第32話 久しぶりのサロン
帰国した未輝は、空港からまっすぐ未沙のいるサロンへ向かった。
数年ぶりだった。
駅を出て、見慣れた通りを歩く。
昔より新しい店が増えて、知らない看板も目につくようになっていた。
それでも、角を曲がった先に見えるサロンの外観は、未輝の記憶の中にあるものと大きくは変わっていなかった。
ガラス越しに見えるやわらかな灯りに、胸の奥が少しだけほどける。
扉を開けると、ほのかに甘くて清潔な香りがした。
懐かしい、と思うより先に、身体がその空気を覚えていた。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた声に顔を上げると、受付の奥にいたスタッフが一瞬目を丸くし、それからすぐに笑顔になった。
「あ……未輝ちゃん?」
「うん。久しぶり」
そのやりとりだけで、長く空いていた時間が少し縮まる気がした。
店の空気は少し変わっていた。
置かれているものも、働く人たちの顔ぶれも、昔とは違う。
けれど、変わらないものも確かにある。
慌ただしさの中にもどこかやわらかい空気が流れていて、ここに来ると自然に肩の力が抜ける感じは、昔のままだった。
奥から未沙が出てくる。
未沙は大げさに抱きしめたりはしない。
ただ、未輝の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「少し痩せた?」
「ちゃんと食べてた?」
それだけの言葉なのに、未輝には十分だった。
「食べてたよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
未沙はまだ少し疑うような顔をしたあと、ふっと笑った。
「ならいいけど」
その何気ないやりとりに、未輝は胸の奥がじんわりあたたかくなるのを感じた。
帰る場所とは、何も説明しなくても迎え入れてくれる場所なのだと知る。
未沙はすぐに仕事へ戻っていった。
それもまた、この人らしかった。
特別扱いをしないことが、かえって未輝には心地よかった。
待ちながら店内を見渡す。
昔より少し配置が変わった棚、増えたボトル、見慣れない若いスタッフたち。
けれど、空気の奥にあるものは変わっていない。
そう思ったとき、未輝はその中に、昔とは少し違う温度が混ざっていることに気づいた。
そこには、母の面影だけではなく、美咲の気配があった。
美咲は未輝にとって、昔から少し特別な存在だった。
母とは違う距離で、いつもそばにいてくれた人。
子どもの頃、サロンに来れば、まず美咲が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい、未輝ちゃん」
その声を聞くだけで、なんとなく安心したのを覚えている。
忙しい未沙の代わりに話を聞いてくれたり、くだらない話で一緒に笑ってくれたりした。
学校であった小さなこと、友だちのこと、少しだけ嫌だったこと。
母には言えないような悩みも、美咲には不思議と話せた。
たとえば、誰かに言われた何気ない一言がずっと引っかかっていた日。
たとえば、自分だけうまくなじめない気がしていた日。
美咲は「そんな日もあるよ」と笑って、でも決して軽くは流さなかった。
ちゃんと聞いてくれて、ちゃんと未輝の気持ちをそこに置いてくれた。
久しぶりに会った美咲は、昔と変わらない笑顔で未輝を見た。
「また、キレイになっちゃったね」
未輝は少し照れたように笑う。
「そう?」
美咲は少し考えてから続ける。
「うん。でも……なんだか未沙さんに似てきたね」
その言葉に、未輝は一瞬だけ黙る。
昔なら、その言葉を素直には受け取れなかったかもしれない。
母に似ていると言われることは、うれしい気持ちと同時に、届かない存在を思い知らされるような苦しさもあった。
未沙はいつだって、未輝の目には強くて、迷いがなくて、ちゃんとしている人に見えた。
自分はそんなふうにはなれないと思っていたし、なろうとするほど苦しくなることもあった。
でも今は違った。
美咲が言っているのは、完璧な母に近づいたという意味ではない。
迷いながら、自分の足で歩いてきた時間が、少しずつ表情に表れているということなのだと思えた。
「……それ、前よりうれしく聞こえるかも」
未輝がそう言うと、美咲はやわらかく笑った。
「そっか」
「昔は、ちょっと複雑だった」
「うん。そんな気がしてた」
見抜かれていたことに、未輝は少しだけ驚いて、それから苦笑する。
「やっぱり?」
「やっぱり」
二人で小さく笑い合う。
未輝は改めて、美咲を見る。
昔はただ優しいお姉さんのような存在だった。
けれど今は、多くのスタッフに頼られ、お客様に安心を与え、この場所を支えている人になっている。
若いスタッフが何かを尋ねると、美咲は手を止めて穏やかに答える。
急かすでもなく、突き放すでもなく、相手がちゃんと受け取れる速さで言葉を渡している。
お客様に向ける声もやわらかく、けれど曖昧ではない。
その場にいる人の緊張を、少しずつほどいていくような話し方だった。
それでも、美咲は昔と変わらない。
未輝に向ける優しさも、距離感も変わらない。
母が大切にしてきたものを守っている人。
そして、自分自身も大切にしてくれた人。
未輝は初めて気づく。
受け継がれているものは、店や技術だけではない。
誰かを安心させること。
その人がその人らしくいられる場所を作ること。
それは、特別な言葉や大きな行動でできることではなくて、
何気ない声のかけ方や、相手の話をちゃんと聞くことや、
ここにいていいと思わせる空気の中に宿るものなのかもしれなかった。
そしてそれは、昔から美咲が未輝にしてくれていたことでもあった。
未沙が残してきたものは、きっとこういうものなのだろう。
形のあるものだけではなく、人から人へ渡っていく、目には見えないやさしさ。
未輝は、店の中に流れる空気をもう一度ゆっくり吸い込んだ。
懐かしいだけではない。
ここはもう、昔のままの場所ではなかった。
けれど、だからこそわかることがある。
変わらずに残るものは、形ではなく、誰かの中に受け継がれていくのだと。




