第33話 母娘
夜のサロンは、昼間より少しだけ静かだった。
最後の片づけを終えて、美咲が先に上がったあと、店の中には未沙と未輝だけが残っていた。
照明は少し落とされ、受付の奥からは、洗いたてのタオルに残るやわらかな香りがかすかに漂ってくる。
帰国してからまだ一日も経っていないのに、未輝にはもうずいぶん長くここにいるような気がしていた。
時差のせいなのか、気持ちのせいなのか、自分でもよくわからない。
ただ、母とこうして向かい合って座る時間が、思っていたより静かに身体になじんでいくのを感じていた。
未沙はカップにお茶を注ぎ、未輝の前にそっと置いた。
「疲れてない?」
「少しは。でも、大丈夫」
「そう」
それだけ言って、未沙も向かいに腰を下ろす。
会話が途切れても、気まずくはなかった。
昔なら、こういう沈黙のたびに何か話さなければと思っていた気がする。
でも今は、無理に埋めなくてもいいのだとわかる。
未輝はカップに手を添えながら、しばらく湯気を見つめていた。
言いたいことがある。
けれど、どう言えばいいのか少し迷っていた。
「……ロンドンでね」
ようやく口を開くと、未沙が静かに顔を上げた。
「うん」
「大学の近くのカフェで、サロンのオーナーさんに偶然会ったの」
「少し話して、そのときに、お母さんの昔のことを聞いた」
未沙は少しだけ目を細めた。
懐かしむような、少し照れくさそうな表情だった。
「どんな話?」
未沙がそう聞く。
未輝は少しだけ迷ってから、静かに言った。
「母って、最初からああいう人だった気がしてたんです、って言ったの」
「しっかりしてて、迷わなくて、何でもちゃんとできる人、って」
未沙は苦笑するように目を伏せた。
「そう見えるでしょうね、って言われた」
「でも、お母さんにもちゃんと途中があったって」
未沙は何も言わずに聞いている。
「日本で最初にひとりで店を出した頃、うまくいかなかったって」
「それで一度、お店をやめたって聞いた」
未沙は小さくうなずいた。
「うん」
「そのあと、今のサロンに入ったって」
「それで、当時のオーナーさんからお店を譲ってもらって、今はお母さんがオーナーなんだって」
未沙は少しだけ笑った。
「だいたい、その通り」
未輝は母を見た。
それだけの話なのに、自分の知らなかった時間がそこにはあった。
未沙は、昔から未輝にとってちゃんとしている人だった。
忙しくても仕事をこなし、周りに頼られ、迷いを見せない人。
少なくとも未輝には、そう見えていた。
だからずっと思っていた。
母は最初からちゃんとしていて、自分だけが足りないのだと。
自分だけが迷って、自分だけがうまくできなくて、自分だけが立ち止まっているのだと。
けれど今、未沙はそんなふうには言わなかった。
「違うよ」
未沙は少し困ったように笑った。
「失敗の連続で、ずっと迷走してたよ」
あまりにもあっさりした言い方で、未輝は思わず目を瞬いた。
「そうなの?」
「そうだよ」
未沙はカップに手を添えたまま、静かに続ける。
「最初に自分で店を出したときは、やれると思ってたの」
「でも、全然うまくいかなかった」
「頑張ってるつもりなのに空回りして、何が足りないのかもちゃんと見えなくなってた」
未輝は黙って聞いていた。
「それで、一度やめた」
「このまま続けても、自分まで駄目になる気がしたから」
その言葉は、未輝の胸の奥に静かに落ちていった。
手放すことは、負けることではなかったのだ。
壊れるまでしがみつくのではなく、自分で終わらせることを選ぶ強さもあるのだと、未輝は初めて知った気がした。
「そのあと、今のサロンに入ったの」
未沙は続ける。
「オーナーじゃなくて、雇われる側として」
「悔しかったけど、あのときはちゃんと学び直す必要があったんだと思う」
未輝は小さく息をのんだ。
「ひとりで何とかしようとしてたら、どこかで歪むんだって、そのときやっとわかった」
「店を続けることって、技術だけじゃないし、自分ひとりで抱え込むことでもないから」
未輝は何も言えなかった。
未沙は最初から強かったわけではない。
