
必要なことを整理し、伝えるべきことを伝え、いつも通り店に立つ。
その変わらなさがかえって、近づいている別れを現実のものとして感じさせた。
美咲はこの頃、以前よりも自然に店全体を見るようになっていた。
予約の流れ、スタッフの表情、お客様の滞在の空気。
どこか一か所ではなく、全体の呼吸を感じながら動くことが増えていた。
未沙がいなくなったあとも、この場所が変わらず息をしていけるように。
そんな思いが、もう特別に意識しなくても体の中に馴染み始めていた。
ある日の営業後、未沙がバックヤードでファイルを整理していた。
棚の上には、顧客管理のメモ、業者とのやり取りの記録、細かな備品発注の一覧が並んでいる。
どれも派手ではない。
けれど、店を回していくためには欠かせないものばかりだった。
「こんなにあるんですね」
美咲が思わず言うと、未沙は少し笑った。
「あると思う」
「もっと、なんとなく回ってるのかと思ってました」
「なんとなく回ってるように見えるようにしてるだけ」
その言い方が未沙らしくて、美咲も少し笑った。
ファイルを一冊受け取りながら、美咲はページをめくる。
細かな注意点が、簡潔な字で整然と書かれていた。
誰が見てもわかるように、でも余計な言葉はなく。
その書き方にも、未沙の性格が出ている気がした。
「ここまで準備してても、不安はありますか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
未沙は少しだけ手を止めた。
けれど、考え込むような間は長くなかった。
「あると思う」
「……ありますよね」
「うん」
未沙はファイルを閉じる。
「でも、不安があるからこそ、準備するんだと思う」
その声は静かだった。
「大丈夫だと思っているときほど、抜けることもあるし」
「……」
「不安があることは、悪いことばかりじゃないよ」
美咲は小さくうなずいた。
その言葉は、今の自分にもそのまま返ってくる気がした。
不安があるからこそ、確認する。
不安があるからこそ、丁寧に見る。
そうやって支えられることもあるのだと、少しずつわかってきていた。
店の中では、スタッフたちもそれぞれの形で未沙の不在に備え始めていた。
佐倉は以前より積極的に確認を取るようになり、新人スタッフも自分からメモを取ることが増えた。
誰も大げさなことは言わない。
けれど、変わろうとしている空気を、それぞれがちゃんと受け止めているのがわかった。
ある日、昼の予約がひと段落したあと、佐倉がぽつりと言った。
「未沙さん、ほんとに行っちゃうんですね」
その声は独り言のようでもあり、確認するようでもあった。
「うん」
美咲はカップを片づけながら答える。
「もうすぐだね」
「なんか、まだ実感なくて」
「私も」
そう言うと、佐倉は少しだけ笑った。
「でも、美咲さんがいるから、たぶん大丈夫ですよね」
その言葉に、美咲は手を止めた。
前なら、すぐに否定していたかもしれない。
そんなふうに言われるほどではないと、反射的に思っただろう。
けれど今は、ただ曖昧に笑って終わらせるのではなく、その言葉を静かに受け取ってみようと思えた。
「大丈夫にしたいね」
そう返すと、佐倉はうれしそうにうなずいた。
出発の一週間前、店では未沙がスタッフ一人ひとりと短く話す時間を取った。
大げさな場ではない。
営業の合間や、片づけの途中に、必要なことを確認しながら少しだけ言葉を交わす。
その自然さが、かえって胸に残った。
佐倉と話したのは、夕方の予約が落ち着いたころだった。
タオルを畳んでいた佐倉に、未沙が静かに声をかける。
「佐倉さん」
「はい」
「美咲ちゃんのこと、よろしくね」
佐倉はまっすぐにうなずいた。
「はい。もちろん、私もお店を支えます」
未沙はそれだけで、小さく笑った。
そのやり取りを少し離れたところで聞いていた美咲は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
自分のいないところで交わされていたとしてもおかしくない言葉を、こうして耳にしてしまったことに、少しだけ戸惑う。
けれど同時に、未沙が自分だけではなく、店そのものをちゃんと人に託そうとしていることが伝わってきた。
託すことは、手放すこととは少し違うのかもしれない。
残る人を信じること。
その信頼の中に、自分も含まれているのだと思うと、胸の奥に小さな責任とあたたかさが同時に灯った。
その日の帰り、美咲はふと、未沙の家のことを考えた。
店の準備は目に見える。
引き継ぎも、確認も、形にできる。
でも、暮らしのほうはどうなのだろう。
未沙がいなくなるあいだ、家の中の時間はどんなふうに変わるのだろう。
五条の顔が浮かぶ。
未沙を送り出す側の人でもある。
数日後、美咲が店を出るころ、未沙はまだバックヤードで片づけをしていた。
その日は五条が迎えに来ることになっていて、美咲は先に店の前で待つことにした。
しばらくして、五条が静かに姿を見せる。
「すみません、お待たせして」
「いや」
五条はいつもの落ち着いた調子で言う。
「未沙は?」
「もう少しかかりそうです」
「そっか」
短いやり取りのあと、冬の空気の中に少しだけ間が落ちた。
気まずいわけではない。
けれど、何も言わずにいるには、互いに少しだけ相手のことを知りすぎているような沈黙だった。
美咲は少し迷ってから口を開く。
「……準備、大変じゃないですか」
「準備?」
「未沙さん、もうすぐなので」
五条は一瞬だけ目を細めた。
その表情は驚いたというより、何を指しているのかを静かに測るようだった。
「ああ」
それから、短く息をつくように笑う。
「まあ、それなりに」
