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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第3章 泡のゆくえ
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第29話 五条の言葉

 七月の午後、サロンにはやわらかな陽射しが差し込んでいた。


 受付の横に置かれた小さなグリーンが、窓から入る風にかすかに揺れる。

 精油の香りはいつもより少しだけ軽く、柑橘に近い明るさを含んでいた。


 未沙に、この店を継いでもらえたらと思っている、と言われてから、

 その言葉はずっと胸のどこかに残り続けていた。


 仕事をしているあいだも、帰り道も、夜、部屋の灯りを落としたあとも、

 ふとした拍子に思い出す。


 逃げたくはない。

 そう思っているのは本当だった。

 けれど、向き合おうとすればするほど、自分の中にある不安もまた、はっきりしていく気がした。


 未沙さんみたいには、なれない。


 その思いは、何度考えても消えなかった。


 午後最初の予約で、五条が来店した。


「こんにちは」

「こんにちは。お待ちしていました」


 いつもと変わらないやりとりを交わして、美咲は五条を施術室へ案内した。


 簡単に体調を確認し、施術が始まる。

 肩の張り方、背中の強ばり、呼吸の浅さ。

 触れてみると、今日の五条の身体は思っていたより凝っていた。


 美咲は力を入れすぎないように気をつけながら、少しずつ緊張をほどいていく。

 相手の身体が、ここなら力を抜いても大丈夫だと感じるまで、急がずに待つ。

 それは未沙のそばで学び、そして未沙のいない一年のあいだ、自分なりに確かめてきたやり方でもあった。


 施術の途中、五条はほとんど話さなかった。

 美咲もまた、必要な確認以外は声をかけない。

 静かな時間だった。

 けれどその静けさは気まずいものではなく、ただ身体がゆるんでいくために必要な余白のようだった。


 やがて施術が終わり、五条がゆっくりと身を起こす。

 表情は来たときよりもやわらいで見えた。


「ありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました。今日は肩まわりがかなり張っていたので、無理しすぎないでくださいね」

「うん。ずいぶん楽になったよ」


 その言葉に、美咲は小さく頭を下げた。


 施術後のハーブティーを出すと、五条はカップを手に取り、ひと口だけ飲んだ。

 それから、ふっと息をつくようにして言った。


「美咲ちゃんの施術、落ち着くね」


 不意の言葉だった。


「……ありがとうございます」


 うれしいはずの言葉なのに、胸の奥では別の感情が揺れた。

 たぶん、今の自分は少しだけ弱っていたのだと思う。

 だからこそ、そのやさしい評価に、かえって耐えきれなくなった。


「……でも」


 気づけば、美咲は小さく口を開いていた。


 五条が顔を上げる。

 その視線は静かで、続きを急かすものではなかった。


「未沙さんみたいには、なれません」


 言ってしまってから、美咲は少しだけ息をのんだ。

 こんなことを口にするつもりではなかった。

 けれど、一度出た言葉はもう引っ込められなかった。


 五条はすぐには何も言わなかった。

 少しだけ考えるように視線を落とす。

 その沈黙が、美咲にはありがたかった。


 やがて五条は、静かに言った。


「未沙がロンドンに行く前にも、言ったかもしれないけど」

「美咲ちゃんが未沙になる必要はないよ」


 美咲は顔を上げた。


「未沙は、美咲ちゃんを見てきて、美咲ちゃんにやってもらいたいって思ったんだと思う」


 その言葉に、美咲は何も返せなかった。


 未沙みたいになれない。

 そのことばかりを考えていた。

 似ていないこと、同じようにはできないこと、そればかりが不安の理由だと思っていた。


 けれど今、五条の言葉は、その考え方を少しだけずらした。


 未沙に自分を似せることではなく、

 自分のままで、この場所をどう続けていくのか。


 問うべきことが、少しだけ変わった気がした。


「……そう、なんでしょうか」


 ようやく出た声は、ひどく小さかった。


 五条はただ、やわらかくうなずいた。

 それ以上は何も言わなかった。


 美咲もまた、黙ったままカップの湯気を見つめた。

 誰かに答えをもらったわけではない。

 けれど、自分の中で固く結ばれていたものが、ほんの少しだけゆるんだ気がした。


 未沙みたいになれない。

 たぶんこれからも、何度もそう思うのだろう。

 迷うことも、不安になることも、きっとなくならない。


 それでもいいのかもしれない、と美咲は思った。


「……ありがとうございます」


 美咲がそう言うと、五条はいつもの穏やかな調子で答えた。


「こちらこそ。今日もありがとう」


 その言葉に、美咲は今度こそ少しだけ自然に笑えた。


 五条を見送ったあと、店の中にはまた静かな時間が戻ってきた。

 窓の外では、午後の光が少しずつ傾きはじめている。


 受付に戻りながら、美咲はさっきの言葉を胸の中でそっとなぞった。


 美咲ちゃんが未沙になる必要はない。


 その言葉は、不思議なくらい静かに胸に残っていた。


 施術室の扉を開けると、整えたばかりのベッドに午後のやわらかな光が落ちていた。

 見慣れたはずのその景色を、美咲はしばらく黙って見つめる。


 この場所で、たくさんの時間を過ごしてきた。

 未沙のそばで学んで、未沙がいないあいだも守ってきた。

 うまくできた日ばかりじゃない。

 迷ったことも、足りなさを思い知ったことも、何度もあった。


 それでも、自分はここに立ち続けてきた。


 未沙のようにはなれない。

 たぶん、これからもなれない。


 でも、未沙が見てきたのは、そういう自分だったのかもしれない。

 足りないところも、迷うところもあるまま、それでもここでやってきた自分を見て、

 任せたいと思ってくれたのかもしれない。


 だったら。


 美咲は、ゆっくり息を吸った。


 やろう、と美咲は思った。


 未沙に自分を似せるためじゃない。

 自分のままで、この場所を続けていくために。


 継ごう、と心の中ではっきり言ったとき、不思議と胸の奥が静かになった。

 不安が消えたわけではない。

 自信がついたわけでもない。

 それでも、その不安ごと引き受けようと思えた。


 この場所を継ぐ。


 その決心はまだ熱を持ったまま、胸の内に小さく、けれどたしかに灯っていた。


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