最初から迷わず、何でもできたわけでもない。
失敗して、手放して、立場を変えて、そこからまた学び直していた。
その時間があったからこそ、今の未沙がいる。
「それに」
未沙は少しだけ息をついて言った。
「その頃、お父さんと再会したの」
未輝は静かに顔を上げる。
「再会して、すぐ何かが変わったっていうより」
「このままじゃだめだなって、ちゃんと思えたんだと思う」
未沙の声は穏やかだった。
けれどその奥には、当時を振り返る静かな実感があった。
「失敗ばっかりで、迷走してて、自分でもどうしたいのかわからなくなってたときに」
「もう一回ちゃんとやり直そうって思えた」
「たぶん、あれがきっかけだったんだよね」
未輝は黙って聞いていた。
母の人生の中にも、流れが変わる瞬間があったのだ。
最初からまっすぐ今の場所へ来たわけではなく、
迷って、立ち止まって、それでももう一度進び直した時間があった。
そのことが、未輝にはひどくあたたかく感じられた。
「……そっか」
未輝がそう言うと、未沙は少しだけ笑った。
「うん。だから、全然すごくなんかないよ」
「ただ、転びながらでも続けてきただけ」
未輝も小さく笑った。
そうして笑い合えることが、少し不思議だった。
昔なら、母のことをこんなふうに聞いても、どこか落ち着かない気持ちになったかもしれない。
知らない母の姿に戸惑ったり、自分の知らない時間を寂しく思ったりしたかもしれない。
けれど今は違う。
知らなかったことが、距離になるのではなく、むしろ母を理解する手がかりになっている。
「でも」
未輝はカップに視線を落としたまま言う。
「なんか、ちょっと安心した」
未沙は目を細める。
「安心?」
「うん」
未輝は少し笑った。
「ずっと、お母さんは最初からちゃんとしてたんだと思ってた」
「私は全然そんなふうにできないのに、お母さんは最初からできてたみたいに見えてたから」
未沙は何も言わずに聞いている。
「だから、自分だけが足りない気がしてた」
「自分だけが、ちゃんとできてないみたいで」
言いながら、未輝は少しだけ視線を落とした。
こんなことを口にするのは、少し照れくさかった。
でも今なら言える気がした。
未沙はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「そんなことないよ」
強く否定する言い方ではなかった。
ただ、当たり前のことを確かめるような声だった。
「最初からできる人なんて、たぶんいない」
「少なくとも私は、全然そうじゃなかったし」
未輝は顔を上げる。
未沙は少し笑っていた。
その笑い方は、未輝の知らない母ではなかった。
けれど、今まで見えていなかったやわらかさがそこにはあった。
「迷ってばっかりだったよ」
「何を大事にしたいのかも、どう進みたいのかも、ちゃんと見えてなかった」
未輝はその言葉を、胸の中でゆっくり受け止めた。
母もまた、迷って、転んで、それでもここまで来た人だった。
その当たり前のことを、未輝は今まで本当には知らなかったのだと思う。
知識としてではなく、実感として。
母もまた、完成された誰かではなく、途中を生きてきたひとりの人なのだと。
そのことが、未輝にはひどく大きかった。
届かない理想として見上げるしかなかった存在が、
少しだけ近くなる。
同じように迷いながら歩いてきた人として、
ようやく母を見ることができる。
それは、母を小さくすることではなかった。
むしろ、遠かった人が初めてちゃんと輪郭を持つような感覚だった。
店の外では、夜の気配が少しずつ深くなっていた。
ガラス越しに見える通りの灯りが、静かに滲んでいる。
未輝はカップの残りをひと口飲んだ。
あたたかさが、ゆっくりと身体の奥へ落ちていく。
母は、届かない理想ではなかった。
同じように迷い、失敗し、それでも歩いてきた人だった。
そのことを知れた夜を、未輝はたぶん長く忘れないだろうと思った。
そしてそれは、母を知り直した夜であると同時に、
自分自身を少しだけ許せた夜でもあった。




