第6話 任せるということ
雨上がりの朝だった。
サロンの前の石畳はまだ少し濡れていて、やわらかな光を受けて静かに光っている。店の扉を開けると、ひんやりした空気の中に、いつもの清潔な匂いがふわりと立ちのぼった。
美咲は傘をたたみ、入口の脇に置いてから店内を見渡した。
整えられた受付。
静かな施術スペース。
まだ誰もいない朝の店には、営業中とは違う、張りつめすぎない静けさがある。
この場所に立つと、自然と背筋が伸びる。
それはもう長年の習慣だった。
ロンドンからの講師依頼の話を聞いてから、数日が経っていた。
未沙はすぐには返事をせず、この数日、いつも以上に店全体の流れを静かに見ていた。
スタッフたちの動きや、美咲の立ち位置を、あらためて確かめるように。
迷った末に決めたのだと、美咲にもわかる静けさがあった。
朝の準備を進めていると、未沙がいつも通りの落ち着いた足取りで入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
変わらない声。
変わらない表情。
けれど美咲は、その変わらなさにかえって少し落ち着かない気持ちになった。
大きな話が宙に浮いたまま、日常だけが先に進んでいるような気がしたのだ。
未沙はバッグを置くと、美咲のほうを見た。
「今日、少し早めに来てくれてありがとう」
「いえ」
「あとで少し話せる?」
「……はい」
その一言だけで、美咲の胸がわずかに固くなる。
たぶん、あの話だ。
そう思いながらも、今はまだ考えないようにして、美咲はタオルの準備に手を動かした。
午前の営業はいつも通り始まった。
予約は途切れず入っていて、スタッフたちもそれぞれの持ち場で落ち着いて動いている。
美咲は施術に入り、受付を気にかけ、空いた時間には新人の様子を見る。
身体はいつも通りに動いていた。
けれど心のどこかに、ずっと小さな緊張が残っていた。
昼過ぎ、予約の切れ目に未沙が声をかけた。
「美咲ちゃん、今いい?」
「はい」
案内されてバックヤードに入ると、外の音が少し遠くなる。
小さなテーブルの上には、湯気の立つマグカップがふたつ置かれていた。
未沙は向かいの椅子を軽く引く。
「座って」
「はい……」
美咲は腰を下ろした。
未沙も向かいに座る。
少しの沈黙のあと、未沙が静かに口を開いた。
「ロンドンの件ね」
「……はい」
やはり、と思う。
美咲は膝の上でそっと手を重ねた。
「受けようと思ってるの」
未沙はまっすぐに言った。
「一年間、向こうに行こうと思う」
その言葉は、予想していたはずなのに、実際に聞くと胸の奥にずしんと落ちた。
美咲は一瞬、返事ができなかった。
「そう……ですか」
「うん」
「決めたんですね」
「まだ細かいことはこれからだけど、気持ちは決めた」
未沙の声は静かだった。
迷いが消えた人の声だった。
その落ち着きに触れるほど、美咲の中では別の感情が大きくなっていく。
「それでね」
未沙は少しだけ間を置いた。
「店のこと、美咲ちゃんに任せたいと思ってるの」
美咲は顔を上げた。
一瞬、言葉の意味がそのままでは入ってこなかった。
「……私に?」
「うん」
「一年間?」
「そう」
心臓が急に強く打ち始める。
任せたい。
その言葉の重さが、遅れて身体に広がっていく。
「無理です」
気づけば、美咲はそう言っていた。
考えるより先に、口から出ていた。
「私には……」
喉が少し詰まる。
「未沙さんの代わりなんて、務まりません」
言いながら、自分でもわかっていた。
それは謙遜ではなかった。
本当に怖かったのだ。
この店を支えてきたのは未沙だ。
空気を整え、スタッフを見て、お客様を安心させてきた中心はずっと未沙だった。
その場所を自分が引き受けるなんて、考えただけで足元が揺らぐ。
未沙はすぐには何も言わなかった。
美咲の言葉をそのまま受け止めるように、静かに見ている。
「代わりじゃないよ」
やがて未沙が言った。
声はやわらかかったが、はっきりしていた。
「え……」
「代わりじゃない」
未沙はもう一度、静かに繰り返した。
「美咲ちゃんだからお願いするの」
その言葉に、美咲は息を止めた。
代わりじゃない。
美咲ちゃんだから。
胸の奥に、重いものが落ちる。
それは負担の重さでもあり、同時に、これまで自分が積み重ねてきたものを見てもらえていたのだという痛いほどの実感でもあった。
「でも……」
美咲はうまく息をつけないまま言う。
「私、未沙さんみたいにはできません」
「うん、できなくていいよ」
「え……」
「同じようにする必要はないの」
未沙は落ち着いた目で美咲を見る。
「私の代わりを置きたいわけじゃないから」
その言い方に、美咲は少しだけ目を伏せた。