「ですよね」
「向こうで必要なものを揃えたり、こっちで片づけたり」
「……」
「でも、そういうのをやってるほうが、たぶんいいんだろうね」
美咲は顔を上げた。
「いい、ですか」
「考えすぎなくて済むから」
五条は淡々と言う。
「何かしてるほうが、落ち着くこともある」
その言葉に、美咲は小さくうなずいた。
わかる気がした。
別れが近づくとき、人は気持ちを整理しきれないまま、それでも日常を動かしていかなければならない。
だからこそ、手を動かす。
確認する。
整える。
そうやって、言葉にならないものを支えているのかもしれない。
「美咲ちゃんも、店のこといろいろやってるんでしょ」
不意にそう言われて、美咲は少し驚いた。
「……はい」
「未沙、助かってると思うよ」
「そうだといいんですけど」
「そうじゃなきゃ任せないよ」
その言い方は、以前と変わらず静かだった。
けれど今の美咲には、その静けさの中にある確かさが前よりもよくわかった。
「ありがとうございます」
「うん」
五条はそれ以上多くを言わなかった。
けれど、その短いやり取りだけで、少し肩の力が抜ける。
「家のほうは、五条さんが支えてるんですね」
ついそう言うと、五条は少しだけ困ったように笑った。
「支えてるっていうほどでもないよ」
「でも」
「向こうが動きやすいようにしてるだけ」
その言葉に、美咲はふと、未沙のことを思った。
必要なことだけ言って、あとは相手に任せる。
前に聞いた言葉が、静かに重なる。
「……やっぱり、似てますね」
「何が?」
「そういうところです」
五条は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「どうだろうね」
その曖昧さが、かえって本当らしかった。
家でも、未沙の出発に向けた準備は少しずつ進んでいた。
大きなスーツケースが部屋の隅に置かれ、必要な書類や衣類が少しずつまとめられていく。
洗面所の棚、キッチンの引き出し、クローゼットの中。
未沙が日々使っていたものの配置が、少しずつ変わっていく。
ある夜、未沙はリビングで書類を広げ、五条はその横で黙ってパソコンを開いていた。
会話は多くない。
けれど、静かな部屋の中には気まずさではなく、互いの気配を確かめ合うような落ち着きがあった。
「変圧器、こっちで買うより向こうのほうがいいかも」
五条が画面を見たまま言う。
「そう?」
「電圧のこと考えると、そのほうが無難そう」
「じゃあ、最低限だけ持っていこうかな」
「それでいいと思う」
必要なことだけをやり取りする声は、いつも通りだった。
でも、そのいつも通りの中に、言葉にしないやさしさがあった。
寂しいとか、不安だとか、そういうことをわざわざ口にしなくても、相手が少しでも動きやすいように整える。
別れの前には、そういう支え方もあるのだと、二人はたぶんよく知っていた。
美咲の番は、営業後の静かな時間だった。
最後のタオルを畳み終えたころ、未沙が言う。
「少しだけいい?」
「はい」
バックヤードの椅子に腰かけると、未沙は少しだけ考えるように視線を落とした。
けれど、話し始める声はいつも通り落ち着いていた。
「ここまで、ありがとう」
「いえ」
「たぶん、美咲ちゃんが思ってる以上に助かってた」
その言葉に、美咲は息を止める。
「最初は、私がいなくなったあとを考えるだけで怖かったと思う」
「……はい」
「でも、ちゃんと残って見てくれてるの、わかってたから」
喉の奥が少し熱くなる。
美咲は視線を落としたまま、小さくうなずいた。
「まだ不安はあります」
「うん」
「たぶん、行かれる直前まであると思います」
「そうかもしれないね」
未沙はやわらかく言った。
「なくならなくても、大丈夫」
「え?」
「不安があるから、ちゃんと見ようとするでしょう」
「……」
「それは悪いことじゃないから」
以前にも聞いた言葉だった。
けれど今、改めて未沙の口から聞くと、胸の奥への落ち方が少し違った。
「全部一人で背負わなくていいし」
未沙は続ける。
「困ったら、ちゃんと周りを使って」
「はい」
「美咲ちゃんは、抱え込みやすいから」
思わず苦笑すると、未沙も少し笑った。
「見抜かれてますね」
「ちゃんと見てるよ」
その一言が、静かにあたたかかった。
大きな励ましではない。
劇的な言葉でもない。
でも、だからこそ残るものがあった。
言葉より先に、もうずっと支えられていたのかもしれないと思う。
帰り際、店の灯りを落としながら、美咲は静かに息をついた。
未沙がいなくなる現実は、もうすぐそこまで来ている。
寂しさがないわけではない。
不安が消えたわけでもない。
それでも、ただ失うだけではないのだと思えた。
支えられてきた時間がある。
受け取ってきたものがある。
そして今は、自分もまた支える側に回り始めている。
別れの前には、たくさんの言葉が必要なのだと思っていた。
ちゃんと伝えなければいけないことが、もっとあるのだと思っていた。
けれど本当は、言葉になる前から、人はもう支え合っているのかもしれない。
予約表を整えること。
忘れ物を届けること。
必要な書類をまとめること。
相手が動きやすいように、少しだけ先回りしておくこと。
そういう小さなことの中にこそ、別れの前のやさしさは宿るのだろう。
外に出ると、夜の空気はひどく冷たかった。
けれど胸の奥には、不思議と静かなぬくもりが残っていた。
旅立ちは、まだ少し先だ。
それでももう、みんなそれぞれの場所で、その不在に備え始めている。
大きく何かを語らなくてもいい。
言葉より先に差し出される手がある。
そのことを知っているだけで、美咲は少しだけ強くなれる気がした。




