第31話 帰る場所
課程の修了が決まってからの日々は、思っていたより慌ただしく過ぎていった。
提出物を終え、必要な手続きを済ませ、図書館で借りていた本を返す。
部屋の棚に並んでいたノートや資料を箱に分けていくうちに、未輝はようやく、自分がこの街を離れるのだということを少しずつ実感し始めていた。
ロンドンに来たばかりの頃、この部屋はひどくよそよそしく見えた。
窓の外の曇った空も、聞き慣れない生活音も、どこか自分とは関係のないもののように思えた。
けれど今は、机の端についた小さな傷も、何度も歩いた通学路も、雨上がりの石畳の匂いも、ちゃんと自分の時間の中にある。
ここで過ごした数年は、短くはなかった。
学ぶことは、思っていたよりずっと難しかった。
人の心に関わるということは、知識を増やすだけでは足りなかった。
理論を知るほど、簡単にわかったつもりになってはいけないのだと知った。
相手を支えることの難しさも、自分の未熟さも、何度も思い知らされた。
それでも未輝は、この時間を選んでよかったと思っていた。
うまく言葉にできない痛みがあること。
ひとりで抱え込んでしまう苦しさがあること。
誰かにわかってもらえるだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる瞬間があること。
そういうものを、未輝は学びの中で何度も見つめてきた。
そしてそのたびに、自分がここへ来た理由を少しずつ確かめ直してきたのだった。
修了前の最後の週、未輝は大学近くの小さなカフェで、友人たちと遅い昼食を囲んでいた。
窓際の席にはやわらかな陽が差し込み、テーブルの上には飲みかけの紅茶と、食べかけのサンドイッチの皿が並んでいる。
いつもと変わらないような光景なのに、今日が最後だと思うだけで、どこか輪郭がくっきりして見えた。
「帰ったら、しばらくは忙しくなる?」
向かいに座った友人がそう尋ねる。
「たぶん。まだはっきり決まってないけど、少し休んだら、ちゃんと次のことを考えたい」
「未輝なら大丈夫だよ」
別の友人が笑って言う。
「話してると、ちゃんと人のこと見てるってわかるから」
未輝は少し困ったように笑った。
「そんなことないよ。まだ全然」
「でも、そういうところが未輝らしいんじゃない?」
軽く交わされた言葉だったのに、その一言は未輝の胸に静かに残った。
未輝らしい。
前の未輝なら、素直に受け取れなかったかもしれない。
自分らしさと言われても、何を指しているのかわからなかっただろう。
誰かと比べて足りないところばかりが先に見えて、自分の輪郭をそんなふうに受け止めることはできなかった。
けれど今は、その言葉を少しだけ静かに抱えていられる気がした。
食事を終え、店を出たあと、駅へ向かう途中で友人たちと立ち止まる。
別れ際は、思っていたよりもあっさりしていた。
「また連絡するね」
「日本に行くことがあったら絶対会おう」
「そっちも、こっちに来ることがあったら言って」
そんな言葉を交わしながら、笑って手を振る。
けれど背を向けて少し歩いたあとで、未輝は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
ここで出会った人たちは、未輝がロンドンで過ごした時間そのものだった。
最初はうまく馴染めず、言葉の速さにも、距離の取り方にも戸惑っていた自分が、少しずつこの街の中で息をできるようになったのは、こうした人たちがいてくれたからだ。
別れるということは、そこに確かに時間があったということなのだと、未輝は思った。
数日後、未輝はロンドンのサロンを訪れていた。
扉を開けると、馴染んだ香りがふわりと鼻先をかすめる。
整えられた鏡、やわらかな照明、静かに流れる音楽。
何度も足を運んだその空間は、未輝にとっても、もうただ母の過去を知る場所ではなくなっていた。
受付の奥からオーナーが未輝に気づき、穏やかに目を細めた。
「いらっしゃい。もう帰国の準備は進んでる?」
「はい。今日は、そのご挨拶もしたくて」
