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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第1章 受け継がれる場所
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7/30

第7話 月に一度の客

 九月に入っても、昼間の空気にはまだ夏の名残があった。

 けれど朝晩の風は少しずつやわらかくなり、サロンの前の街路樹も、ほんのわずかに色を落ち着かせ始めている。


 ロンドン行きの話が出てから、店の中の時間は表向きには変わらず流れていた。

 予約はいつも通り入り、スタッフたちは持ち場で動き、お客様は静かな時間を求めて扉を開ける。

 未沙も変わらず店に立ち、施術に入り、スタッフに声をかけていた。

 けれど、その変わらなさの奥で、少しずつ何かが動き始めていることを、美咲は毎日の中で感じていた。


 未沙がいなくなるかもしれない、ではなく、いなくなる方向へ現実が進み始めている。

 その感覚は、日を追うごとに輪郭を持っていった。


 美咲もまた、少しずつ覚悟を固め始めていた。

 まだ完全に腹が決まったわけではない。

 怖さが消えたわけでもない。

 けれど、考えないふりをして元の場所に戻ることは、もうできなかった。


 朝の準備をしながらも、施術に入りながらも、ふとした瞬間に考える。

 未沙がいない店は、どんなふうに回るのだろう。

 スタッフは何を不安に思うだろう。

 自分はどこまで支えられるだろう。

 何を引き継ぎ、何を自分のやり方で整えていくべきなのだろう。


 考えれば考えるほど、胸の奥に重さが増していく。

 けれどその重さの正体は、もう前のような漠然とした不安だけではなかった。

 守りたいものがあるからこその重さだった。


 それでも、と美咲は思う。

 苦しいのは、誰かに比べられることではなかった。

 むしろ、周りは思っているほど比べていないのかもしれない。

 いちばん厳しく比べているのは、自分自身だった。


 未沙なら、もっと自然に場を整えられる。

 未沙なら、こんなとき迷わない。

 未沙なら、もっとやわらかく言える。

 未沙なら、スタッフの小さな揺れにも、もっと早く気づける。


 そんなふうに、何かあるたび心の中に未沙の姿が立ち上がる。

 比べてしまうたびに、自分の足りなさばかりが目についた。


 ある日の午後、新人スタッフが受付で小さなミスをした。

 大きな問題になるようなことではなかったが、本人はひどく焦っていて、顔色まで変えていた。

 美咲はすぐに横に立ち、落ち着いた声で順番を整え、必要な対応を一つずつ伝えた。

 その場はすぐに収まった。

 お客様にも不安を与えずに済んだ。


 けれど、終わったあとで美咲の胸に残ったのは安堵ではなく、別の感情だった。


 未沙なら、もっと早く気づけたかもしれない。

 もっと相手を緊張させない言い方ができたかもしれない。

 もっと自然に、何事もなかったみたいに整えられたかもしれない。


 そう思った瞬間、自分で自分に疲れる。

 できたことより、できなかったかもしれないことばかりを拾ってしまう。

 誰にも責められていないのに、自分の中だけで減点を重ねていく。


 営業後、片づけをしながら、佐倉がふと笑った。


「今日、美咲さんがいてくれて助かりました」

「え?」

「受付のときです。私、ちょっと固まっちゃって」

「ああ……」

「美咲さん、すごく落ち着いてました」

「そんなことないよ」

「ありましたよ。ああいうとき、いてくれるだけで全然違います」


 まっすぐに言われて、美咲は曖昧に笑うことしかできなかった。

 うれしくないわけではない。

 でも、その言葉をそのまま受け取ることが、まだうまくできない。

 自分の中では、もっとできたはずだという思いのほうが強かった。


 その数日後だった。

 月に一度の予約表を確認していた美咲は、見慣れた名前を見つけて手を止めた。


 五条。


 当日、五条はいつも通り時間ぴったりに現れた。

 落ち着いた足取りで受付に来て、軽く会釈をする。


「こんにちは」

「こんにちは。お待ちしていました」


 美咲が応じると、五条は一瞬だけ店内を見渡した。

 その視線はさりげないのに、どこか確かめるようでもあった。


「今日は少し静かだね」

「そうですね。午後は少し落ち着いてます」

「いい時間だ」


 それだけの会話なのに、不思議と間がもたつかない。

 五条はもともと多くを話す人ではないが、言葉が少ないぶん、ひとつひとつが妙に残る。


 施術は未沙が担当した。

 美咲はその間、別の持ち場に入りながらも、なぜか五条の存在が少し気になっていた。

 特別な理由があるわけではない。

 ただ、長くこの店を見てきた人の目に、今の自分たちはどう映っているのだろうと思ったのだ。


 施術が終わり、会計の時間になったころ、未沙は別のお客様の対応に入っていた。

 受付には美咲が立つ。


「ありがとうございました」

 伝票を整えながら言うと、五条は静かにうなずいた。


「未沙、行かせてもらうことにしたようだね」


 不意にそう言われて、美咲の手がわずかに止まる。


「……はい」

「ロンドン」

「はい」


 五条はそれ以上すぐには何も言わなかった。

 会計を済ませ、財布をしまってから、ふと美咲のほうを見る。


「苦労かけちゃいそうだね」

「え?」

「これから」


 その言い方は同情ではなかった。

 ただ事実を静かに置くような声だった。

