第30話 受け取ったもの
七月の終わり、午後の光は少しだけやわらかさを増していた。
サロンの扉を開けると、いつもの精油の香りが静かに鼻先をかすめる。
見慣れた受付、整えられた棚、きちんと重ねられたタオル。
何度も立ってきた場所なのに、その日はどこか少し違って見えた。
未沙は奥のテーブルで書類を見ていた。
美咲に気づくと、顔を上げてやわらかく笑う。
「お疲れさま。どうしたの、改まって」
「……少し、お話ししたくて」
そう言った自分の声が、思っていたよりも固かった。
未沙はすぐに何かを察したようだったが、急かすことはしなかった。
「うん。じゃあ、こっち座る?」
窓際の小さなテーブルに向かい合って座る。
ガラス越しの光が、白いカップの縁に淡く落ちていた。
何から言えばいいのかわからない。
言いたいことは決まっているのに、そこへたどり着くまでの言葉がうまく見つからなかった。
指先が、膝の上でそっと重なる。
その手を見たとき、不意に、入ったばかりの頃のことを思い出した。
まだ制服もなじまず、何をするにも緊張していた頃。
タオルをたたむだけでも手元がおぼつかなくて、備品の場所を覚えるのにも時間がかかった。
お客様に声をかけるタイミングさえつかめず、先輩たちの動きを目で追うことしかできなかった。
そんな美咲に、未沙は一度も急がせなかった。
「最初は、できなくて当たり前だよ」
「ちゃんと見て、ひとつずつ覚えていけば大丈夫」
やさしい言い方だった。
でも、甘やかすだけではなかった。
できていないことはきちんと伝えるのに、突き放されたと思ったことは一度もなかった。
あの頃の自分は、未沙のそういうところに何度も救われていた。
「美咲ちゃん?」
未沙の声に呼ばれて、美咲ははっと顔を上げた。
「ごめんなさい」
「ううん。大丈夫」
未沙は変わらず静かな目でこちらを見ている。
そのまなざしに、また少しだけ胸が詰まった。
ここで過ごしてきた時間は、思っていたよりずっと長い。
仕事に慣れてきた頃のことも思い出す。
受付でのやりとりが少しずつ自然になって、お客様の名前と顔が結びつくようになって、
施術に入る前の会話にも、前ほど力まなくなった頃。
ある日、予約が立て込んだ午後に、未沙はほとんど何も言わずに美咲へ次の対応を任せた。
あのときはただ必死だった。
抜けがないか、失礼がないか、そればかり気にしていた。
けれど一日が終わったあと、未沙は片づけをしながら、何でもないことのように言った。
「今日、よかったよ」
「ちゃんと見て動けてた」
たったそれだけの言葉だったのに、胸の奥が熱くなった。
認めてもらえた、と思った。
ここにいていいのだと、少しだけ思えた日だった。
それからまた時間が過ぎて、新人が入ってきた。
教える立場になったとき、美咲は初めて、教わることと教えることがまるで違うのだと知った。
自分にはわかっているつもりのことを、相手にわかるように伝える難しさ。
できないことに苛立つのではなく、どこでつまずいているのかを見ること。
言いすぎてもだめで、言わなさすぎても伝わらないこと。
戸惑いながら後輩に声をかけた日の帰り、未沙が笑って言ったことがある。
「教えると、自分が教わってきたことも見えてくるよね」
そのときは、ただうなずくだけだった。
でも今ならわかる。
未沙はずっと、技術だけじゃなく、人を見ることや、待つことや、任せることを、美咲に教えていたのだ。
そして、ロンドンに行っていた一年。
あの時間は、美咲にとって特別だった。
朝、まだ少しひんやりした空気の中で店の鍵を開ける。
誰もいない店内に入ると、静けさがそのまま身体に触れてくるようだった。
今日もちゃんと回せるだろうか。
何かあったらどうしよう。
そんな不安を抱えたまま、それでも一日を始めるしかなかった。
未沙がいないぶん、自分で考える場面は増えた。
判断に迷うこともあった。
これでよかったのかと、閉店後にひとりで振り返る日も何度もあった。
それでも、店は続いていた。
お客様は来てくれて、美咲はそのたびに目の前のひとりに向き合った。
