第7話 月に一度の客
九月に入っても、昼間の空気にはまだ夏の名残があった。
けれど朝晩の風は少しずつやわらかくなり、サロンの前の街路樹も、ほんのわずかに色を落ち着かせ始めている。
ロンドン行きの話が出てから、店の中の時間は表向きには変わらず流れていた。
予約はいつも通り入り、スタッフたちは持ち場で動き、お客様は静かな時間を求めて扉を開ける。
未沙も変わらず店に立ち、施術に入り、スタッフに声をかけていた。
けれど、その変わらなさの奥で、少しずつ何かが動き始めていることを、美咲は毎日の中で感じていた。
未沙がいなくなるかもしれない、ではなく、いなくなる方向へ現実が進み始めている。
その感覚は、日を追うごとに輪郭を持っていった。
美咲もまた、少しずつ覚悟を固め始めていた。
まだ完全に腹が決まったわけではない。
怖さが消えたわけでもない。
けれど、考えないふりをして元の場所に戻ることは、もうできなかった。
朝の準備をしながらも、施術に入りながらも、ふとした瞬間に考える。
未沙がいない店は、どんなふうに回るのだろう。
スタッフは何を不安に思うだろう。
自分はどこまで支えられるだろう。
何を引き継ぎ、何を自分のやり方で整えていくべきなのだろう。
考えれば考えるほど、胸の奥に重さが増していく。
けれどその重さの正体は、もう前のような漠然とした不安だけではなかった。
守りたいものがあるからこその重さだった。
それでも、と美咲は思う。
苦しいのは、誰かに比べられることではなかった。
むしろ、周りは思っているほど比べていないのかもしれない。
いちばん厳しく比べているのは、自分自身だった。
未沙なら、もっと自然に場を整えられる。
未沙なら、こんなとき迷わない。
未沙なら、もっとやわらかく言える。
未沙なら、スタッフの小さな揺れにも、もっと早く気づける。
そんなふうに、何かあるたび心の中に未沙の姿が立ち上がる。
比べてしまうたびに、自分の足りなさばかりが目についた。
ある日の午後、新人スタッフが受付で小さなミスをした。
大きな問題になるようなことではなかったが、本人はひどく焦っていて、顔色まで変えていた。
美咲はすぐに横に立ち、落ち着いた声で順番を整え、必要な対応を一つずつ伝えた。
その場はすぐに収まった。
お客様にも不安を与えずに済んだ。
けれど、終わったあとで美咲の胸に残ったのは安堵ではなく、別の感情だった。
未沙なら、もっと早く気づけたかもしれない。
もっと相手を緊張させない言い方ができたかもしれない。
もっと自然に、何事もなかったみたいに整えられたかもしれない。
そう思った瞬間、自分で自分に疲れる。
できたことより、できなかったかもしれないことばかりを拾ってしまう。
誰にも責められていないのに、自分の中だけで減点を重ねていく。
営業後、片づけをしながら、佐倉がふと笑った。
「今日、美咲さんがいてくれて助かりました」
「え?」
「受付のときです。私、ちょっと固まっちゃって」
「ああ……」
「美咲さん、すごく落ち着いてました」
「そんなことないよ」
「ありましたよ。ああいうとき、いてくれるだけで全然違います」
まっすぐに言われて、美咲は曖昧に笑うことしかできなかった。
うれしくないわけではない。
でも、その言葉をそのまま受け取ることが、まだうまくできない。
自分の中では、もっとできたはずだという思いのほうが強かった。
その数日後だった。
月に一度の予約表を確認していた美咲は、見慣れた名前を見つけて手を止めた。
五条。
当日、五条はいつも通り時間ぴったりに現れた。
落ち着いた足取りで受付に来て、軽く会釈をする。
「こんにちは」
「こんにちは。お待ちしていました」
美咲が応じると、五条は一瞬だけ店内を見渡した。
その視線はさりげないのに、どこか確かめるようでもあった。
「今日は少し静かだね」
「そうですね。午後は少し落ち着いてます」
「いい時間だ」
それだけの会話なのに、不思議と間がもたつかない。
五条はもともと多くを話す人ではないが、言葉が少ないぶん、ひとつひとつが妙に残る。
施術は未沙が担当した。
美咲はその間、別の持ち場に入りながらも、なぜか五条の存在が少し気になっていた。
特別な理由があるわけではない。
ただ、長くこの店を見てきた人の目に、今の自分たちはどう映っているのだろうと思ったのだ。
施術が終わり、会計の時間になったころ、未沙は別のお客様の対応に入っていた。
受付には美咲が立つ。
「ありがとうございました」
伝票を整えながら言うと、五条は静かにうなずいた。
「未沙、行かせてもらうことにしたようだね」
不意にそう言われて、美咲の手がわずかに止まる。
「……はい」
「ロンドン」
「はい」
五条はそれ以上すぐには何も言わなかった。
会計を済ませ、財布をしまってから、ふと美咲のほうを見る。
「苦労かけちゃいそうだね」
「え?」
「これから」
その言い方は同情ではなかった。
ただ事実を静かに置くような声だった。
だからこそ、美咲は取り繕う余裕をなくした。
「……そうですね」