「そう。もうそんな時期なのね」
オーナーはそう言って、未輝を奥の席へ促した。
勧められるまま腰を下ろすと、鏡の中に少しだけ緊張した自分の顔が映る。
「ここへ初めて来た頃は、まだずいぶん幼く見えたのに」
オーナーはやわらかく笑った。
「今はちゃんと、自分の足で立っている顔をしてる」
未輝は少し驚いたように目を上げ、それから照れたように笑った。
「そう見えるなら、うれしいです」
「見えるわよ。未沙とは違うけれど、でもあなたはあなたのやり方で、人を見る人になっていくんでしょうね」
その言葉は、静かに未輝の胸へ落ちていった。
未沙とは違うけれど。
でも、あなたはあなたのやり方で。
それは未輝が、ようやく自分の中で受け止められるようになったことでもあった。
「ロンドンで過ごした時間は、きっとあなたの中に残るわ」
オーナーは続けた。
「離れるから終わるんじゃないの。ちゃんと生きた時間は、場所を変えてもなくならないから」
未輝は小さくうなずいた。
「はい」
「未沙にも、よろしく伝えて」
「はい。伝えます」
サロンを出たあと、未輝はしばらく足を止めて、通りの向こうを見つめていた。
空は薄く明るく、風はやわらかい。
見慣れた街並みの中を人々が行き交い、バスが通り過ぎ、遠くで誰かの笑い声がした。
この街で過ごした時間は、もう未輝の中に根を下ろしている。
離れることになっても、それは消えてしまうものではないのだろう。
帰る場所があるということは、離れる場所があるということでもあるのかもしれない。
どちらかひとつだけではなく、その両方を持てるようになったことが、未輝には少しだけうれしかった。
帰国前夜、部屋の中はずいぶん静かになっていた。
荷物のほとんどはまとめ終え、棚の上にはもう最低限のものしか残っていない。
生活の気配が少しずつ薄くなっていく部屋の中で、未輝はベッドの端に腰を下ろし、閉じたスーツケースを見つめた。
ここへ来たばかりの頃は、不安のほうがずっと大きかった。
やっていけるのかもわからなかったし、自分が何を得られるのかも見えていなかった。
それでも、ここで過ごした時間は未輝を確かに変えた。
迷いがなくなったわけではない。
自信がすべて身についたわけでもない。
けれど、自分が何に惹かれ、どんなふうに人と関わっていきたいのかを、前よりはずっと自分の言葉で考えられるようになった。
それだけで、十分なのかもしれなかった。
未輝は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。
夜の街にはまだ灯りが残っていて、遠くの窓にもいくつもの明かりが見える。
明日になれば、この街を離れる。
そして日本へ帰る。
帰る、という言葉を胸の中でそっとなぞると、不思議と懐かしさだけではない感情が広がった。
待っている場所がある。
けれどそこへ向かう自分は、もうここへ来る前の自分ではない。
離れていた時間があったからこそ、帰るということの意味も、前より少し深くわかる気がした。
◇
その前日、未沙のサロンは夕方のやわらかな光に包まれていた。
最後の客を見送ったあと、美咲は使い終えた道具を手際よく片づけながら、ふと顔を上げた。
「そういえば、未輝ちゃん、そろそろ帰ってくるんでしたよね?」
少し離れた場所で伝票を整えていた未沙は、その手をほんのわずかに止めた。
「ええ。もう、その頃ね」
未沙の声は静かだった。
けれどその響きには、急がずに積み重ねてきた時間だけが持つ、やわらかな深さがあった。
「早いですね」
美咲は小さく笑って、また手元の片づけに戻っていく。
未沙は窓の外へ目を向けた。
暮れかけた空の色が、ガラス越しに淡くにじんでいる。
離れていた時間は、ただ遠ざけるためにあったのではない。
それぞれがそれぞれの場所で生き、積み重ねたものを抱えて、もう一度同じ場所へ向かうための時間でもあったのだと、未沙は思った。
やがて未沙は視線を戻し、何も言わずに伝票を揃え直した。
帰ってくる場所は、もうちゃんと、ここにあった。