完璧ではなかったかもしれない。
でも、逃げずにやってきた。
その時間があったからこそ、今ここに座っているのだと思った。
未沙は、美咲の沈黙を急かさなかった。
窓の外で、風に揺れた葉の影がテーブルに淡く映る。
美咲は小さく息を吸った。
「……この前、継いでもらえたらって言ってくださったこと、ずっと考えていました」
未沙は何も言わず、続きを待っている。
「正直に言うと、すぐには答えられませんでした」
「うれしかったです。でも、それ以上に、こわかったです」
声は少し震えていた。
けれど、もう止めたくなかった。
「未沙さんみたいにはなれないって、ずっと思っていました」
「たぶん今も、その気持ちはあります」
そこで一度言葉を切る。
喉の奥が少しだけ熱かった。
「でも……未沙さんみたいになることが必要なんじゃないのかもしれないって、思いました」
未沙の表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「ここで働き始めた頃から、ずっと未沙さんに教えてもらってきました」
「慣れてきた頃も、後輩を見るようになった頃も、ロンドンに行かれていたあいだも」
「自分では足りないと思うことばかりだったけど、それでもここでやってきました」
言葉にしながら、美咲は自分の中にあるものをひとつずつ確かめていく。
「未沙さんが見ていてくれたのが、そういう私なら」
「未沙さんが任せたいと思ってくれたのが、そういう私なら」
そこで、美咲はまっすぐ未沙を見た。
「……継ぎたいです」
言った瞬間、胸の奥で何かが静かに定まった気がした。
「こわいです。自信があるわけでもないです」
「でも、逃げたくありません」
「未沙さんみたいになるためじゃなくて、自分のままで、この場所を続けていきたいです」
言い終えると、急に息の置き場がわからなくなった。
膝の上で重ねた手に、少しだけ力が入る。
未沙はすぐには答えなかった。
その沈黙に、美咲は不安になるより先に、未沙らしいと思った。
軽く受け取らないでいてくれることが、むしろありがたかった。
やがて未沙は、静かに息をついて笑った。
「……そっか」
その一言が、思っていた以上にやさしく胸に触れた。
「ありがとう、美咲ちゃん」
未沙の声は、いつもと変わらないようでいて、少しだけ深かった。
「うれしい」
「すごく、うれしいよ」
美咲は何も言えなかった。
ただ、胸の奥がじんわり熱くなっていくのを感じていた。
未沙は少しだけ目を伏せ、それからまた美咲を見る。
「美咲ちゃん、ずっとちゃんとやってきたもんね」
「私、見てたよ」
その言葉に、視界がわずかに揺れた。
新人の頃のぎこちない手つきも。
慣れてきた頃の必死さも。
後輩にどう伝えればいいかわからず戸惑っていた顔も。
ロンドンにいるあいだ、この店を守ろうとしていた時間も。
全部、見てもらえていたのだと思った。
「未沙さん……」
それ以上はうまく言えなかった。
未沙はやわらかく笑って、テーブルの上のカップに手を添えた。
「美咲ちゃんが、私と同じやり方をする必要はないよ」
「美咲ちゃんのやり方で、この場所を続けてくれたらいい」
その言葉は、もう前のように遠く聞こえなかった。
怖さがなくなったわけではない。
けれど、その怖さごと抱えて進んでいくことを、今はもう選べる気がした。
「はい」
今度の返事は、さっきよりもずっとまっすぐだった。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾いていく。
店の中には、いつもの静けさがあった。
けれど美咲には、その静けさが少し違って感じられた。
守るだけだった場所が、
これからは、自分が続けていく場所になる。
そのことの重さも、あたたかさも、まだ全部は抱えきれない。
それでも、もう目をそらしたくはなかった。
未沙が積み重ねてきたものを受け取りながら、
自分の手で、この先をつくっていく。
その始まりに、今、ようやく立てた気がした。