 だからこそ、美咲は取り繕う余裕をなくした。


「……そうですね」

 少し迷ってから、美咲は小さく笑った。

「正直、まだあまり実感が追いついてなくて」

「そうだろうね」

「任せるって言われても、そんな簡単に切り替えられるものじゃないので」


 言ってから、少し話しすぎたかもしれないと思った。

 けれど五条は表情を変えず、ただ静かに聞いていた。


「未沙さんみたいには、できないですし」


 その一言は、思っていたよりも素直に口から出た。

 五条は少しだけ目を細めた。


「そうだろうね」

「……」

「美咲ちゃんが未沙になる必要はない」


 あまりにもあっさり言われて、美咲は一瞬、言葉を返せなかった。


「え……」

「未沙は未沙だよ」

 五条は落ち着いた声で続ける。

「美咲ちゃんは美咲ちゃんでいい」


 その言い方は、励ましめいていなかった。

 慰めようとしている感じもなかった。

 ただ、当たり前のことを当たり前に言っているだけのようだった。


 けれど、その当たり前が、美咲には思いのほか深く響いた。


「比べてしまうんです」

 気づけば、美咲はそう言っていた。

「周りに何か言われるっていうより、自分で……」

「うん」

「未沙さんなら、って思ってしまって」

「そうだろうね」


 五条は否定も肯定もしすぎず、ただ受け止めるようにうなずいた。


「でも」

 少し間を置いて、五条が言う。

「未沙、美咲ちゃんのこと信頼してるって言ってたよ」


 美咲は顔を上げた。


「……そう、ですか」

「うん」

「任せたいって」

「……」

「代わりがほしいからじゃないと思うよ」


 胸の奥が、静かに揺れる。

 未沙本人から言われた言葉とはまた違う重みがあった。

 第三者の口から聞くことで、かえってその信頼が現実のものとして迫ってくる。


「美咲ちゃんがここにいる意味、未沙はちゃんと見てると思う」


 その言葉に、美咲はすぐには返事ができなかった。

 喉の奥が少し熱くなる。

 自分では足りないところばかり見てしまう。

 けれど、未沙は違うところを見ていたのかもしれない。

 できていないことではなく、もう受け取ってきたものや、今ここで支えているものを。


 五条はそれ以上、踏み込んだことは言わなかった。

 余計な励ましも、きれいなまとめもない。

 ただ必要なことだけを置いていくような話し方だった。


「まあ」

 五条は最後に少しだけ口元をゆるめた。

「月に一度来る客としては、ちゃんと続いてくれると助かる」


 その言い方が少しだけ可笑しくて、美咲は思わず笑った。


「それは、がんばらないとですね」

「それは困るからね」

「そんなにですか」

「そんなに」


 ほんの短いやり取りだった。

 けれど、その軽さがありがたかった。

 重くなりすぎていた胸の内に、少しだけ風が通る。


 五条が帰ったあと、美咲は受付の前でしばらく立ち尽くしていた。

 店の中には夕方のやわらかな光が差し込み、整えられた空気が静かに満ちている。

 いつもの景色だった。

 けれど、さっきまでとは少しだけ見え方が違っていた。


 未沙になる必要はない。

 その言葉は、考えれば当たり前のことだった。

 けれど美咲は、知らないうちにずっと、自分の立つ場所を未沙の輪郭に重ねて測っていたのだと思う。

 同じようにできるか。

 同じように支えられるか。

 同じように安心を渡せるか。


 でも、本当に問われているのは、そこではないのかもしれない。


 未沙が積み重ねてきたものを受け取りながら、

 自分は自分として、この店にどう立つのか。

 誰かの形をなぞることではなく、自分の手で何を守っていくのか。


 それは簡単なことではない。

 比べてしまう気持ちが、明日から急になくなるわけでもないだろう。

 きっとまた迷うし、足りなさに目を向けてしまう日もある。

 それでも、比べることそのものから少しだけ自由になれる瞬間があるのなら、前に進める気がした。


 営業後、未沙が片づけをしながら何気なく言った。


「五条さん、何か言ってた?」


 美咲は少し迷ってから、小さくうなずいた。


「……少しだけ」


「そっか」


 未沙はそれ以上聞かなかった。


 聞けば話してくれることも、

 今はまだ言葉にしたくないことも、

 未沙にはわかっていた。


「五条さんらしいね」


「え?」


「必要なことだけ言って、あとは本人に任せるところ」


 美咲は少し笑った。


「未沙さんに似てますね」


 そう言うと、未沙は少し困ったように笑った。


「そうかな」


 帰り際、店の灯りを落としながら、美咲は静かに息をつく。

 誰かの代わりではなく、自分として立っていい。

 そのことを、まだ完全に信じきれたわけではない。

 けれど、そう思ってもいいのかもしれないと、今日は少しだけ思えた。


 夜の街は、昼間よりも少しだけ風が涼しかった。

 扉を閉めたあとも、美咲の胸の中には、五条の言葉が静かに残っていた。


 未沙になる必要はない。


 その一言は、何かを劇的に変える魔法ではない。

 けれど、強く握りしめすぎていたものを、ほんの少しだけゆるめてくれる言葉だった。


 自分で自分を追い詰めるのではなく、

 受け取ってきたものを抱えながら、

 自分の足で立つ。


 その始まりのようなものが、

 月に一度やってくる静かな客の言葉とともに、

 美咲の中にそっと置かれていた。


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