やさしいのに、逃げ道にはしてくれない言葉だった。
「美咲ちゃんは、もうずっとこの店を見てきたでしょう」
「……はい」
「スタッフのことも、お客様のことも、ちゃんと見てる」
「でも、それは」
「うん」
「見てるだけです」
「見てるだけの人には、あんなふうに場は整えられないよ」
美咲は言葉を失った。
未沙は続ける。
「困る前に声をかけてるでしょう」
「……」
「誰かが焦ってたら、ちゃんと落ち着けるようにしてる」
「……」
「お客様が安心できる流れも、もう身体でわかってる」
ひとつひとつの言葉が、胸の奥に静かに積もっていく。
認められている。
信じられている。
それは本来、うれしいはずのことだった。
なのに、どうしてこんなに怖いのだろうと美咲は思う。
信じられるということは、期待されるということだ。
任されるということは、引き受けるということだ。
もしできなかったら。
もし支えきれなかったら。
その不安が、うれしさと同じくらい強く胸を締めつける。
「怖いです」
美咲は小さく言った。
未沙の前でそんなふうに言葉にしたのは、久しぶりだった。
「うん」
「任せるって言われるの、うれしくないわけじゃないんです」
「うん」
「でも、怖いです」
「そうだよね」
未沙は否定しなかった。
励ますように軽く流すこともしなかった。
ただ、その怖さがそこにあることを、そのまま受け止めるようにうなずいた。
「信じてもらえるのって、うれしいだけじゃないよね」
未沙が静かに言う。
「重いし、怖い」
「……はい」
「でもね」
未沙は少しだけやわらかく笑った。
「怖いって思える人のほうが、ちゃんと任せられるって私は思うの」
美咲は顔を上げた。
「簡単にできるって言う人より、ちゃんと重さがわかる人のほうが、きっと大事にするから」
「……」
「美咲ちゃんは、そういう人でしょう」
その言葉は、救いのようでもあった。
できると言い切れない自分を、未沙は未熟だとは言わなかった。
怖がることごと、信じてくれている。
そのことが、美咲の胸を静かに揺らした。
しばらく、ふたりのあいだに沈黙が落ちた。
バックヤードの外では、誰かの足音がかすかに通り過ぎる。
店はいつも通り動いている。
そのいつもの流れの中で、自分だけが立ち止まっているような気がした。
美咲は膝の上の手を見つめる。
これまで何度も、未沙に支えられてきた。
迷ったとき、失敗したとき、立ち止まったとき。
そのたびに、未沙は無理に引っぱるのではなく、自分で立てるように待ってくれた。
今も、たぶん同じなのだ。
答えを押しつけるのではなく、自分で引き受けるところまで待っている。
「……少し、考えてもいいですか」
ようやくそう言うと、未沙は静かにうなずいた。
「もちろん」
「すぐに大丈夫って、まだ言えなくて」
「うん」
「でも、ちゃんと考えたいです」
「それでいいよ」
未沙の声は変わらず落ち着いていた。
その落ち着きに、美咲は少しだけ救われる。
「ありがとう」
未沙が言う。
「ちゃんと受け止めてくれて」
その言葉に、美咲は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
まだ引き受けるとは言っていない。
それでも、逃げずに受け止めようとしていることを、未沙は見てくれている。
バックヤードを出ると、店内には午後のやわらかな光が差していた。
スタッフたちの声。
リネンの音。
お客様の気配。
いつもと同じ景色なのに、どこか少し違って見える。
この場所を任されるかもしれない。
そう思った瞬間から、見慣れたはずの景色が急に重みを持ちはじめていた。
美咲は施術スペースの端に立ち、静かに店の空気を見渡した。
未沙が守ってきたもの。
自分が受け取ってきたもの。
それを今度は、自分が支える側になるのかもしれない。
怖い。
でも、その怖さの中には、たしかにうれしさもあった。
信じられていること。
見ていてもらえたこと。
自分だからと託されたこと。
それは重い。
けれど、その重さがあるからこそ、簡単に手放したくないとも思う。
美咲は小さく息を吸った。
まだ答えは出ていない。
けれど、もう前と同じ場所には戻れない気がしていた。
任せるという言葉を受け取った時点で、自分の中の何かはもう動き始めている。
信じられることは、うれしいだけではなく怖い。
けれどその怖さは、誰かの期待に押しつぶされるためのものではなく、自分が受け取ってきたものの大きさを知るための痛みなのかもしれなかった。
午後の光の中で、美咲はそっと背筋を伸ばす。
まだ揺れている。
まだ迷っている。
それでも、この場所で積み重ねてきた時間が、自分を少しずつ前へ押しているのを感じていた。




