第34話 名前
夜はもうだいぶ深くなっていた。
サロンの外を通る車の音もまばらになり、店の中には静かな空気だけが残っている。
向かいに座る未沙の前で、未輝はすっかり冷めかけたお茶の表面をぼんやり見つめていた。
会話は途切れながらも、まだ続いていた。
母の昔の話を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた気がしていた。
けれど、ほどけたからこそ見えてくるものもあった。
安心したのに、まだどこか苦しい。
母を近く感じられたのに、それでも自分は自分のままだった。
未輝は指先でカップの縁をそっとなぞる。
「……私」
声にすると、それだけで胸の奥が少し揺れた。
未沙が静かに顔を上げる。
「うん」
未輝は少しだけ視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「私、お母さんみたいにはなれない」
言ってしまってから、店の中が少しだけ静かになった気がした。
未沙はすぐには何も言わなかった。
否定もしない。
急いで励まそうともしない。
ただ、未輝の言葉が落ちるのを待つように、静かにそこにいた。
「ちゃんとできないし」
未輝は続ける。
「ずっと未完成なままで……」
その言葉は、ずっと胸の奥にあったものだった。
母のことを遠く感じていた頃も、
少し近く見えるようになった今も、
結局自分はまだ足りないままなのではないかという思いは消えていなかった。
何かを学んでも、まだ足りない。
少し前に進めた気がしても、また迷う。
自分の輪郭が見えたと思った次の瞬間には、またわからなくなる。
未輝はずっと、どこかで「ちゃんとした自分」にならなければいけないと思っていたのかもしれない。
迷わなくて、揺らがなくて、きちんと立てる自分に。
でも、そんな日はなかなか来なかった。
未沙はしばらく黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「未輝って名前ね」
未輝は少し驚いたように顔を上げる。
「あなたのお父さんとお母さんから、一文字ずつもらった名前なの」
未輝は目を瞬いた。
知らなかったわけではない。
けれど、改めて母の口からそう言われると、少し違って聞こえた。
「でもね」
未沙はやわらかい声で続ける。
「それだけじゃないの」
未輝は黙って母を見る。
「未って、“まだ”って意味でもあるでしょう」
その言葉は、静かに未輝の胸へ落ちていった。
「まだ知らないことがあって」
「まだ迷うことがあって」
「まだ途中でもいい」
未沙の声は、何かを教えるというより、ずっと前からそこにあったものをそっと差し出すようだった。
「その途中で、自分の光を見つけてほしいって思ったの」
「だから、未輝」
未輝は言葉を失った。
自分の名前を、そんなふうに聞いたことはなかった。
未完成であることは、足りないことだと思っていた。
まだ、という言葉は、どこか不十分で、早く越えなければいけないもののように感じていた。
けれど未沙は、そうは言わなかった。
まだ知らないことがある。
まだ迷うことがある。
まだ途中である。
それは欠けていることではなく、生きていくことそのものなのだとでも言うように。
「ちゃんとしてなくてもいい」
未沙は静かに言った。
「完璧じゃなくてもいい」
未輝の喉の奥が、少しだけ熱くなる。
「未輝は、未輝のままで輝けばいいの」
その言葉を聞いた瞬間、未輝の中で長く固まっていた何かが、静かにほどけていくのを感じた。
ずっと、自分は未完成なのだと思っていた。
だから駄目なのだと。
だからもっとちゃんとしなければいけないのだと。
でも、完成なんて、きっとないのかもしれない。
人はいつまでも途中で、
だからこそ迷い、
選び、
自分の光を見つけていく。
未輝はそのことを、そのとき初めて本当に思った。
未沙は最初から、そのことを知っていたのだろうか。
迷うことも、足りないことも、途中であることも、全部含めて人が生きていくのだと。
だからこそ、そんな名前をつけたのだろうか。
未輝はうまく言葉が出なかった。
何かを言えば、今胸の中に広がっているものがこぼれてしまいそうだった。
「……そんなふうに」
ようやく絞り出すように言う。
「考えたこと、なかった」
未沙は少しだけ笑った。
「そうだろうね」
「わざわざ言ってなかったし」
未輝も、少しだけ笑った。
その笑い方は、泣きそうになるのをこらえるみたいでもあった。
「私、ずっと」
未輝はゆっくりと言葉を探す。
「ちゃんとしなきゃって思ってた」
「ちゃんとできるようにならなきゃって」
「そうならないと、自分は駄目なんだって、どこかで思ってた」
未沙は何も言わずに聞いている。
「でも、まだ途中でもいいって言われたら」
未輝は少し息をつく。
「なんか……少しだけ、楽になる」
未沙は静かにうなずいた。
「うん」
「途中だから見えるものもあるし、途中だから選べるものもあるから」
未輝はその言葉を胸の中で繰り返した。
途中だから見えるもの。
途中だから選べるもの。
それは、今の自分を否定しない言葉だった。
未完成であることを、恥じなくていいと言ってくれる言葉だった。
店の外では、夜の気配がさらに深くなっていた。
ガラス越しの灯りが、静かに滲んで見える。
未輝は自分の名前を、心の中でそっとなぞった。
未輝。
まだ、の中にある光。
途中にあるまま、見つけていく輝き。
その名前を、今までより少しだけ好きになれる気がした。
母のことを、届かない理想ではなく、同じように途中を生きた人として見られるようになった夜。
そして、自分自身のこともまた、完成していないままでいいのだと思えた夜。
未輝は小さく息をついた。
胸の奥にあった固いものが、ゆっくりとやわらいでいく。
未完成のままでも、愛されていい。
未完成のままでも、輝いていい。
そのことを知れたことが、未輝には何よりも救いだった。