少し迷ってから、美咲は小さく笑った。
「正直、まだあまり実感が追いついてなくて」
「そうだろうね」
「任せるって言われても、そんな簡単に切り替えられるものじゃないので」
言ってから、少し話しすぎたかもしれないと思った。
けれど五条は表情を変えず、ただ静かに聞いていた。
「未沙さんみたいには、できないですし」
その一言は、思っていたよりも素直に口から出た。
五条は少しだけ目を細めた。
「そうだろうね」
「……」
「美咲ちゃんが未沙になる必要はない」
あまりにもあっさり言われて、美咲は一瞬、言葉を返せなかった。
「え……」
「未沙は未沙だよ」
五条は落ち着いた声で続ける。
「美咲ちゃんは美咲ちゃんでいい」
その言い方は、励ましめいていなかった。
慰めようとしている感じもなかった。
ただ、当たり前のことを当たり前に言っているだけのようだった。
けれど、その当たり前が、美咲には思いのほか深く響いた。
「比べてしまうんです」
気づけば、美咲はそう言っていた。
「周りに何か言われるっていうより、自分で……」
「うん」
「未沙さんなら、って思ってしまって」
「そうだろうね」
五条は否定も肯定もしすぎず、ただ受け止めるようにうなずいた。
「でも」
少し間を置いて、五条が言う。
「未沙、美咲ちゃんのこと信頼してるって言ってたよ」
美咲は顔を上げた。
「……そう、ですか」
「うん」
「任せたいって」
「……」
「代わりがほしいからじゃないと思うよ」
胸の奥が、静かに揺れる。
未沙本人から言われた言葉とはまた違う重みがあった。
第三者の口から聞くことで、かえってその信頼が現実のものとして迫ってくる。
「美咲ちゃんがここにいる意味、未沙はちゃんと見てると思う」
その言葉に、美咲はすぐには返事ができなかった。
喉の奥が少し熱くなる。
自分では足りないところばかり見てしまう。
けれど、未沙は違うところを見ていたのかもしれない。
できていないことではなく、もう受け取ってきたものや、今ここで支えているものを。
五条はそれ以上、踏み込んだことは言わなかった。
余計な励ましも、きれいなまとめもない。
ただ必要なことだけを置いていくような話し方だった。
「まあ」
五条は最後に少しだけ口元をゆるめた。
「月に一度来る客としては、ちゃんと続いてくれると助かる」
その言い方が少しだけ可笑しくて、美咲は思わず笑った。
「それは、がんばらないとですね」
「それは困るからね」
「そんなにですか」
「そんなに」
ほんの短いやり取りだった。
けれど、その軽さがありがたかった。
重くなりすぎていた胸の内に、少しだけ風が通る。
五条が帰ったあと、美咲は受付の前でしばらく立ち尽くしていた。
店の中には夕方のやわらかな光が差し込み、整えられた空気が静かに満ちている。
いつもの景色だった。
けれど、さっきまでとは少しだけ見え方が違っていた。
未沙になる必要はない。
その言葉は、考えれば当たり前のことだった。
けれど美咲は、知らないうちにずっと、自分の立つ場所を未沙の輪郭に重ねて測っていたのだと思う。
同じようにできるか。
同じように支えられるか。
同じように安心を渡せるか。
でも、本当に問われているのは、そこではないのかもしれない。
未沙が積み重ねてきたものを受け取りながら、
自分は自分として、この店にどう立つのか。
誰かの形をなぞることではなく、自分の手で何を守っていくのか。
それは簡単なことではない。
比べてしまう気持ちが、明日から急になくなるわけでもないだろう。
きっとまた迷うし、足りなさに目を向けてしまう日もある。
それでも、比べることそのものから少しだけ自由になれる瞬間があるのなら、前に進める気がした。
営業後、未沙が片づけをしながら何気なく言った。
「五条さん、何か言ってた?」
美咲は少し迷ってから、小さくうなずいた。
「……少しだけ」
「そっか」
未沙はそれ以上聞かなかった。
聞けば話してくれることも、
今はまだ言葉にしたくないことも、
未沙にはわかっていた。
「五条さんらしいね」
「え?」
「必要なことだけ言って、あとは本人に任せるところ」
美咲は少し笑った。
「未沙さんに似てますね」
そう言うと、未沙は少し困ったように笑った。
「そうかな」
帰り際、店の灯りを落としながら、美咲は静かに息をつく。
誰かの代わりではなく、自分として立っていい。
そのことを、まだ完全に信じきれたわけではない。
けれど、そう思ってもいいのかもしれないと、今日は少しだけ思えた。
夜の街は、昼間よりも少しだけ風が涼しかった。
扉を閉めたあとも、美咲の胸の中には、五条の言葉が静かに残っていた。
未沙になる必要はない。
その一言は、何かを劇的に変える魔法ではない。
けれど、強く握りしめすぎていたものを、ほんの少しだけゆるめてくれる言葉だった。
自分で自分を追い詰めるのではなく、
受け取ってきたものを抱えながら、
自分の足で立つ。
その始まりのようなものが、
月に一度やってくる静かな客の言葉とともに、
美咲の中にそっと置かれていた。




